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知らずに過ごしていたときは当然ながら気にも留めず、だが一度知ってしまえばこうもタイミングが重なることって一体なんだろうな、と遠海は思う。ジャズバーの一件からまだ一週間も経たないだろうと思う雨の日に、遠海は再び三倉と出くわした。今度は映画館だった。
休日、時間を持て余していたからやって来た映画館で、特にこれが観たいというものがあるわけではなかった。一方で三倉は妻の蒼生子を伴って来ていて、チケット売り場に並んでいた。日曜日の雨の日、遠海と同じように時間を持て余した人で映画館はわりと混雑していた。
遠海はもう、この男に出くわすとなんとなく落ち着かない気分になることに気づいていた。それがどういう感情から来るものかまでは図りかねている。けれど自分の感情を追及しようとまでは思わなかった。突き詰めてしまえばなにか恐ろしいものが顔を覗かせそうで、それはあまり歓迎すべき事柄ではなかった。
ぼんやりとロビーのソファに腰かけていただけの遠海を見つけた三倉は、ひらひらと手を振った。チケット売り場に並んでいたのにわざわざ離れて遠海の傍へやって来る。
「今日はお休みですか?」と三倉はゆったりと笑って座っている遠海に話しかける。
「休みです。……三倉さんも、」と、三倉の妻が並んでいるチケット売り場にちらりと目をやる。「奥さまと仲がいいですね。デートですか?」
「あ? ああ、そうだね。うちは結婚してもう十年経つけど、子どもがいないもんでね」
そのとき三倉は遠い場所を見るような表情を一瞬だけ見せたので、遠海は僅かな違和感を受け取った。
「学生の頃からの付きあいだから、夫婦だけど、友だちみたいな感覚があるかな。……なに観に来たんです?」
にこっと三倉は微笑む。「特になにも」と答えると、三倉は驚きながらも興味津々に顔を明るくした。
「映画を観に来たんじゃないんですか?」
「そう、ですね……。暇つぶしというか、」
「ああ、これから観る映画を決めるの?」
「いえ、……映画館が好きなだけです」
「観るつもりはない、ってこと?」
「はい。面白そうなものがあれば、と思いましたが、今日は別に観なくてもいいかな、と」
三倉はやや面食らったような顔をしていたが、やがて口元に手を当ててくすくすと笑い出した。「特に観たい映画もないのに映画館に来るのかあ」
「……馬鹿にしてます?」
「あ、そう受け取ったなら謝ります。馬鹿にしたつもりは全くないんです、ごめんなさい。ただやっぱりあなた、はユニークな発想をしているような気がして」
「……」
「着眼点が違って面白い。常識とか、普通は、ってことに捕われていないってことなのかな? なんかいいよなあ、鴇田さん」
それから三倉は顔を上げ、妻の並んでいるはずのチケット売り場に目をやった。「よかったら一緒に映画を観ません?」という。
「――いや、それは」
「席がうまくみっつ空いてるといいな。――鴇田さんが嫌でなければ」
「いえ、……ご夫婦の時間に混ざるわけには」
「ああ、ならたまたまここに居合わせた縁、てやつです。この間の雷雨に入ったあの店であなたがピアノを弾いていたタイミングみたいたもの」
ね、とやさしく、だが強引に売り場へ引っ張って行かれた。ちょうど購入順がまわって来たところで、蒼生子にわけを話すと彼女も嫌な顔ひとつせず「もちろんどうぞ」と言う。三倉は「大人三人」と言ってさっさとチケットを買うと、列から離れて改めてソファへ座りなおした。
じゃ、これ鴇田さんの分のチケットね、と手渡され、遠海は呆気にとられてしまった。
「まだ上映まで少し時間があるね。つまらないと思ったら寝てもいいし、途中退席してもいいですから。私の好きな俳優の言葉ですが、映画なんてそれぞれが好きに観ればいいよ、だそうです」
チケットには知らないタイトルが印字されていた。せめて料金をと申し出たが、「強引に誘いましたし」と断られてしまった。
「じゃあ、……飲み物は僕が出します」
「気にすることないのに」
「気にしますよ、そりゃ」
三人分の軽食を買い込み、開場になったシアターへ移動する。蒼生子と遠海で三倉を挟むようにして座った。
三倉の隣から蒼生子が「ごめんなさいね」といまさらながらに夫の強引さを謝罪した。
「いえ、……まあ、なんかもう、三倉さんに対してはいいです」
「ふふ」
「どういうことだよ」
「好きに取ってください。……どういう映画ですか?」
チラシやポスターは置いてあったがろくに眺めないうちに入場してしまった。夫妻はパンフレットを後で購入予定だと話していたので、遠海はこの映画のことをなにも知りようがなかった。
劇場内にはあまり人がいなかった。休日であってもこれを見ようという人は少ないらしい。さほどの話題作でもないのだ。三倉は「画家の一日」と端的に答えた。
「画家の一日、」
「ええ。実在した画家の一日の様子をただ映した映画だそうです」
「ドキュメンタリーですか?」
「いいえ。役者が演じていますよ。ほら」
と、三倉はいつの間にか手にしていたチラシを遠海に見せた。そこには確かに有名な俳優らの名前が連なっていた。ベテラン級が勢揃いしている。
三倉の向こうから蒼生子が「こういうスローな映画が暖の趣味なの」と苦笑した。
「暖はゆるいライフスタイルを描いた映画が大好き。読む本も漫画も、聴く音楽もそう。興味惹かれるのは梅干しを何十年も漬け続けて来たおばあちゃんで、美しい見た目のハリウッド女優にはホントにつまらなそうな顔するんです」
「……蒼生子さんはハリウッドスターが出てくるような映画が好きなんですか?」
「ふふふ、そうね。血湧き肉躍るようなストーリーと演出の映画が好きだわ。これは暖と趣味が全然合わないの」
「蒼生子さんの好きな映画はおれには刺激が強すぎるよ」
と、三倉は椅子に深く沈む。だったらふたりで映画を観るよりもひとりで観た方がいいのではないかと思ったが、そこは夫婦の関係性の問題なので遠海は口の挟みようがない。
三倉に「鴇田さんはどういう映画が好きなの?」と訊かれ、遠海はすこし考える。
「……洋画が好きです、多分」
「多分ってなによ」
「あまりたくさん映画を観ている訳ではないので」
「休みの日に映画館に来ちゃうぐらいなのに?」
「映画館の雰囲気が好きなだけです」
「……いままでで観た映画の中でいちばん面白いと思った映画って、なに?」
三倉が話題を変えた。
「オーケストラのドタバタを描いた映画、ですかね。言葉は英語ですらなくて全く分からなかったですけど、音が良くて、好きでした。昔は名演を鳴らしたオーケストラが金の都合で解散して、でも一念発起して昔の仲間で最高の音楽を奏でる話。もう年取った人たちがいい音出すんですよ。何度も観ました」
「面白そうだ」
「いまはもう配信されてたりDVDになってるんじゃないですかね。……いつかどうぞ。お勧めします」
ぽつぽつと喋っているうちにフッと明かりが落ちた。「はじまる」と小声で三倉が呟く。はじめは別の映画の番宣や劇場での注意事項で数分。やがて静かに本編の上映がはじまった。
緑色の映画、と遠海は思った。
とにかく自然描写が凄い。延々と蟻の蠢きをカメラは飽きずダイナミックに追っているのだから驚いた。本当に実在する人を撮っている、と俳優自身が画家そのもののように感じられて、錯覚した。その妻役の女優も、脇役も、こういう人たちが存在したと思わせるリアリティがあるのに、どこかコミカル。映画にはぐんぐんと引き込まれた。
買ったサイダーを飲もうと左手を伸ばすと、同じくドリンクに手を伸ばしたらしい三倉の手と重なり、そこで現実に引き戻された。
「――すみません、」息の音だけで謝る。
「いや、こちらこそ」
その戻された現実の中で、三倉の隣には静かに健やかな寝息があることに気づいた。
