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始発でアパートに帰り着き、休みだからと存分に寝倒して、昼過ぎに着信で目を覚ました。
紗羽からの電話だった。次回のセッションの予定まで日があったのだが、急きょ今夜演奏するので来られないかという内容で、SNSではなく電話で訊ねてくる辺りに紗羽の焦りを感じられた。スケジュールを確認するまでもなく承諾する。紗羽は「ありがとう」と答え、いつもの時間に、と電話は切れた。
会ってみれば紗羽もケントもいつも通りで、特に焦りも感じなかった。紗羽が「あの人呼んだらいいよ」と言い、ケントも頷いたがなにを言われているのかはよく分からなかった。
「あの人、みくらさん」
「どうして?」
「多分、これっきりで当分のあいだはセッション出来ないから」
そう言われて、遠海は思わず顔をあげた。
「――これっきり?」
「うん。私たちね、しばらくオーストラリアに行くの」と言う。
「三人でやれるの、当面はないから。来てもらえそうなら呼んだら? って思って。最近すごく仲いいからさ」
「いや、それは……、――え、オーストラリア?」
重要なことだ。訊くと紗羽はケントに目配せをする。楽器に触れていたケントは、わざわざそこを離れて紗羽の傍へやって来て、肩を抱いた。
「父が亡くなりました」とケントは答えた。
「今夜ここで演奏したら、明日には日本を出てオーストラリアに向かいます」
「……もしかして昨日バタバタしてたのって、」
「そうですね。マリナからの電話でした。そのときはまだ死んではなかったんですけど、危ない、っていう知らせでした。それで今日の朝、また連絡が入りました」
「亡くなった、って?」
「ハイ」
ケントはうつむく。次を紗羽が継いだ。
「お義父さん、本当は自分が癌だって知ってたんだって。でも自由に生きたいからって、言わなかったんだって。痛いとか苦しいとか、全く言わなかったんだって。……私たちは離れているからともかく、傍にいた家族はやっぱり呆然って感じで。葬儀もあるし、とりあえず帰ろうって」
「それは……」
言葉が見つからない。ただ無性に三倉の手が恋しくなった。無遠慮な力加減で背を叩いてほしい、と。
「お義母さんがだいぶ参っちゃってるみたいでね。すこし長めに帰ろうかって、休暇申請してきたんだ」
「長め、って、どれくらい?」
「ビザが切れるまで」
その答えは、遠海の気を遠くさせた。
場が暗転したように思った。足元が暗くてうすら寒い。
「だから今夜でひとまずラスト」
「すみません、トーミ。勝手に」
「いや、仕方がないよ、こういうのは。仕方がない、……うん」
言葉を繋げられない。
「だからそのみくらさんも呼んでさ。楽しくやろうよ。私も友だち呼んだし」と紗羽が言う。
「いや、三倉さんは……昨日会ったし、」
「いいの?」
「僕が会えなくなるわけじゃないし、……」
と口にして、遠海は愕然とした。なんて言い方だろう。なぜここまで近くに感じているのだろう。
妻のいる人だろう。
同性の、最近知り合っただけの人だろう。
異性でもないのに、あの人に対してうろたえている自分がいた。
紗羽に「あの人のことを遠海は好きなんだと思ってたな」と言われ、遠海は瞬間的に目を閉じた。
「……どうしてそう思ったの、」
「違った? 違ってたらごめん。だけど遠海、あの人には距離を許している感じがするから。よく笑うし、楽しそうだし。なんかこの人たちは、近いんだなって、思ってた」
「近いかな」
「自覚ない? だって遠海は通常の距離感が遠いからさ。あの人は遠海が許した人なのかなって、私は思ったけどね」
そうでもないんなら別にいいよ、気にしないで、と紗羽は言い直した。
遠海はうつむいた。
三倉は男で、妻のいる人だ。
でもこれは恋だ。人生最悪の求心力を持った、叶うことのない恋だ。
どこかで気づいてはいた。恋のにおいを嗅ぎ取っていた。でもそれに名称を付けることをやめていた。自覚すれば関係が壊れそうな気がしていた。恋を隠したままいつも通りの顔で三倉に接することは出来ない。そこまで器用に出来ていない。
けれど紗羽やケントは気付いている。周囲には分かる。だったらもう、恋だと名づけようが名づけまいが同じことだ。
三倉が好きなのだ。触れられないけれど好きだと告げたい相手は、三倉だ。
……どう足掻いても触れられない人なのだから、苦しまずに恋を終わらせられるか?