「……蒼生子さん、」
「うん、寝ちゃった」
つまんないんだろうなあ、と三倉は苦笑する。そしてドリンクをひと口飲んで僅かに体をずらす。とん、と三倉の右膝の先が遠海の左膝に当たり、途端遠海の身体中の血液がそこへ集まってしまったかのように、熱く思えた。硬い膝から、温度がどんどん伝わる。
三倉は気にする風でもなく、それ以上は動かなかった。正確には、あまり動けなかったのだろう。蒼生子が三倉の左肩にもたれかかっていたからだ。
それがなんだか羨ましくて、淋しいと思った。
「面白い?」と三倉が小声で訊ねる。
「――面白いです」
嘘ではなかったが、嘘だったとしても自分はそう答える気がした。「よかった」と三倉が満足そうに息を吐く。
その後の映画の内容はあまり入ってこなかった。遠海は、触れる膝頭の熱さがずっと続きますようにと願った。
触れることへの抵抗のなさがむなしく、それどころかもっとと求めてしまう自分がいることは、悲しいことだった。
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次にステージに上がるころには遠海は覚悟していた。案の定、男の席は最後列からカウンター席へ移っていた。ステージに近い、音がよく響く席だ。
そこで三曲ほど三人で演奏した。終わると今度は紗羽とケントが脇のテーブル席へ引っ込む。ピアニストはあくまでも店のBGMで、目立つような演奏は極力控えた。けれど男は興味津々な眼で、一心に遠海を見つめている。
思いつくままに何曲か弾き、トリルで終わらせるとパラパラと拍手が起きた。交代で紗羽とケントが再び登場した。紗羽が手にしているのはアコースティックギターで、ケントはカホーンを抱えている。彼らは遠海と違って楽器ならなんでも手を出す。特に紗羽は音楽教諭という性質上、楽器全般いけた。カホーンの上に座ったケントはマイクを引き寄せると、「すこし歌います」と言って場を沸かせた。紗羽のギターがやさしく響く。カホーンでうまくリズムを取りながら、ケントが甘い低音を響かせる。
遠海はこの隙にバックヤードに引っ込もうとして、当然のように失敗する。「鴇田さん」と声をかけられたものを無視するわけにはいかなかった。
三倉が嬉しそうな顔でピアノの傍にいた。ステージとテーブルとの境がないこの店の造りをわりと気に入っていたが、今日はそうは思えなかった。
「話が積もってるんで、出番がいいならあちらで飲みません?」と三倉は言う。断る理由を見つけられなかった。
カウンター席へ移動すると、カウンター内にいた伊丹がなにも言わずにペリエを出してくれた。それを見た三倉が「奢りますからなにか頼んでください」と誘う。遠海はもう捨て鉢な気分で「ジントニック」と頼むと、伊丹は頷く。このバーテンダーはカウンター内では意図して無口になる。
「驚いたなあ」と三倉はしみじみと言った。仕方がないので遠海から口をひらく。
「今日はお仕事でしたか?」
「んん、そうです。仕事シゴト。でも天気がほら、すごかったですよね。ゲリラ豪雨でさ。早めに切りあげてさてどこでめし食おうって話してて、この店に寄ったのは偶然なんです。そこであなたがピアノ弾いてるもんだから、まー驚いたな。参りました。すごかった、あの『水琴窟』」
曲名まで知っているとは思わず、聞けば三倉の妻が好きなミュージシャンの曲だったから、という答えがあった。
――そういえば確かに左手には指輪が嵌まっていた。既婚者なのだ。
「――今日は奥様とご一緒ですか、」
「あ、いま手洗い。じきに戻ると思うんであとで紹介しますよ」
そこにオーダーしたジントニックが差し出された。三倉の元にもあたらしい酒が来る。「素晴らしかった」と三倉は自然な動作でグラスを持ちあげるので、遠海も持ちあげて、軽く杯を合わせた。照れくさくて目を逸らす。
店内にはケントの甘い声が静かに響いている。曲は「Here`s That Rainy Day」。ケントが歌うので下手な日本人シンガーが歌うより余計に「らしく」聴こえる。原曲のべたな甘さが遠海はあまり好きではなかったが、ケントはすっきりと歌うし、紗羽の伴奏も余計な余韻を残さない。嫌いになれない曲だった。
「彼も素敵ですね」と三倉が言った。
「彼ら、か。ご夫婦でジャズとは楽しそうだ」
「情報が早いですね」
「スタッフ捕まえて根掘り葉掘り、あとは常連の方が教えてくれましたよ。これだけの技量だとプロってことですか? 副業?」
「いえ、趣味です」
「まさか」
「本当です。そもそも僕の職場は原則副業禁止ですし、それはあそこのギタリストも同じです。ただなんとなく集まってこうやって弾かせてもらっているだけで」
「田代はこれ知ってる?」
「知らないはずです。言ったことはありません」
「ですよね。知ってたらもう絶対、なにがなんでもあなたに取材してたかったなあ」
複雑な表情を浮かべて三倉は悔しがる。遠海は黙ってジントニックをひと口含む。
「内緒にしておいてください」と言うと、きょとんとした顔で「どうして?」と訊ね返された。
「ピアノのことはあまり人には話していないんです」
「こんなに素晴らしい演奏が出来て、隠す必要はなさそうですよ」
「あまり目立ちたくないので」
「ああ、クローズアップされたくないんでしたね。理由を聞かせてもらえたら、内緒にします」
「クローズアップする必要が僕にはないからです」
「ない? なぜ?」
三倉は腕を組んだ。なにか考え、しばらくして「あんな曲を弾くのに?」と訊いた。
「……僕は」
「はる、」
言いかけた台詞にかぶせるように、女性が単語を発した。「はる」に三倉が「あ、お帰り」と振り返るので、なんの冗談かと思った。
ショートカットの小柄な女性が三倉の隣にやって来る。あまり派手な印象を受けず、むしろそばかすの散る肌をそのままに見せている点で地味さを感じさせたが、白シャツにデニムというカジュアルでさっぱりしたいでたちは彼女によく似合っていた。
「遅かったね」と三倉は彼女に声をかける。
「んー、その、……今夜はね、……」と女性は三倉にぼそぼそと耳打ちをする。三倉は頷き、「ま、次ね」と彼女の二の腕をそっと擦った。それを見て、親しいんだな、と思った。夫婦なら当たり前か。だが遠海にはかつて一度も訪れたことのない親密な仕草で、僅かに息苦しさを感じた。
改めて女の視線が遠海に注がれ、「ピアニストの方ですね」と素朴に微笑んだ。野に咲く花ってこんな感じの愛らしさだ、と遠海は思う。そしてそれは三倉という男の傍に相応しかった。
「妻の蒼生子(たみこ)です」と三倉が言う。
「はじめまして。先ほどの演奏素晴らしかったです」
「ありがとうございます」
「はるがしきりに、いやーすごい、すごいなあ、驚いたなあなんて言うから、ちょっと黙っててよって言っちゃったぐらい」
「はる、」
思わず復唱する。誰のことか分からなかった。
「ああ、三倉の下の名前です。女性みたいってよく言われてるけど……あなたちゃんと自己紹介しなかったの?」
「下の名前まではね。名刺は一応渡したっていうか、置いてったけど」
夫婦のやり取りを聞いても分からない。「はる?」と訊くと、三倉は「ん?」と遠海を見た。
「ダン、なのでは?」
「え?」
「だって田代さんがそう呼んでたし、漢字も」
――三倉暖。
しばらく間が出来て、出来たのちに三倉は豪快に笑った。くしゃくしゃの顔で、その緩みに遠海はなんだかとてつもなく恥ずかしくなった。
「いやごめんなさいね」と三倉が言う。
「田代はおれのことダン、と呼びますけどね。音読みしただけのあだ名なんです。温暖の暖と書いて、はる、と読みます」
勘違いしていたのだ。何度も名刺を見返したくせに、……いや、フリガナを振らない名刺を寄越した三倉が悪い。
遠海は顔をそらした。頬が熱い。
「ごめんねって」
「はる、そんなに笑うことないじゃない。あなたの名前が難読なのがいけないのよ」
「それは親に言ってくれよ。――いや、悪かった、ごめんなさいってば、鴇田さん」
あまりにも恥ずかしすぎて遠海は全身が汗ばんでくるのを感じた。ステージでピアノを弾いている姿を見られることより何倍も恥ずかしかった。
知らずに、みくらだん、とか心の中で何度も読んでいた。ばかみたいだ。
「鴇田さん、そんなに怒らないでってば」と三倉はあくまでもノリが軽い。まだ笑っている。笑っているうちにステージを下りたケントが「ラスト行けますか?」と伺いに来た。
頷いて、遠海は三倉夫妻の顔を見ないまま席を立つ。だが三倉が「あー、鴇田さん鴇田さん」と遠海を呼んだ。
「また来ますね。私ら今夜はこれで行きますんで。惜しいですけど」
遠海のしかめっ面にまだくすくすと笑っている。
「この辺で水琴窟聞けるところあるって、ご存知ですか?」
「――え?」
「めし屋の中庭なんですけどね。今度そこへめし食いに行きましょう」
三倉も蒼生子も立ちあがり、蒼生子は「主人がごめんなさい」と深く頭を下げた。よほど仲がいいのか、店を出るとき蒼生子の手は三倉の腕にそっと添えられていた。
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ドレスコードというドレスコードはないのだが、Tシャツにデニムはちょっとね、という伊丹からの申し出で、ここで演奏するときは三人とも黒っぽい服装に着替えている。紗羽だったらたいていは黒いブラウスに細身のパンツで、ヒールを履く。ケントはこの辺りきちんとしていて、黒シャツにタイを締め、そのタイが演奏に邪魔にならぬようベストを着る。オーストラリア人という体躯にこれがとても似合い、甘いマスクも手伝ってケント目当てで来る女性客もいると伊丹は言っていた。もっとも、すぐに左手薬指に嵌まった指輪を見てがっかりしていくそうだが。
遠海は「どうだっていい」。黒いズボンに靴、黒シャツでも合わせておけばいいと思っていて、だからなにもしないに近い。今日だってここへ来るのにズボンとシャツはあらかじめ着ておいて、スニーカーを履き替えただけだ。コーヒーを飲む姿勢のまま動こうともしない遠海に、ケントが「トーミ、そのシャツにアイロンかけました?」と訊ねる。
「かけたよ」
「しわしわです」
「着っぱなしでここに来たせいかな」
「今日も仕事じゃなかったんですか?」
「今日は休み」
「遠海くんは昼ごろここに来てからずっとピアノを触ってたよ」
伊丹が苦笑しながらコーヒーカップを下げる。察したのか、ケントは鼻から息を吐いて遠海の傍へ寄って来た。
「黒だから皺なんて目立たないよ。スポット浴びるわけでもないし」
「せめて髪。前髪あげましょう」
「スタイリング剤持ってない」
「僕のを使いましょう」
触りますよ、と言ってケントは遠海の髪に触れて来た。べたべたするクリームのついた大きなてのひらに頭がすっぽりと包まれ、遠海は息苦しさを感じる。触れられることが好きではない。ケントのように近い人間にでも、こうやって「触りますよ」と言わせるぐらいに。
ワックスに混ぜ込まれたシトラス系の香りも不快だったが、これでもこういう類のクリームにしては匂いが控えめであることは分かる。ケントはわしゃわしゃと髪にクリームを揉み込んだあと、毛先を捩ったり撫でつけたりして遠海の見てくれをなんとかまともにしてくれた。
「あ、それなりになってる」
着替え終えた紗羽が戻って来てひと言そう言った。彼女はメイクも済ませていた。学校教諭という仕事は忙しいと言い、そのおかげか彼女には三分で完璧な化粧を済ませる技術が身についている。
いつの間にか店は開店を迎えていた。セッションがはじまる時間はまちまちだが、開店して十五分から三十分ほど経てばおおむね出番となる。化粧室から移動してきた紗羽が「今日は」とソファに腰かけて言う。「客の入りが読めないね。雷雨で街が混乱してる感じがする」と見解を示した。
「お客さん、入ってない?」
「んー、金曜日の夜にしたら全然。でもこういう日ってわかんないんだよね。ある時間になってどっと混みだしたりするから」
「サワ、ボタンが外れています」
「おっと、やだな。どこ?」
「back」
ケントが紗羽の背後にまわり、首すじにあるブラウスのボタンを留める。他愛ないことを三人でぽつぽつと喋っていたが、返事が面倒で目を瞑っているうちに遠海はいつの間にか眠っていた。脳内でA音が響く。ラー、ラー、ラー。
ぱちっと目が覚めるといつの間にか遠海ひとりがバックヤードのソファに取り残されていた。店内からぽろぽろと弦が弾かれる音がする。寝てしまった、と慌てていると、伊丹が顔を覗かせた。
「起きた? 出番だよ」
「あー……」
「ドラムとベースがいてもね、やっぱりピアノがいないとね。お客さん、けっこう入ってるよ」
そう言って伊丹はまたカウンター内へと戻っていく。顔を揉み、軽く頬をはたき、膝を叩いて遠海は立ちあがる。
客が座るテーブルと楽器の据えられたステージとはほぼ同化しているようなもので、めいめいが好きに食事やアルコールを楽しんでいる中を、遠海は存在感なく進む。控えめなドラムとコントラバスは客の喧騒にかき消されても音楽をゆったりと楽しんでいた。そこへようやく姿を現したピアニストを見て、ベーシストは口のかたちだけで「遅刻」と言ってみせて、ドラマーはウインクを投げ寄越してきた。
ポーンと白鍵をひとつだけ鳴らす。ピアニストに気づいた客がすこしざわついて、やがて耳をすませるかのように音量が下がる。別に気づかなくたっていいのにな、と遠海は思う。僕に気がつかなくていい。それぞれがそれぞれに料理やお酒やお喋りを楽しめばいい。ただそれにすこしだけ間が出来てしまったとき、底辺に音楽が流れていることが救いになればいい。またお喋りや食事を楽しむための繋ぎの音楽。だから意識しなくたっていいのに。
タンタンタン、とケントがスティックではじめのリズムを打ち鳴らす。音楽がはじまる。今日は雨だったから天候に関する曲をやることにしている。はじめは皆が知っているような曲を、やわらかく。「Raindrops Keep Fallin’ On My Head――雨にぬれても――」。「あめのひとぼく」、「Over The Rainbow」。
「客のノリがいい」とぽそり、何曲か続けたあとに紗羽が呟いた。
「あれやろうよあれ。今日ならぴったりじゃない?」
「え、あれ雨に関係ないだろ?」
「関係あるでしょ、『水琴窟』なんてまともに聞こえてくるのは雨の日だけよ」
最終的には「行け」とでも言うようにケントがウインクを投げるので、「これ終わったら下がるよ」と小声で申し立てて、遠海ははじめのメロディーを鳴らす。
ゆっくりと水が流れるようにはじまるメロディーライン。硬い鍵盤をぱらぱらとはじき、高音から低音へとくだり落ちる。ほんの少しの間。三人で息を合わせて今度はいきなり疾走する。全力で、容赦なく。
とにかくピアノの超絶技巧に頼る曲をはじめに「やろう」と言い出したのは紗羽だった。アレンジを工夫して、三人でもジャズ調に演奏出来るよう単純化して曲を組みあげたのはケントだ。息が切れるほど鍵盤を強く叩き、弾き、跳ねまわる。音量のことは全く気にしない。
遠海がこれだけ力強く楽器を叩く曲はいまのところこれだけだ。反対に、いつもは女性とは思えないほど強気な音を出す紗羽の弦は、この曲ではあくまでも下地をつくり、大人しい。ケントのリズムが激走するピアノに道標を示す。これだけ疲れ果てる曲なのに、終わるころには終わるな、終わるな、と思っている。
客が固唾をのんで曲に聞き入っている。とんでもない音を出しているくせに、ひどく静かだ。最後、余韻を残して一音を響かせ終えると、不思議な沈黙が空間を支配していた。しばらくして拍手が起こる。