絶望が内からこみあげる。鼻の奥がキンと痛んで辛かった。瞬間的に頭を抱える。突っ伏した遠海を紗羽とケントは気にした。「大丈夫?」と心配されると、甘えたいのか「う」と呻きが漏れた。
「遠海、」
「……そうだよ」
全身に鳥肌が立っている。その粟立った肌をさすりながら遠海は顔を上げた。
「あの人が好きだよ」
漏らすと、同時にまた呻き声が出た。
「あの人と話していると嬉しい。あの人が聴いてくれると思うとピアノにすごく緊張して、楽しい。あの人には触れられても嫌じゃないし、むしろ喜んでしまう。けど、……けど、」
ぐ、とこらえるように身体に力を込めると、喉が鳴った。
「あの人には奥さんがいて、そもそも同性で。好きになっちゃいけない人だ。本当は会ってちゃいけない人。だから知らないふりをしてたのに、……紗羽が、そんなこと言うから、」
「ごめんなさい」と紗羽は言ったが、中に謝罪はなにも込められてはいなかった。
「トーミ」
黙っていたケントが口をひらいた。
「気分転換しません?」
その申し出が意外で、遠海は瞬時にケントを見上げた。
「演奏するんじゃん、これから」
「いえ、僕たちのところにトーミも来ましょう」
「え? オーストラリア?」
「ええ。旅行でもワーキングホリデーでもなんでもいいです。日本を離れてみませんか?」
ケント淋しいような笑顔でこちらを見ていた。紗羽もケントの肩に頭をもたせ、慰めるときそのままの顔で夫の言葉に頷いている。
「……パスポート持ってないし、」
「取得すればいいですよ」
「英語も出来ない」
「僕とサワがいます。大丈夫です」
「仕事を辞めるつもりはないし、……休みも取れるかどうか、」
「取ってください。大丈夫、すこし離れるだけ。」
「どうしてそんなことを言うの?」
「トーミが辛そうだからです」
そう言われて、遠海はまた呻いてうなだれた。
「気分転換です、キブンテンカン。このままだとトーミは色んな感情や状況のせいで動けなくなりそうで、それを僕は、えーと、嫌な気分に思います」
そんなこと考えもしなかった。気分転換、言うなら失恋旅行だろうか。
「さっぱりしますよ、きっと」
「うん、私もそう思う」
紗羽も同意する。遠海はうなだれながら「考えさせて」と答えた。
「もちろんです。僕らは先にオーストラリアに行きますが、トーミが来るつもりなら大歓迎です。……考えてみて、考えたらいつでも連絡をください」
触りますよ、と言ってケントは遠海の背をぽんぽんとはたいた。紗羽も同じく触れてくる。このやさしい友たちとの別れが迫っていることもまた、遠海をひどく動揺させている。
「今夜も楽しい音楽を」
とケントが言い、それぞれ楽器の元へ向かう。ケントがリズムを刻みはじめると、チューニングを終えた紗羽もそのリズムに乗った。
遠海は三倉を呼ぶか考えたが、結局なにも連絡を取ることはしなかった。
ふたりの元へ行って、ピアノを鳴らしはじめる。
いつもの楽しい音楽が待っていた。
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やがてケントがやって来て、遅刻を詫びた。「来ないと思ってたよ」と言うと「気分転換です」と夫婦揃って同じことを言った。ケントが来てすぐに開店時間になってしまったのだが、客の入りがいまいちだったので三人で正装にも着替えず音を合わせていた。明るい曲がいい、と言ったのはケントだった。憂いや悲しみは奏でたくない、と。だからそういう曲を選んで演奏した。
開店してしばらく、やって来た最初の客は三倉だった。彼はもう、常連並にこの店に顔を出していた。あまりにも遠海に馴染むので、ケントや紗羽もこの男を覚えてしまっていた。
「あれ? まだ開店前? 準備中?」
三人が私服でいるのを見て、三倉は足を止めた。「開いています。どうぞ」と中へ促す。三倉の着ているシャツの肩先は濡れていて、ああ、また雨が降っているのかと遠海は思った。
促された三倉がまっすぐに着いた席がカウンター席だったので、今夜おそらく蒼生子は同席しないんだろうな、と推測した。
理由があるのかないのか、三倉は遠海と会うときは妻を伴わなくなった。三倉とは頻繁に会っている自覚があるので、「自然な流れで妊娠」を目指している不妊治療中の夫婦にとって邪魔なのではないかとふと疑念を抱く。とりわけこちらの感情はただの友情ではないだろうことを自覚しはじめていればなおさらだった。自分は三倉の道を邪魔している。三倉を応援しているようで、本心はただ三倉と過ごしたいだけではないか?