見遣る必要などないのに、客のいる方へ遠海は顔を向けた。額から汗が流れていて不快だ。拍手にざわめく客の、奥のちいさなテーブルに男女が腰かけているのが見えた。首を精一杯長くして、男の方がこちらを熱心に見ている。
くりっとまるく好奇心に見ひらかれた目。身体にぴったりとそぐったシャツ。それを見た途端、遠海はとっさに席を立った。
「遠海?」
「疲れた。下がる」
あと繋いどいて、と言ってステージから引っ込む。バックヤードに下がり、ソファにぐったりと沈み込んだ。
――なんだよ、なんでいるんだ。
遠海を追いかけてケントがやって来た。「トーミ、」と声をかけられたが応える気力もない。ケントは用意されていたピッチャーからグラスにつめたい水をたっぷりと注ぎ、「おつかれさまです」と言って遠海に寄越す。ライムの香りのするそれを、遠海はようやく受け取る。
「すごくよかったですよ、トーミ。……トーミ?」
「……」
「顔色が、」
受け取ったグラスからごくごくと水を飲み干すと、乱暴に音を立ててグラスをテーブルに置き、またソファに沈み込んだ。
「……なんでいるんだろう」
「知りあいでも?」
「うん、……」
やがて場をソロで繋いでいた紗羽も戻って来た。店内にはレコードの音声が流れはじめる。
「遠海?」
「あー、疲れちゃったって。そっとしておいて、サワ」
「そうよね。でも、すごくよかったよ」
楽しかったね、と紗羽は弾ける笑顔で言った。確かに楽しかった。楽しかったけれど終わりがよくない。
遠海は目を閉じる。きっとこれで帰るだなんてことをあの男はしなさそうだな、と遠海は名や、好奇心で興奮していた目つきを思い浮かべる。
全く。
なんでいるんだ、三倉暖。
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今日の一曲(別窓)
数日ほどで例の記事が掲載された。
「あおばのわかば」と題されたコーナーには、遠海の全く知らない女性がえくぼをつくってこちらを見ていた。商店街の老舗和菓子屋にこの春から職人見習いとして働きはじめたと書かれていた。どういう繋がりで遠海から彼女に行きついたのかは分からない。ただ、記事の最後に「三倉暖」と記者の名前が記されていたので、あの男の取材だということは分かった。
昼休憩中にそれをぼんやりと眺めていると、背後から「おまえじゃなくて残念だったって」と声がかかった。振り向かずとも田代だと分かった。
田代が向かいに座り、弁当を広げはじめる。
「誰です? このお嬢さん」
「かわいいだろ、紹介しようか? おれの姪っ子だよ。高校卒業したてで、まだ十代」
「じゃあ紹介されても僕は条例違反で捕まりますね」
「十八歳だから大丈夫なんじゃない? 純愛だし」
「純愛ですか。会ってもいませんけど」
どうでもよいことを言いあう。ふと田代は「ダン、どうだった?」と訊いた。
「ダン?」
「あー、あだ名。三倉のこと」
「どうだったと訊かれても」田代の友人だけあるのか、好奇心に溢れていて少々、いやすごく強引だったな、と思う。新聞記者という特性なのか。
「ダンとなに話した?」
「特に別に、です。差しさわりのない世間話」
「面白いやつだったろ。なに言っても興味津々に打ち返してくる。おまえのこと気に入ってたよ。またぜひ話聞きたいってさ」
「誰にでもああなんですか?」
「ああ?」
「興味津々」
「うーん、だから記者やってんだろうね」
田代は笑う。興味津々なのは分かったから、興味をよそに移してくれと言いたくなる。言葉にはせず黙り込む。
田代はさして気にする風でもなく、隣で弁当を頬張る。この男は食事が速い。あっという間に弁当を腹におさめ終え、食後の茶をすすると、遠海に顔を向けた。
「また会うかもな」
「三倉さんに?」
「うん。今度は別ルートの取材でうちの職場に行くかも、って話してたから」
「社長が脱税してるとか、違法産廃処理してるとか?」
「さすがにそのルートはないよ。仕事してて分かるだろ」
「……そうですね」
「ま、そういうわけでよろしくな」
なにがよろしくなんだろうか。田代は空になった弁当箱を持って場を引きあげる。
遠海はポケットを探って折り畳みの財布を取り出した。そこには先日の名刺が挟み込んである。
『あおばタイムス記者 三倉暖』
――みくら、だん。
変な名前、とは思わない。思わないぐらいその名刺を眺め、音を何度も呟いていた。
「あおばのわかば」と題されたコーナーには、遠海の全く知らない女性がえくぼをつくってこちらを見ていた。商店街の老舗和菓子屋にこの春から職人見習いとして働きはじめたと書かれていた。どういう繋がりで遠海から彼女に行きついたのかは分からない。ただ、記事の最後に「三倉暖」と記者の名前が記されていたので、あの男の取材だということは分かった。
昼休憩中にそれをぼんやりと眺めていると、背後から「おまえじゃなくて残念だったって」と声がかかった。振り向かずとも田代だと分かった。
田代が向かいに座り、弁当を広げはじめる。
「誰です? このお嬢さん」
「かわいいだろ、紹介しようか? おれの姪っ子だよ。高校卒業したてで、まだ十代」
「じゃあ紹介されても僕は条例違反で捕まりますね」
「十八歳だから大丈夫なんじゃない? 純愛だし」
「純愛ですか。会ってもいませんけど」
どうでもよいことを言いあう。ふと田代は「ダン、どうだった?」と訊いた。
「ダン?」
「あー、あだ名。三倉のこと」
「どうだったと訊かれても」田代の友人だけあるのか、好奇心に溢れていて少々、いやすごく強引だったな、と思う。新聞記者という特性なのか。
「ダンとなに話した?」
「特に別に、です。差しさわりのない世間話」
「面白いやつだったろ。なに言っても興味津々に打ち返してくる。おまえのこと気に入ってたよ。またぜひ話聞きたいってさ」
「誰にでもああなんですか?」
「ああ?」
「興味津々」
「うーん、だから記者やってんだろうね」
田代は笑う。興味津々なのは分かったから、興味をよそに移してくれと言いたくなる。言葉にはせず黙り込む。
田代はさして気にする風でもなく、隣で弁当を頬張る。この男は食事が速い。あっという間に弁当を腹におさめ終え、食後の茶をすすると、遠海に顔を向けた。
「また会うかもな」
「三倉さんに?」
「うん。今度は別ルートの取材でうちの職場に行くかも、って話してたから」
「社長が脱税してるとか、違法産廃処理してるとか?」
「さすがにそのルートはないよ。仕事してて分かるだろ」
「……そうですね」
「ま、そういうわけでよろしくな」
なにがよろしくなんだろうか。田代は空になった弁当箱を持って場を引きあげる。
遠海はポケットを探って折り畳みの財布を取り出した。そこには先日の名刺が挟み込んである。
『あおばタイムス記者 三倉暖』
――みくら、だん。
変な名前、とは思わない。思わないぐらいその名刺を眺め、音を何度も呟いていた。
ポーン、と白鍵をひとつだけ鳴らす。『A』、つまりラの音はすべてのはじまりの音だ。オーケストラの演奏の、最初のチューニングでオーボエが鳴らす音。440Hz。そういえば赤ん坊が生まれるときはこの音程だと聞いたことがあるけれど本当だろうか。それを実際に確かめる手段は、いまのところ遠海には訪れないが。
ポーン、ポーンと飽きず鳴らす。A音だけで演奏が出来るかもしれない、と想像する。夢中になっていると「遠海」と声を掛けられたので指を止める。そこに立っていたのはベーシストの樋口紗羽(ひぐちさわ)だった。
早いね、と言うと、「今日は部活動がなかったから」と紗羽は答えた。
「隣町で落雷があって一部地域が停電しちゃったの。うちの学校は大丈夫だったけど心配した保護者がうちの子大丈夫かって電話寄越すもんだから、保護者に迎えに来てもらってみんな帰しちゃった」
「え? あった? 落雷」
「さっきまでゴロゴロ言ってたよ。……ここじゃ分かんないか、地下だし」