三倉に会えると素直に嬉しい。嬉しい分だけあとが辛い。
「外、土砂降り?」と遠海は自分のタオルを差し出して訊ねる。三倉は微笑んでそれを受け取る。
「駅出たら結構強めに、いきなり降った。いまは小降りになったかな。今年はしっかり梅雨って感じの梅雨だよね」
「いつでしたっけ、六月のうちに梅雨明けしちゃった年」
「ああ、あった」
「あの年は確か猛暑で大変でしたよね。今年はわりと涼しいから、冷夏なのかな」
「どうだろう。晴れればいきなり暑いもんな。……出番、いいの? お仲間がいないけど」
いつの間にか紗羽とケントは袖に引っ込んでいた。遠海は「またあとで」と言って慌ててバックヤードに下がった。
着替えていると、化粧を終えた紗羽が口元をあげて「仲いいね」と声をかけてきた。
「はじめはしかめっ面で嫌がってたのに」
「そうだっけ」
「遠海がすんなり仲良くなる人って珍しいね。お客さんに声かけられても、褒められたって嫌な顔して適当に撒いちゃう遠海が」
「たまたまなんじゃない?」
とあしらうも頬がすこし熱かった。身なりを整えることで紗羽の会話から逃げようとする。だが紗羽は「私たちにだって遠海はガードが堅くて」と手を緩めない。
「ケントが口説いて口説いて泣き落としてようやくセッションした夜まで半年かかったのにね」
「紗羽たちはちょっと強引だったよ」と言いながら、三倉も充分強引だったではないかと思い出す。
「そうだね、強引だったけど、楽しかったよね」
過去形で言われるので遠海はふと顔を上げた。
「紗羽?」
「今夜もいい時間をね」
紗羽が笑う。手洗いに立っていたケントが戻ってくる。「行きましょうか」と言われ、珍しく三人揃って楽器の元へ向かう。
客の前に出て、五曲ぐらい続けてやった。いつものペースだったがいつもより紗羽やケントからスピード感を受け取った。スポーツのように体を動かし汗を流したくて奏でる音楽。ふたりのスピードに置いて行かれぬよう、遠海も体を震わせてピアノを叩く。
気分転換というのは、彼らにとってその通りだった。
いったん下がった際にケントの携帯電話が鳴り、それきりその日、ケントはステージに上がれなくなった。紗羽を伴って帰宅するという。あとを任されて遠海は急きょピアノひとつで場を繋ぐことになった。もっともこんなのは紗羽やケントとバンドを組む前までは当たり前のことだった。それほどふたりに馴染んでいたことに遠海は恐怖を感じた。
知ってしまえば元には戻れない。感情や、経験、愛情。
閉店まで残った客は三倉だけだった。
着替えるのが面倒で、黒い服装のままバックパックを背負い、従業員らに挨拶をして表に出る。地上へ出るのぼりの階段は涼しかったが、出た途端に湿気て重たい空気に纏わりつかれた。店の看板の前に三倉が立っていて、電話をしていた。遠海に気づくとひらひらと手を振り、通話を終える。
「電話、いいんですか?」
「蒼生子さんに連絡しただけ。今夜は遅く帰るから休んでて、って。鴇田さん、今夜は時間があります?」
遠海は咄嗟に時計を見た。もう午前零時を過ぎている。
「僕は構わないですけど、」
「じゃあもうすこしどっかで飲みません? 本当は今日、ちょっとは話せるかなと思ってたんだけど、鴇田さん出ずっぱりで演奏していたから」
消化不良、と三倉は笑った。遠海の胸は苦しくなる。誤魔化すように「喉渇きました」と欲求を伝えると、三倉は「どこならまだ開いてるかな」と駅の方向へと歩き出す。
駅近くの雑居ビルに入るチェーンの鉄板料理屋が深夜営業をしていたので、そこに入る。とはいえ遠海は腹が空いていなかった。最近はこんな風にちっとも腹が減らないので、食事を抜いてばかりいる。
深夜だったので軽くつまめるものを焼いてもらうように頼み、中瓶のビールをふたりで分けた。
「今夜、あのふたりはどうしたの?」と開口一番、三倉は口にした。
「途中から鴇田さんひとりだったから」
「用事が出来たんで帰ったんです。まあ、あんな風にひとりで演奏ってのは、以前だったらよくあることでしたから、そんなにピンチな訳でも、気にすることでもなかったです」
目の前に置かれた広い鉄板から発せられる熱でビールがたちまちぬるくなっていく。
「そういえばどういう経緯で結成したの、あのジャズトリオは」と三倉が訊ねる。遠海は思い起こして、僅かに苦笑した。
「あの店のオーナーの、伊丹さん」
そう言うと、三倉は頭の中で思い出そうとしているのか目線を宙に浮かせた。
「あの、喋らないバーテンダーさん?」
「本当は喋るんですよ。会話の上手い人です。……伊丹さんは僕にピアノを教えてくれた人で」
「先生だった、てこと?」
「そうですね。教室をひらいていた訳ではないので先生、て感じはしませんけど。僕の母親もピアノを弾く人でしたが家にピアノがなかったので、大学時代の先輩だったっていう伊丹さんに頼んで伊丹さんの自宅にあるピアノ弾かせてもらってたんです。ちいさい僕を連れてね。そのうち僕も弾くようになりました」
「それがあの店であなたがピアノを弾いている理由?」
「はい。そのうち伊丹さんがお店をひらいて、よかったら店で弾かないかと伊丹さんに誘われたのが僕が二十歳を過ぎたころです。それであの店……前は別の、もっと狭いビルに入ってた店でしたが、そこで弾くようになったころ店に出入りしていたのが紗羽とケントで。あのころはまだふたりとも結婚はしてませんでしたが、学校の先生ではありました。それで一緒に演奏する機会を経ているうちに、いつの間にか」