喋りながら紗羽は楽器を肩から下ろして床に置き、ケースから取り出す。きれいな飴色にコーティングされたコントラバスだ。
「落雷の中、親の送迎で帰るなんて時代も変わったなんて思っちゃう。雷鳴ってたら移動するより学校にいる方が安全なのにね」と最近の保護者の過保護ぶりをたらたらと漏らす。遠海は特に相槌を挟んだりコメントを述べたりはしないのだが、紗羽は構わず喋る。この女性はおおむねそんな感じだ。
「ケントは?」
「そのうち来る。いまごろ雷にビクビクしながらこっち向かってるんじゃないかな。あの人、雷大嫌いだから」
紗羽はボーンと一弦を引っ掻く。
遠海と、このコントラバスを弾く女性・紗羽と、ドラムの樋口ケントは、一応三人でジャズトリオを組んでいる。一応、というのは正式に組んだ訳ではなく、なんとなくいつも集まっているメンバーの中で気が合うから、なんとなく集まって演奏活動をしている、という曖昧さからだ。曖昧ゆえにグループ名もない。
紗羽とケントは夫婦で、紗羽は中学校で音楽の教員をしている。ケントはオーストラリアの生まれで、英語のアシスタントティーチャーとして日本へやって来て、紗羽と出会って結婚した。その際に紗羽の戸籍に入ったので、姿形こそ栗色の巻き毛・虹彩のうすい背の高い外国人だが、国籍は日本だ。
三人が主に活動するのは駅から近いジャズバーで、ここは完全に地下にある。音楽もいいが酒と料理もいい、ということでわりと人気があるようだが、そのことに遠海はあまり関心を持っていない。客の邪魔にならないようにポロポロ音を鳴らし、ときにリクエストに応える。音楽家として大成したいわけではない。ピアノが弾ければそれでいい。
バタバタと音がして店の扉が思い切りよくひらいた。ウインドブレーカーのフードをすっぽりとかぶって雨に濡れた男が「困った困った」と言いながら店内に踏み込んでくる。それを見た紗羽が慌てて男の傍に寄った。「店の中濡らさないで」とタオルを取り出すと、男は上着のフードをおろしてようやくニッと笑った。
「トーミ、雷は嫌です」とケントが紗羽に雨粒を拭われながら遠海の方を向いた。
「雷、そんなに酷い? 僕は早くここに来たから、よく分からないんだ」
「あー、それはいいですね」
体を拭ってくれている妻の手をケントはあっさり握る。「ありがとう」と言ってパーカーを脱ぎ、Tシャツ姿になって店のコート掛けに上着を吊るした。
ケントが鞄から取り出したのはスティックを収めてあるケースだ。遠海の背後に置かれているドラムセットに近づき、そこで楽器のセッティングをはじめた。三人揃えばセッションが出来る。店の開店まではあと三十分ほどあり、めいめい好きに音を鳴らしたあと、軽く音を合わせた。「こんな日は虹が見たいですね」とケントが言ったので、曲は「Over The Rainbow」。
音を合わせながらケントは鼻歌を歌う。低く甘い声は微かにしか届かないが、遠海はその鼻歌を心地よいと感じる。紗羽だってそうだろう。このメンバーにボーカリストを迎えてセッションをするときもあるが、遠海にとってこの名前すらないバンドのボーカリストは、ケントであると思っている。
「トーミ、音が走ってる」と鼻歌の合間にケントが指摘した。
「速い?」遠海はケントのドラムを慎重に聴いてテンポを掴もうと試みる。
「いえ、いつもより軽いです。サワは重い」
「うるさいわね」紗羽が苦笑する。
「トーミの音はいつもニュートラルですから、今日はなんだか珍しいですね」
そう言ってまた鼻歌に戻る。遠海は内心で渋い気持ちになっていた。どうしてなのか、芸術ってのは内面を写す鏡であるらしく、こんな風に表現となって表れてしまう。
適当なところでドラムが止まり、音楽がふつりと途絶える。開店まであと十五分程度。三人はいったんバックヤードに下がる。
マスターでオーナーの伊丹(いたみ)が三人分のコーヒーを持って来た。今日もいい音だと褒めてくれる。
「これでプロじゃないってんだから困っちゃうねぇ」と伊丹もまたコーヒーを口にしながら言う。
「趣味だから出せる音ってのがあるのよ。下手に仕事にして音楽にプレッシャー感じて嫌いになるよりずっといいの、私たちは、これで」
「さすが学校の先生は説得力があるね」
「体よく諦めを覚えちゃっただけよ」
そう言ってコーヒーをひと息に飲み干し、紗羽は立ちあがる。「着替えて来る」と言って化粧室へ下がった。それを聞いたケントも「そうだ、僕もです」と鞄から黒いシャツを取り出すと、その場でTシャツを脱ぎ着替えはじめた。
← 1
→ 3
今日の一曲(別窓開きます)
ポーン、ポーンと飽きず鳴らす。A音だけで演奏が出来るかもしれない、と想像する。夢中になっていると「遠海」と声を掛けられたので指を止める。そこに立っていたのはベーシストの樋口紗羽(ひぐちさわ)だった。
早いね、と言うと、「今日は部活動がなかったから」と紗羽は答えた。
「隣町で落雷があって一部地域が停電しちゃったの。うちの学校は大丈夫だったけど心配した保護者がうちの子大丈夫かって電話寄越すもんだから、保護者に迎えに来てもらってみんな帰しちゃった」
「え? あった? 落雷」
「さっきまでゴロゴロ言ってたよ。……ここじゃ分かんないか、地下だし」
喋りながら紗羽は楽器を肩から下ろして床に置き、ケースから取り出す。きれいな飴色にコーティングされたコントラバスだ。
「落雷の中、親の送迎で帰るなんて時代も変わったなんて思っちゃう。雷鳴ってたら移動するより学校にいる方が安全なのにね」と最近の保護者の過保護ぶりをたらたらと漏らす。遠海は特に相槌を挟んだりコメントを述べたりはしないのだが、紗羽は構わず喋る。この女性はおおむねそんな感じだ。
「ケントは?」
「そのうち来る。いまごろ雷にビクビクしながらこっち向かってるんじゃないかな。あの人、雷大嫌いだから」
紗羽はボーンと一弦を引っ掻く。
遠海と、このコントラバスを弾く女性・紗羽と、ドラムの樋口ケントは、一応三人でジャズトリオを組んでいる。一応、というのは正式に組んだ訳ではなく、なんとなくいつも集まっているメンバーの中で気が合うから、なんとなく集まって演奏活動をしている、という曖昧さからだ。曖昧ゆえにグループ名もない。
紗羽とケントは夫婦で、紗羽は中学校で音楽の教員をしている。ケントはオーストラリアの生まれで、英語のアシスタントティーチャーとして日本へやって来て、紗羽と出会って結婚した。その際に紗羽の戸籍に入ったので、姿形こそ栗色の巻き毛・虹彩のうすい背の高い外国人だが、国籍は日本だ。
三人が主に活動するのは駅から近いジャズバーで、ここは完全に地下にある。音楽もいいが酒と料理もいい、ということでわりと人気があるようだが、そのことに遠海はあまり関心を持っていない。客の邪魔にならないようにポロポロ音を鳴らし、ときにリクエストに応える。音楽家として大成したいわけではない。ピアノが弾ければそれでいい。
バタバタと音がして店の扉が思い切りよくひらいた。ウインドブレーカーのフードをすっぽりとかぶって雨に濡れた男が「困った困った」と言いながら店内に踏み込んでくる。それを見た紗羽が慌てて男の傍に寄った。「店の中濡らさないで」とタオルを取り出すと、男は上着のフードをおろしてようやくニッと笑った。
「トーミ、雷は嫌です」とケントが紗羽に雨粒を拭われながら遠海の方を向いた。
「雷、そんなに酷い? 僕は早くここに来たから、よく分からないんだ」
「あー、それはいいですね」
体を拭ってくれている妻の手をケントはあっさり握る。「ありがとう」と言ってパーカーを脱ぎ、Tシャツ姿になって店のコート掛けに上着を吊るした。