成り行きトリオです、と言うと、三倉はくすっと笑った。
「成り行きかあ」
「だから名前もないんです」
「でもいいトリオだよね。三人とも本当に気持ちのよい顔して演奏する。聴き心地は最高だし、見てても飽きない。今日、後半は鴇田さんひとりで、すこし淋しそうだった」
「そう見えました?」
「うん」
意外な見解だった。特に淋しさを感じていた訳ではない。むしろひとりで演奏することは以前だったら当たり前のことで、そこに戻っただけの夜だと思っていた。
そう伝えると、三倉は「鴇田さんはあまりすらすらと喋る方じゃないけど、」とビールを口にする。
「分かりやすい人だな、と思うよ。顔や態度に出てるし、音にも出るな」
「それはかなり恥ずかしいですね」
「そうかな? いいじゃないの、人間らしくて。おれはあなたのそういうところ、いいなっていつも思うよ。芸術って美しいけれど、結局は人間なんだよなあってあなたを見ていると思う」
鉄板に焦げつきかかっている海鮮を三倉は箸でつまみ、口にする。咀嚼して飲み込んでから、「こないだあなたと観た映画」と話題を振る。
「あの映画の最後の方で、主人公が『また生きたいと思うか』みたいなことを喋ってたじゃん」
「はい」と答えるも、うろ覚えだった。映画の後半は三倉に気を取られてあまりはっきりとした記憶がない。確か、年老いた画家が妻に「また人生を送ってみたいか」と訊ねた、そんな内容だったと思う。
「あれ、鴇田さんはどう思う?」
「どう?」
「まっとうに人生が終了したとして、また生きなおしたいと思う?」
すこし考え、遠海は「三倉さんは?」と先に答えるように促した。
「おれは生きたい」三倉は即答した。
「何度だって生きたいよ。人生はさ、辛くてしんどいこともあるけど、楽しいことだと思えるからね」
「……いま、楽しいですか?」
「ああ、楽しいよ。まあちょっと家には帰りにくいけど、仕事も充実してて、余暇は鴇田さんとこうやって飲んでたりね。実は今日はこれを鴇田さんに訊いてみたかったんですよ。生きるの、楽しくない?」
なんでそんなことを、と訊ねると、三倉は「今夜の鴇田さんが淋しそうだったから」と言う。
「前に聞かせてもらった話をおれなりにずっと考えていてね。触られることに嫌悪感のある人生は、辛いだろうな、と。荒野でひとりきりで生きている社会じゃないですしね。でも本人におさまりがついてるならいいのかな、とか、色々考えました。それで今日店に行って、本当はちょっと飲んですぐ家に帰るつもりだったんだけど……あの演奏聴いて、なんだこの人すげえ悩んでるんじゃんって分かったら、鴇田さんと飲みたくなった」
「……」
「触れたくて触れられなかったり、触れられたくて触れられるのが怖かったりっていう感覚は、おれにはないです。でも想像すると、しんどいと思う」
「……」
「そういう鴇田さんが楽しいといいなと思ったんです。いまは、楽しくない?」
問いを重ねられたが遠海はうまく答えられなかった。
生きるのは、僕だったらこれきりにしたい、と思った。
たったひとつ、一度だけの人生でいい。何度も生きなくていいから、三倉の傍でこうやって飯を食わせてください。
他愛ないことを話して、とりとめなく笑う、この時間を甘受させてください。
それだけでいいです。
思ったことをアルコールと共に飲み込んで、遠海は代わりに「楽しいですよ」と無難に言葉を濁した。
三倉は「困るな、そういう答えは」と本当に困った顔で笑った。その笑顔に容赦なく胸を切り裂かれる。
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触れながら三倉は、「おれも白状するとさ、」と言った。
「さっきは適当に流しちゃってなんか悪かったよ。……おれたち夫婦はね、もう何年もずっと不妊治療中なの」
不妊治療。それが一体どういうものを指すのかを遠海はあまりよく知らない。ただ、子どもを望んでいるからこその治療だということは分かる。
「さっきの、離婚の危機から?」
「うん。まあ、離婚の危機がそもそもね。結婚して三年経ってまだ子どもが出来ないって言って、おれは子どもなんていなくていいと思うんだけど、蒼生子さんはそうじゃなかったんだよね。親とか周囲からのプレッシャーもあったみたい。思い詰めちゃってさ。それで、彼女の方から『私は妊娠できないのでよそで作るか別れてください』って言いだした。あんな台詞、言わせるべきじゃなかった。後悔してるよ」
「……その危機は、乗り越えたんですか?」
「まあ、そうだね。彼女の心の方が崩れちゃったからそれの治療に専念して。でもまあ、いまでも危機って言えば危機かな。不妊治療は継続してて、……あれって結構えぐいんだよね。家にはさ、蒼生子さんが買ったピンク色の本があって――って、こういう話、大丈夫?」
遠海は頷いた。「経験はないですけど特に気にしないです」
「ならぶちまけちゃうけど、……ピンク色の本ってのはやらしい本って意味じゃなくて、子どもをつくるための指南書みたいなさ。大体ベビーピンクが使われてるんだよ。それで、妊娠しやすくなる漢方とか、ストレッチとか、タイミングのはかり方とか、色々書いてあんの。彼女必死になってそれ読み込んでてさ。実践して、試す。子どもって当然だけどひとりだけで作れるもんじゃないじゃん。旦那さんの協力がとか医者に散々言われたよ。夫婦一丸となって、精のつくもの食べたり、男性不妊じゃないかって検査したり。……最近じゃあリラックスする中で自然にするタイミングで出来やすいとか信じちゃってさ。時間に融通利かせてめし食いに行ったり、映画見に行ったりとかさ」
ああ、と遠海はそこで納得した。ふたり仲がいいからしょっちゅう一緒なのだと思っていたが、理由は単純にそれではなかったようだ。
こんな話でわるいね、と三倉はビールを飲み干すと二杯目をお代わりした。だがまだ話を続けるようで、眉間に皺を寄せながら言葉を探っていた。
「なんて、言うかな、――疲れた。少なくともおれは、この生活に疲れてる。でも自分の奥さんがそんなに必死になって望んでるんだから、おれぐらい彼女を守ってやんないと、理解してやらないと誰がするんだ、と思って彼女の言うとおりにしてる。義務感、かな。もしくは果たすべき使命、役割。確かに子どもが出来たらかわいいかもしれない。けどいまは正直、子作りとか夫婦生活とか、セックスなんて言葉すら聞きたくないぐらいには、息切れ」
三倉の元に二杯目のビールがやって来る。遠海はぬるくなったビールを諦めて、ジントニックをオーダーする。
「だからさ、こうやって鴇田さんと過ごす時間って貴重。わるいけど、ほっとする。鴇田さんとのあいだには当然だけど義務も使命もないからね。――ひどい旦那だとは思うんだけど、家にいない方が楽なときがあって、……要するに逃げてるんだよなあ」
ふ、と三倉は息を吐く。瞳に疲労が滲んでいた。遠海の胸中はざわついていたが、この男がそこまで気を許してくれている事実は、嬉しかった。
「必要な逃げってあるんだって、高校の頃の物理の先生が言ってました」
そう言うと三倉はこちらを向いた。
「Aっていう目的を達成するためには、Bっていうルートじゃなきゃだめってことはなくて。CもあってDもあって、でもEっていう回り道もあって、そもそもそのルートを通るのをやめる、っていう方法もあるんだって。もしくは達成しなくていいAだってこともある。だから壁にぶち当たったと思ったら、高いところに登って見渡しなさいと言われたことがあります」
「……素敵な先生に教わったんだ」
「だから、行き詰まったら遠ざかっていいんです。……僕でよければ、いくらでも飲みに誘いますし、めし食いに行きますし、話も聞きます。電話でもいいです。メールとかでも。……三倉さんが楽になるなら」
三倉は眩しいように目を細め、「甘やかされたら甘えてしまうよ」と情けなく笑った。
「鴇田さんさ、おれのこと強引だって最初思ってたでしょう。鬱陶しがってた」
「記事にされるのが嫌だっただけです。記事にはならなかったし、いまはあんまり思ってない……。僕はあまり友達がいないので、三倉さんみたいな距離の詰め方ってのはびっくりしましたけど、でも、」
「ん?」
「誰かの力になりたいってのは、思うんです。例えばでピアノの話をしますが。聴いて元気を出してもらいたいとか、感動してもらいたいとかは思っているわけじゃなくて、……BGMでいいから、なんとなく作用してるみたいな……生活の添え物でいいから、その人がすこし豊かになるために音楽があればって……うまく言えないんですけど、そんな感じ」
「……ああ、いま納得した。あなたがクローズアップされたくないと言った意味。なんていうのかな、あなたのピアノは激しい自己主張もないし、強い個性も感じないけど、やわらかくて穏やかで、気づけばいつの間にか傍にあるんだよね。……うん、」
頷いて、三倉は遠海の背をまた軽く叩いた。
「あなたのピアノ、好きですよ。穏やかな春の海みたいだと思う。遠浅にどこまでもやわらかく透きとおっている、ぬるい温度の海。たまに激しいけれど、それも海のおおらかさなんだと思う」
「……」
「だからさ、鴇田さんはやっぱり興味深いな」
「……ありがとうございます」
聞けたのは飾らない本心だろう。自分のピアノをこんな風にたとえてもらったことはない。遠海の心臓がとことこと走り出す。体を駆け巡るアルコールが気持ちいい。
気持ちがよいと感じる分だけ三倉の告白を重く感じた。三倉がそういうなら、次はあなたのための弾きますと、遠海は心の中で呟く。
「――水琴窟の店、」
と言うと、三倉は「ああ」と素の顔をした。
「行きたいです」
「うん、行こう。いつがいいかな。昼しかやってないんだよね、その店」
「何料理なんですか」
「川魚が専門。当然だけどうなぎが人気。ちょっと値がいいけど、最高にうまいよ」
「まだ土用には早いですよね」
「でもじきでしょう。……夏が来るなあ」
いつがいいかな、と三倉は鞄の中からスケジュール帳を取り出す。ぱらぱらとめくり、「そういえば」と言った。
「そのうちあなたの職場に行きますよ」
「……前に田代さんが言ってたの思い出しました。取材ですよね」
「そう。田代に取り持ってもらって、社長さんにインタビュー。就活支援目的でいろんな企業の代表者から話を聞いてる連載もあってね。今回はおれが担当だから」
「いろんな連載抱えてるんですね」
「小さい会社だから、順番でいろんな記事の分担が回ってくるだけ。鴇田さんが仕事をしているところ、見られるかな?」
「どうでしょう。ほとんど外でごみ回収するだけの仕事ですからね。会社にあんまりいない」
「そうか。余計に楽しみだな」
三倉はにっと笑い、ビールを口にした。