ケントが鞄から取り出したのはスティックを収めてあるケースだ。遠海の背後に置かれているドラムセットに近づき、そこで楽器のセッティングをはじめた。三人揃えばセッションが出来る。店の開店まではあと三十分ほどあり、めいめい好きに音を鳴らしたあと、軽く音を合わせた。「こんな日は虹が見たいですね」とケントが言ったので、曲は「Over The Rainbow」。
音を合わせながらケントは鼻歌を歌う。低く甘い声は微かにしか届かないが、遠海はその鼻歌を心地よいと感じる。紗羽だってそうだろう。このメンバーにボーカリストを迎えてセッションをするときもあるが、遠海にとってこの名前すらないバンドのボーカリストは、ケントであると思っている。
「トーミ、音が走ってる」と鼻歌の合間にケントが指摘した。
「速い?」遠海はケントのドラムを慎重に聴いてテンポを掴もうと試みる。
「いえ、いつもより軽いです。サワは重い」
「うるさいわね」紗羽が苦笑する。
「トーミの音はいつもニュートラルですから、今日はなんだか珍しいですね」
そう言ってまた鼻歌に戻る。遠海は内心で渋い気持ちになっていた。どうしてなのか、芸術ってのは内面を写す鏡であるらしく、こんな風に表現となって表れてしまう。
適当なところでドラムが止まり、音楽がふつりと途絶える。開店まであと十五分程度。三人はいったんバックヤードに下がる。
マスターでオーナーの伊丹(いたみ)が三人分のコーヒーを持って来た。今日もいい音だと褒めてくれる。
「これでプロじゃないってんだから困っちゃうねぇ」と伊丹もまたコーヒーを口にしながら言う。
「趣味だから出せる音ってのがあるのよ。下手に仕事にして音楽にプレッシャー感じて嫌いになるよりずっといいの、私たちは、これで」
「さすが学校の先生は説得力があるね」
「体よく諦めを覚えちゃっただけよ」
そう言ってコーヒーをひと息に飲み干し、紗羽は立ちあがる。「着替えて来る」と言って化粧室へ下がった。それを聞いたケントも「そうだ、僕もです」と鞄から黒いシャツを取り出すと、その場でTシャツを脱ぎ着替えはじめた。
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今日の一曲(別窓開きます)
cloudy days
その日の昼頃、気象庁が関東地方の梅雨入りを発表したことを、出がけのニュース番組で鴇田遠海(ときたとおみ)は知った。
確かにここ数日、鈍色の雲が空には張られ、それは幼い子どものようにときに晴れ間を見せ、いきなり雷鳴を轟かせ、ざっと雨をもたらしたかと思うとまた曇る、そんな有様だった。そういえば「明日は雨が降る」と職場の事務員が予言していた。彼女は偏頭痛持ちで、気圧の下がる日は体調がすぐれない。
いま予言は外れている。どんよりと曇ってはいるのだが、雨は降っていない。
それでも気象予報士は傘の必要性を訴えていたので、半分ぐらいを信用することにしてブルーの折り畳み傘を鞄に突っ込んだ。テレビを消し、戸締まりをして、遠海は部屋の外に出る。
外へ出た途端に湿気た空気が肌にまとわりついたが、不快だとは思わなかった。遠海は六月生まれで、あと少しで二十八歳になる。生まれ月だから愛着でもあるのか、なんなのか、人が文句を言うほどにはそんなにこの季節のことが嫌いではない。気圧の変化による体調不良を経験したことがないせいかもしれない。
バスは空いていて、後方の座席に悠々と腰掛けた。ぱたっと音がして窓に雨が当たりはじめる。だがここから先は終点である駅前のバスターミナルで降りた後に地下鉄へ乗り換えるだけなので、雨が降ろうが傘の出番はあまりないだろう。
バスの運転手が独特のイントネーションでバス停の名前を告げる。聞いているうちに眠気を感じた。どうせ終点で降りるのだからと、遠海は目を閉じる。
その日の昼頃、気象庁が関東地方の梅雨入りを発表したことを、出がけのニュース番組で鴇田遠海(ときたとおみ)は知った。
確かにここ数日、鈍色の雲が空には張られ、それは幼い子どものようにときに晴れ間を見せ、いきなり雷鳴を轟かせ、ざっと雨をもたらしたかと思うとまた曇る、そんな有様だった。そういえば「明日は雨が降る」と職場の事務員が予言していた。彼女は偏頭痛持ちで、気圧の下がる日は体調がすぐれない。
いま予言は外れている。どんよりと曇ってはいるのだが、雨は降っていない。
それでも気象予報士は傘の必要性を訴えていたので、半分ぐらいを信用することにしてブルーの折り畳み傘を鞄に突っ込んだ。テレビを消し、戸締まりをして、遠海は部屋の外に出る。
外へ出た途端に湿気た空気が肌にまとわりついたが、不快だとは思わなかった。遠海は六月生まれで、あと少しで二十八歳になる。生まれ月だから愛着でもあるのか、なんなのか、人が文句を言うほどにはそんなにこの季節のことが嫌いではない。気圧の変化による体調不良を経験したことがないせいかもしれない。
バスは空いていて、後方の座席に悠々と腰掛けた。ぱたっと音がして窓に雨が当たりはじめる。だがここから先は終点である駅前のバスターミナルで降りた後に地下鉄へ乗り換えるだけなので、雨が降ろうが傘の出番はあまりないだろう。
バスの運転手が独特のイントネーションでバス停の名前を告げる。聞いているうちに眠気を感じた。どうせ終点で降りるのだからと、遠海は目を閉じる。
取材の申し込みがあったのは二週間ほど前のことだった。
地元では有名なローカル新聞社の記者からで、月一度の連載でこの街で暮らす若者にインタビューをしており、そのコーナーで遠海を紹介したいので取材を受けてはくれませんかというものだった。職場を通して遠海じきじきへのご指名だ。当然ながら遠海以外にも若者はいる。なぜ遠海が指名されたのか、見当がつかなかった。
上司からその話を聞かされて、遠海はあからさまに嫌な顔をしてみせた。上司・田代(たしろ)は「やっぱりか」などと苦笑するも、引かなかった。
「どうして僕ですか?」
「それは記者に聞いてくれよ。あいつの希望だからな」
「あいつって、お知りあいですか?」
「ああ。おれの学生時代の同期なんだけど、なかなかいい記事書くんだよ。あいつが書いた鴇田のことはちょっと読んでみたいと、おれも思ったからさ」
「僕ほどつまらない人間はいないですし、若くて面白いやつならこの会社には他にたくさんいます。そういう人の方が会社のPRにも、紙面としての面白さにもなるんじゃないですか?」
「まあまあ、そんなこと言うなって。いいじゃん、私生活ひけらかさず謎の多い鴇田青年のインタビュー記事。それにそのコーナーに登場すると、謝礼が出るらしいよ」
「薄いわけでしょう。どうせくれるなら厚い方がいいですから、ますますお断りですね」
「厚ければ応じるわけじゃないだろう」
「分かってるなら謝礼の話なんか持ち出さないでください」
そう言うと田代は「鴇田らしいよ」と息をついた。
「とにかくそいつに会うだけ会ってみてくんないかな? アタックが強烈でね。おれも板挟みで辛いから、それをちょっと汲んでくれたらそれでいい」
「その言い方はずるいと思います」
「大丈夫、面白いやつだから」
面白いやつだからと言われても、と遠海はますます顔を曇らせるも、田代は気にしなかった。強引に押し切られ、田代と先方によって勝手に取材日が決められてしまった。
記事になれば顔写真も載ることになる。写真は苦手で、心からごめんこうむりたい。だから今日の取材は会ってすぐに断るつもりでいた。田代の顔を立てて会うだけだ。他を当たってくれと言う。
待ちあわせの喫茶店は全国に展開するチェーン店で、駅からアーケードを通って来られるとはいえ、店内は雨をしのぎたい客が多いのか混んでいた。そういえば記者の顔を遠海は知らない。このままばっくれてしまおうかと一瞬考えたが、入口すぐの席から「鴇田さん?」と訊ねられてしまい、その思いつきをそれ以上検討するには至らなかった。
窓際に据えられたカウンター席に男が座って遠海を見あげている。ジャケットを羽織ってはいるがノータイで、くりっと丸い目でこちらを興味深そうに見ていた。