「さっきは適当に流しちゃってなんか悪かったよ。……おれたち夫婦はね、もう何年もずっと不妊治療中なの」
不妊治療。それが一体どういうものを指すのかを遠海はあまりよく知らない。ただ、子どもを望んでいるからこその治療だということは分かる。
「さっきの、離婚の危機から?」
「うん。まあ、離婚の危機がそもそもね。結婚して三年経ってまだ子どもが出来ないって言って、おれは子どもなんていなくていいと思うんだけど、蒼生子さんはそうじゃなかったんだよね。親とか周囲からのプレッシャーもあったみたい。思い詰めちゃってさ。それで、彼女の方から『私は妊娠できないのでよそで作るか別れてください』って言いだした。あんな台詞、言わせるべきじゃなかった。後悔してるよ」
「……その危機は、乗り越えたんですか?」
「まあ、そうだね。彼女の心の方が崩れちゃったからそれの治療に専念して。でもまあ、いまでも危機って言えば危機かな。不妊治療は継続してて、……あれって結構えぐいんだよね。家にはさ、蒼生子さんが買ったピンク色の本があって――って、こういう話、大丈夫?」
遠海は頷いた。「経験はないですけど特に気にしないです」
「ならぶちまけちゃうけど、……ピンク色の本ってのはやらしい本って意味じゃなくて、子どもをつくるための指南書みたいなさ。大体ベビーピンクが使われてるんだよ。それで、妊娠しやすくなる漢方とか、ストレッチとか、タイミングのはかり方とか、色々書いてあんの。彼女必死になってそれ読み込んでてさ。実践して、試す。子どもって当然だけどひとりだけで作れるもんじゃないじゃん。旦那さんの協力がとか医者に散々言われたよ。夫婦一丸となって、精のつくもの食べたり、男性不妊じゃないかって検査したり。……最近じゃあリラックスする中で自然にするタイミングで出来やすいとか信じちゃってさ。時間に融通利かせてめし食いに行ったり、映画見に行ったりとかさ」
ああ、と遠海はそこで納得した。ふたり仲がいいからしょっちゅう一緒なのだと思っていたが、理由は単純にそれではなかったようだ。
こんな話でわるいね、と三倉はビールを飲み干すと二杯目をお代わりした。だがまだ話を続けるようで、眉間に皺を寄せながら言葉を探っていた。
「なんて、言うかな、――疲れた。少なくともおれは、この生活に疲れてる。でも自分の奥さんがそんなに必死になって望んでるんだから、おれぐらい彼女を守ってやんないと、理解してやらないと誰がするんだ、と思って彼女の言うとおりにしてる。義務感、かな。もしくは果たすべき使命、役割。確かに子どもが出来たらかわいいかもしれない。けどいまは正直、子作りとか夫婦生活とか、セックスなんて言葉すら聞きたくないぐらいには、息切れ」
三倉の元に二杯目のビールがやって来る。遠海はぬるくなったビールを諦めて、ジントニックをオーダーする。
「だからさ、こうやって鴇田さんと過ごす時間って貴重。わるいけど、ほっとする。鴇田さんとのあいだには当然だけど義務も使命もないからね。――ひどい旦那だとは思うんだけど、家にいない方が楽なときがあって、……要するに逃げてるんだよなあ」
ふ、と三倉は息を吐く。瞳に疲労が滲んでいた。遠海の胸中はざわついていたが、この男がそこまで気を許してくれている事実は、嬉しかった。
「必要な逃げってあるんだって、高校の頃の物理の先生が言ってました」
そう言うと三倉はこちらを向いた。
「Aっていう目的を達成するためには、Bっていうルートじゃなきゃだめってことはなくて。CもあってDもあって、でもEっていう回り道もあって、そもそもそのルートを通るのをやめる、っていう方法もあるんだって。もしくは達成しなくていいAだってこともある。だから壁にぶち当たったと思ったら、高いところに登って見渡しなさいと言われたことがあります」
「……素敵な先生に教わったんだ」
「だから、行き詰まったら遠ざかっていいんです。……僕でよければ、いくらでも飲みに誘いますし、めし食いに行きますし、話も聞きます。電話でもいいです。メールとかでも。……三倉さんが楽になるなら」
三倉は眩しいように目を細め、「甘やかされたら甘えてしまうよ」と情けなく笑った。
「鴇田さんさ、おれのこと強引だって最初思ってたでしょう。鬱陶しがってた」
「記事にされるのが嫌だっただけです。記事にはならなかったし、いまはあんまり思ってない……。僕はあまり友達がいないので、三倉さんみたいな距離の詰め方ってのはびっくりしましたけど、でも、」
「ん?」
「誰かの力になりたいってのは、思うんです。例えばでピアノの話をしますが。聴いて元気を出してもらいたいとか、感動してもらいたいとかは思っているわけじゃなくて、……BGMでいいから、なんとなく作用してるみたいな……生活の添え物でいいから、その人がすこし豊かになるために音楽があればって……うまく言えないんですけど、そんな感じ」
「……ああ、いま納得した。あなたがクローズアップされたくないと言った意味。なんていうのかな、あなたのピアノは激しい自己主張もないし、強い個性も感じないけど、やわらかくて穏やかで、気づけばいつの間にか傍にあるんだよね。……うん、」
頷いて、三倉は遠海の背をまた軽く叩いた。
「あなたのピアノ、好きですよ。穏やかな春の海みたいだと思う。遠浅にどこまでもやわらかく透きとおっている、ぬるい温度の海。たまに激しいけれど、それも海のおおらかさなんだと思う」
「……」
「だからさ、鴇田さんはやっぱり興味深いな」
「……ありがとうございます」
聞けたのは飾らない本心だろう。自分のピアノをこんな風にたとえてもらったことはない。遠海の心臓がとことこと走り出す。体を駆け巡るアルコールが気持ちいい。
気持ちがよいと感じる分だけ三倉の告白を重く感じた。三倉がそういうなら、次はあなたのための弾きますと、遠海は心の中で呟く。
「――水琴窟の店、」
と言うと、三倉は「ああ」と素の顔をした。
「行きたいです」
「うん、行こう。いつがいいかな。昼しかやってないんだよね、その店」
「何料理なんですか」
「川魚が専門。当然だけどうなぎが人気。ちょっと値がいいけど、最高にうまいよ」
「まだ土用には早いですよね」
「でもじきでしょう。……夏が来るなあ」
いつがいいかな、と三倉は鞄の中からスケジュール帳を取り出す。ぱらぱらとめくり、「そういえば」と言った。
「そのうちあなたの職場に行きますよ」
「……前に田代さんが言ってたの思い出しました。取材ですよね」
「そう。田代に取り持ってもらって、社長さんにインタビュー。就活支援目的でいろんな企業の代表者から話を聞いてる連載もあってね。今回はおれが担当だから」
「いろんな連載抱えてるんですね」
「小さい会社だから、順番でいろんな記事の分担が回ってくるだけ。鴇田さんが仕事をしているところ、見られるかな?」
「どうでしょう。ほとんど外でごみ回収するだけの仕事ですからね。会社にあんまりいない」
「そうか。余計に楽しみだな」
三倉はにっと笑い、ビールを口にした。
水琴窟の聞けるうなぎ屋に、紗羽は行ったことがあるという。翌週、セッションのために集まった際に、彼女は「ずっと昔だけどケントのご両親が来たときにうちの両親と合わせて行ったよ」と教えてくれた。
「典型的な日本家屋みたいな造りの、立派な建物でね。そこの中庭に水琴窟があるのよ」
「オーストラリア人にうなぎはどうだったの?」
「うなぎの生きてるところを見てはじめは顔顰めてたけどね。甘辛のタレが美味しかった、また来たいって大喜びだったよ」
「あれ? そういえば今日、ケントは?」
いつもならとっくに来ている時間だったが、ケントの姿はない。紗羽は首を軽く振った。
「ちょっとね」
「何かあった?」
「んー、オーストラリアのお義父さんの具合がよくないって、マリナから連絡あったのよ」
「マリナって、メルボルンに住んでるケントのお姉さんだよね」
うん、と紗羽は頷く。
「ケントのお父さん、癌なんだって」
「え?」
「具合悪くて倒れて救急搬送されて、そこで癌だって分かったの。ものすごく進行してて、だから向こうでばたばたしてるみたい。気の強いマリナがケントに慌てて連絡寄越すぐらいだから、あまり時間がないのかもしれない。……ケントは優しいから、頑張ってマリナを励ましたり、向こうのお義母さんを励ましたりしてるけど」
紗羽はうつむき気味に語った。今夜ここにいても大丈夫かと訊ねると、紗羽は「気分転換になるしね」と顔をあげて答えた。
「生きものだから、死ぬときは死んでしまうし」
「……そうだけど、愛着や情や縁があったら、そう簡単には割り切れないよ」
そう言うと、紗羽は「そうだね」と息をつき、弦を引っ掻いた。その音がはじまりのAだったので遠海はぼんやりと想像する。人が生まれるときの音。では、死ぬときの音はあるのだろうか。
← 7
→ 9
「典型的な日本家屋みたいな造りの、立派な建物でね。そこの中庭に水琴窟があるのよ」
「オーストラリア人にうなぎはどうだったの?」
「うなぎの生きてるところを見てはじめは顔顰めてたけどね。甘辛のタレが美味しかった、また来たいって大喜びだったよ」
「あれ? そういえば今日、ケントは?」
いつもならとっくに来ている時間だったが、ケントの姿はない。紗羽は首を軽く振った。
「ちょっとね」
「何かあった?」
「んー、オーストラリアのお義父さんの具合がよくないって、マリナから連絡あったのよ」
「マリナって、メルボルンに住んでるケントのお姉さんだよね」
うん、と紗羽は頷く。
「ケントのお父さん、癌なんだって」
「え?」
「具合悪くて倒れて救急搬送されて、そこで癌だって分かったの。ものすごく進行してて、だから向こうでばたばたしてるみたい。気の強いマリナがケントに慌てて連絡寄越すぐらいだから、あまり時間がないのかもしれない。……ケントは優しいから、頑張ってマリナを励ましたり、向こうのお義母さんを励ましたりしてるけど」
紗羽はうつむき気味に語った。今夜ここにいても大丈夫かと訊ねると、紗羽は「気分転換になるしね」と顔をあげて答えた。
「生きものだから、死ぬときは死んでしまうし」
「……そうだけど、愛着や情や縁があったら、そう簡単には割り切れないよ」
そう言うと、紗羽は「そうだね」と息をつき、弦を引っ掻いた。その音がはじまりのAだったので遠海はぼんやりと想像する。人が生まれるときの音。では、死ぬときの音はあるのだろうか。
← 7
→ 9
「地図?」
「ああ、……今度から収集ルートを変えるので、その案を」
「あ、仕事か」
「いえ、別にこんなのはいまやらなくたっていいので。……今日、蒼生子さんは、」
「彼女だって別に四六時中おれにくっついてなくたっていいんだよ。――今日もお疲れさま」
やって来たビールのグラスを合わせて、まずは杯を煽る。言ったとおりにすぐに食事がやって来たので、「準備がいいね」と三倉は嬉しそうに箸を取った。「腹減ってたんだ」