そんなに歳を取ってはいないようだった。だが特別若いという印象も受けなかった。田代の大学時代の同期というなら三十代半ばなんだろう、と見当をつける。着ているシャツやジャケットはシンプルながら男の身体に吸いつくようにぴったりで、そこらで売っている市販品ではなさそうに見えた。オーダーメイドを仕立てられるほど新聞記者って儲かる職業なのかと、そのときはそう思った。
そうです、と答えると、男は立ちあがった。
「こんな日にお呼び立てしてしまってすみませんね。あおばタイムスの三倉(みくら)、と申します」
と、男はジャケットの内ポケットから名刺を取り出して渡そうとしたが、遠海はそれを拒否した。
「今日のこの取材を、お断りしたいんです」
「え?」
「上司の紹介で来ていますが、取材を受けるつもりはありません。ですので名刺は受け取りません」
そう言うと記者はしばらく目をひらいて沈黙していたが、やがて可笑しそうにくつくつと笑いはじめた。遠海の台詞に気を悪くしたどころか、なぜだか楽しげである。
「いや、田代から話は聞いてはいたんですけど、」そう言って名刺をちいさくひらひらと振る。
「真面目で硬いってのは、本当みたいですね」
それは褒め言葉ではなさそうだったので、遠海はあからさまに眉を顰める。
「ああ、違うちがう。信念がありそうだな、っていう意味ですよ」
ひとまずなにか頼みましょうと言われた。「呼んだのは私ですので」と男はコーヒー代を渡そうとしたが、遠海は拒否する。奢られてしまえば取材をなし崩しに受けてしまいそうだと思ったからだ。遠海はカウンターへ行ってアイスコーヒーを自分の金で購入し、男の元へ戻る。男は「私もいただいて来ますね」と荷物番を託して、飲み物を手にすぐに戻ってきた。
「早めに来たんですけどねえ、混んでいてテーブル席が取れませんでした。こんな席で申し訳ない」と男は横並びに座りながら言う。
「……ですから、お断りしたいんです。他を当たってください。紹介しますから」
「ま、こちらとしても嫌だと言っている方に無理に取材をするわけではないので、そう硬くならず。ちょっと雑談、ぐらいのつもりでいてください。私はね、興味があったんですよ。清掃作業員ってどういう仕事なんだろう、って」
それこそ田代にでも聞けばよいと思う。友人なのだから。
「田代さんにお聞きになられては?」
「田代にはあなたから聞いてくれとはぐらかされましたね。普段はどういった作業を?」
「……僕は単なるごみ収集作業員です。仕事としてはいちばん単純。車に乗って、降りて、ごみを積んで、また乗って、ごみを下ろしに行って、を繰り返すだけです」
こんな単純な仕事の人間が果たして記事になるだろうか。面白いと思えるような仕事をこなしている同僚は他に大勢いる。集積所で大型機械を動かす運転士だとか、メンテナンスの作業員。粗大ごみのリペアをして販売する部署にも若い社員はいる。
遠海は彼らの話をして記者の気をよそに逸らそうとした。しかし記者は興味深げに目をひらき、あろうことか遠海に「あ、でもさ、」と訊き返してくる。
「その、いちばん単純な作業を仕事に選んだ理由を知りたいですね」
「別に、理由なんか、特に。就職後の配属がそうだっただけです」
「ごみ収集の作業員てのは、大変でしょう。私も生活してますので、当然ごみを出すわけですよ。月曜日と木曜日は可燃ごみ、とか、毎月第二・第四水曜日は紙ごみ、とか。マンションで決められた収集場所に持っていくんですが、ごみですからね。重い、臭い、ものによっては危ない……まあ、あんまり長いこと持っていたくはないです。出勤の途中に運べるならともかく、休日の朝なのに起きてごみを出しに行くのは億劫ですしね。動物も狙ってくるし、路上生活者とかそういう金に困ってる人たちも漁りに来るって聞いたことがあります。それをあなたがたは毎日運ぶんですよね。人が嫌がる仕事を選んだ理由があるのかなあ、って」
「……嫌がる仕事、っていう考えはあまりないですけど」
「へえ。じゃあだからこそ、っていうのかな。偏見がないから就いた仕事?」
「まるきり偏見ない、とは言わないです。あなたが仰ったように重い、臭い、危ない、はありますから」
「ああ、そうですよね。その辺りの管理ってどうなっているんですか? 個人の危機意識レベル? それとも社内で決まりがありますか?」
男の尽きない興味にぐいぐいと引っ張られ、いつの間にか遠海は質問に答えていた。強制的に喋らされている、と思うのに、不快感はあまりなかった。男が本当に訊きたくて訊いている、という印象を受けるからだろうか。興味を隠さない、人懐こい笑顔のせいだろうか。
結局、喫茶店で小一時間ぐらいは喋った。どうでもいいことばかりだった。ぐずぐずとこのまま記事にされてしまいそうでそこだけは抗う。「記事にしませんよね」と念を押すと、男はにやりと意地悪い笑みを浮かべて「どうでしょうね」と言った。
「……」
「冗談です。了承を得ないのに記事にはしませんよ。ほら、メモだって取ってませんし。ボイスレコーダーも仕込んではいません。事件性のある社会記事なら事情は違いますが、生活記事ですからね。
お話、興味深くて面白かったです。出来ればやはり、あなたを記事にしたいところではありますが、」
「他を紹介しますのでお断りさせてください。クローズアップされたくないんです」
「へえ、その理由も知りたいですねえ」
「……」
「あ、困らせてしまいましたね。ごめんなさい。でも面白くて時間が足りないのは、本当」
本気か社交辞令か、どちらとも取れない表情で男は「また会いましょう」と言った。
「田代に新しい方を紹介してもらいますけど、おれはあなたの話、もっと聞きたいですよ」
そう言って男は席を立ち、ではこれで、と頭を下げて去って行った。最後のくだけた「おれ」という一人称に心がほどけかかる。だから男がテーブルの上に故意に残していった名刺は、ごみと共にダストボックスへは行かず、遠海のポケットの中に収まった。
窓の外を見遣る。アーケードの隙間から見える空は重く、雨がまだ降っている
→ 2
のんびり更新していく予定です。長期になります。
よろしくお願いいたします。
地元では有名なローカル新聞社の記者からで、月一度の連載でこの街で暮らす若者にインタビューをしており、そのコーナーで遠海を紹介したいので取材を受けてはくれませんかというものだった。職場を通して遠海じきじきへのご指名だ。当然ながら遠海以外にも若者はいる。なぜ遠海が指名されたのか、見当がつかなかった。
上司からその話を聞かされて、遠海はあからさまに嫌な顔をしてみせた。上司・田代(たしろ)は「やっぱりか」などと苦笑するも、引かなかった。
「どうして僕ですか?」
「それは記者に聞いてくれよ。あいつの希望だからな」
「あいつって、お知りあいですか?」
「ああ。おれの学生時代の同期なんだけど、なかなかいい記事書くんだよ。あいつが書いた鴇田のことはちょっと読んでみたいと、おれも思ったからさ」
「僕ほどつまらない人間はいないですし、若くて面白いやつならこの会社には他にたくさんいます。そういう人の方が会社のPRにも、紙面としての面白さにもなるんじゃないですか?」
「まあまあ、そんなこと言うなって。いいじゃん、私生活ひけらかさず謎の多い鴇田青年のインタビュー記事。それにそのコーナーに登場すると、謝礼が出るらしいよ」
「薄いわけでしょう。どうせくれるなら厚い方がいいですから、ますますお断りですね」
「厚ければ応じるわけじゃないだろう」
「分かってるなら謝礼の話なんか持ち出さないでください」
そう言うと田代は「鴇田らしいよ」と息をついた。
「とにかくそいつに会うだけ会ってみてくんないかな? アタックが強烈でね。おれも板挟みで辛いから、それをちょっと汲んでくれたらそれでいい」
「その言い方はずるいと思います」
「大丈夫、面白いやつだから」
面白いやつだからと言われても、と遠海はますます顔を曇らせるも、田代は気にしなかった。強引に押し切られ、田代と先方によって勝手に取材日が決められてしまった。
記事になれば顔写真も載ることになる。写真は苦手で、心からごめんこうむりたい。だから今日の取材は会ってすぐに断るつもりでいた。田代の顔を立てて会うだけだ。他を当たってくれと言う。
待ちあわせの喫茶店は全国に展開するチェーン店で、駅からアーケードを通って来られるとはいえ、店内は雨をしのぎたい客が多いのか混んでいた。そういえば記者の顔を遠海は知らない。このままばっくれてしまおうかと一瞬考えたが、入口すぐの席から「鴇田さん?」と訊ねられてしまい、その思いつきをそれ以上検討するには至らなかった。
窓際に据えられたカウンター席に男が座って遠海を見あげている。ジャケットを羽織ってはいるがノータイで、くりっと丸い目でこちらを興味深そうに見ていた。
そんなに歳を取ってはいないようだった。だが特別若いという印象も受けなかった。田代の大学時代の同期というなら三十代半ばなんだろう、と見当をつける。着ているシャツやジャケットはシンプルながら男の身体に吸いつくようにぴったりで、そこらで売っている市販品ではなさそうに見えた。オーダーメイドを仕立てられるほど新聞記者って儲かる職業なのかと、そのときはそう思った。
そうです、と答えると、男は立ちあがった。
「こんな日にお呼び立てしてしまってすみませんね。あおばタイムスの三倉(みくら)、と申します」
と、男はジャケットの内ポケットから名刺を取り出して渡そうとしたが、遠海はそれを拒否した。
「今日のこの取材を、お断りしたいんです」
「え?」
「上司の紹介で来ていますが、取材を受けるつもりはありません。ですので名刺は受け取りません」
そう言うと記者はしばらく目をひらいて沈黙していたが、やがて可笑しそうにくつくつと笑いはじめた。遠海の台詞に気を悪くしたどころか、なぜだか楽しげである。
「いや、田代から話は聞いてはいたんですけど、」そう言って名刺をちいさくひらひらと振る。
「真面目で硬いってのは、本当みたいですね」
それは褒め言葉ではなさそうだったので、遠海はあからさまに眉を顰める。
「ああ、違うちがう。信念がありそうだな、っていう意味ですよ」
ひとまずなにか頼みましょうと言われた。「呼んだのは私ですので」と男はコーヒー代を渡そうとしたが、遠海は拒否する。奢られてしまえば取材をなし崩しに受けてしまいそうだと思ったからだ。遠海はカウンターへ行ってアイスコーヒーを自分の金で購入し、男の元へ戻る。男は「私もいただいて来ますね」と荷物番を託して、飲み物を手にすぐに戻ってきた。
「早めに来たんですけどねえ、混んでいてテーブル席が取れませんでした。こんな席で申し訳ない」と男は横並びに座りながら言う。
「……ですから、お断りしたいんです。他を当たってください。紹介しますから」
「ま、こちらとしても嫌だと言っている方に無理に取材をするわけではないので、そう硬くならず。ちょっと雑談、ぐらいのつもりでいてください。私はね、興味があったんですよ。清掃作業員ってどういう仕事なんだろう、って」
それこそ田代にでも聞けばよいと思う。友人なのだから。
「田代さんにお聞きになられては?」
「田代にはあなたから聞いてくれとはぐらかされましたね。普段はどういった作業を?」
「……僕は単なるごみ収集作業員です。仕事としてはいちばん単純。車に乗って、降りて、ごみを積んで、また乗って、ごみを下ろしに行って、を繰り返すだけです」
こんな単純な仕事の人間が果たして記事になるだろうか。面白いと思えるような仕事をこなしている同僚は他に大勢いる。集積所で大型機械を動かす運転士だとか、メンテナンスの作業員。粗大ごみのリペアをして販売する部署にも若い社員はいる。
遠海は彼らの話をして記者の気をよそに逸らそうとした。しかし記者は興味深げに目をひらき、あろうことか遠海に「あ、でもさ、」と訊き返してくる。
「その、いちばん単純な作業を仕事に選んだ理由を知りたいですね」
「別に、理由なんか、特に。就職後の配属がそうだっただけです」
「ごみ収集の作業員てのは、大変でしょう。私も生活してますので、当然ごみを出すわけですよ。月曜日と木曜日は可燃ごみ、とか、毎月第二・第四水曜日は紙ごみ、とか。マンションで決められた収集場所に持っていくんですが、ごみですからね。重い、臭い、ものによっては危ない……まあ、あんまり長いこと持っていたくはないです。出勤の途中に運べるならともかく、休日の朝なのに起きてごみを出しに行くのは億劫ですしね。動物も狙ってくるし、路上生活者とかそういう金に困ってる人たちも漁りに来るって聞いたことがあります。それをあなたがたは毎日運ぶんですよね。人が嫌がる仕事を選んだ理由があるのかなあ、って」
「……嫌がる仕事、っていう考えはあまりないですけど」
「へえ。じゃあだからこそ、っていうのかな。偏見がないから就いた仕事?」
「まるきり偏見ない、とは言わないです。あなたが仰ったように重い、臭い、危ない、はありますから」
「ああ、そうですよね。その辺りの管理ってどうなっているんですか? 個人の危機意識レベル? それとも社内で決まりがありますか?」
男の尽きない興味にぐいぐいと引っ張られ、いつの間にか遠海は質問に答えていた。強制的に喋らされている、と思うのに、不快感はあまりなかった。男が本当に訊きたくて訊いている、という印象を受けるからだろうか。興味を隠さない、人懐こい笑顔のせいだろうか。
結局、喫茶店で小一時間ぐらいは喋った。どうでもいいことばかりだった。ぐずぐずとこのまま記事にされてしまいそうでそこだけは抗う。「記事にしませんよね」と念を押すと、男はにやりと意地悪い笑みを浮かべて「どうでしょうね」と言った。
「……」
「冗談です。了承を得ないのに記事にはしませんよ。ほら、メモだって取ってませんし。ボイスレコーダーも仕込んではいません。事件性のある社会記事なら事情は違いますが、生活記事ですからね。
お話、興味深くて面白かったです。出来ればやはり、あなたを記事にしたいところではありますが、」
「他を紹介しますのでお断りさせてください。クローズアップされたくないんです」
「へえ、その理由も知りたいですねえ」
「……」
「あ、困らせてしまいましたね。ごめんなさい。でも面白くて時間が足りないのは、本当」
本気か社交辞令か、どちらとも取れない表情で男は「また会いましょう」と言った。
「田代に新しい方を紹介してもらいますけど、おれはあなたの話、もっと聞きたいですよ」
そう言って男は席を立ち、ではこれで、と頭を下げて去って行った。最後のくだけた「おれ」という一人称に心がほどけかかる。だから男がテーブルの上に故意に残していった名刺は、ごみと共にダストボックスへは行かず、遠海のポケットの中に収まった。
窓の外を見遣る。アーケードの隙間から見える空は重く、雨がまだ降っている
→ 2
のんびり更新していく予定です。長期になります。
よろしくお願いいたします。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
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短編「みんな嬉しいお菓子の日」
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短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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