置かれたピザの皿から三倉はひと切れ取ると、美味そうに口元へ運んだ。それを見ながら遠海はまたぐびりとビールを飲む。
「食わないの、鴇田さん。冷めるよ?」
「あんまり腹が減ってないので」
「だからってオリーブばっかりつまんでちゃだめだろ。すいません、メニューください。食事の方を」
フードメニューを受け取り、三倉が選んだのはトマトとズッキーニのスープだった。
「もう夏野菜か。そんな時期だよなあ」と三倉がしみじみとこぼす。
「考えてみれば夏至はもうとっくに過ぎたもんな。一年あっという間」
「時間の経過を早く感じるってのは、ときめきがないせいらしいですよ」
「えー、こんなに毎日ときめいて暮らしてるのに、そりゃないよ」
「そんなにときめくことあります? 毎日」と冗談めかして言うと、三倉は思いがけず真面目な顔をした。
「あるよ。あるから記者なんて仕事してんだよ」
「ときめきを文字に起こす仕事?」
「そー。この事実を知った人はどう思うんだろうっていう得体の知れない未知へのときめき。淡々と事実を伝える役割だけど、そう思ってばっかりで仕事はしないです。……ま、でも、ある程度の諦めや未来予測はあるかな。こう持っていけば読者はこう感じ取ってくれる、みたいなの。だからここはこういう言い回しにしてこれは削る、とか。……そう考えるとときめいてなんかないね。夢のない仕事だよ」
「金もらってんですから仕方がないです。ある一定の基準はクリアしないと、でしょう。どんな仕事も」
「そうなんだけど、言い訳がましいよな。子どもや若い人には夢を持てだのなんだの言っといて大人の有様はずるいよね」
と三倉は息をついたが、「鴇田さんも充分若い人だな」と苦笑する。
「もう二十八歳ですよ」
「若い若い。おれからすればもう、全然」
色々と老いを感じることばっかりなんだよねえ、と三倉は言った。喋りながらもちゃっかり食は進んでいて、遠海は紗羽を連想した。強かな人、という印象は共通する。
「二十八歳のころってなにしてました?」と訊くと、三倉はしばらく考えて、「あんまり人には話してないことなんだけど、」と前置きした。
「聞いちゃっていいんですか、僕が」
「鴇田さんを信用してるからね。でも田代や周囲はうすうす知ってるかもしれないな。結婚して三年目で、離婚の危機だった」
「……浮気でもばれたんですか、」
「人聞き悪いな、そんな印象かなあ、おれ。浮気出来る度胸なんてないよ」
「人って分からないものですからね」
「そうなんだけどあなたに言われるとちょっと淋しくなるな。……まあいいよ。好きに取ってくれ。二十八歳は離婚の危機でした。おしまい」
すねたように三倉はビールを煽る。そのまま沈黙が出来た。遠海は後悔した。冗談のつもりだったのだが、ニュアンスがうまくない。会話の方向をいま自分は間違えたのだと思った。
どうにも上手に沈黙を流せない。運ばれたスープに口をつけられずにいると、ややあって三倉が「鴇田さん分かりやすいな」とすこし笑った。
ぽん、とたわむれに背中を叩かれ、遠海はあからさまに背を引き攣らせた。
「と、ごめん」
「……いえ、」
「鴇田さんって、触られるの苦手?」
言い当てられて遠海は動揺したが、三倉相手に隠すこともないかと思い、「そうです」と答える。
「多分、人よりパーソナルスペースが広いんです」
「なんか理由があるの」
「全然なにも。なにもないです。ただ親が、僕の両親って人たちが、子育てが下手だった。多少神経質に子どもを育ててしまった。強いて言うならそれだけだと思います」
そう言うと三倉は迷うそぶりを見せたが、好奇心には抗えないようで「聞きたい」と続きを促した。
「虐待とか、DVとか、ネグレクト、そういうんじゃなくて、本当になんにもないんですけど」
「うん」
「その、僕は両親に抱っこされたとか手を繋いで歩いたとかそういう記憶が全くないんです。ないってことは、そんなにしてもらわなかったんだと思う。両親は僕に対してどう触れていいのか分からなかったんだろうなっていうのが、いまのところの考察です。はじめての子どもだったし、余計に戸惑ったんでしょうね。あとは僕自身の性質がそうなのかもしれません。でも、……それだけなんです」
「……うん」
「普通の家庭に育って、両親共に健在で、兄弟もいて、僕に不幸と言えるものはなにもないです。いまちゃんと仕事があって、働けて、自立出来てる。親に迷惑はかけてないし、そのときが来たら親の最期を看取るでしょう。だからなんにも問題ない。ただ、」
そこで息を吸った。「ただ?」と三倉が問い直す。
「どうしても、触れられること、触れることは、怖い」
身を乗り出して遠海の話を聞いていた三倉が、ぱっと身を引いた。遠海は内心で苦笑するも、フォローは出来なかった。
「はじめて人と接する距離を意識したのって、いつでした?」
「おれ? 意識した、っていうのは特にないかなあ」
「きっとみんなそんな感じなんですよね。でも僕には大事件でした。中一のときにやたら距離の近い友人がいて、そいつはべたべた、肩を組んだりちょっかい出して来たりが当たり前で、他の友達はそれを軽く流してたんだけど、僕は出来ませんでした。ぞわぞわして、落ち着かなかった。修学旅行のバスの座席とか、誰かと一緒に寝る空間とかが落ち着かなくて。はじめは神経質だからなんだと思ってました。
高校に入って本当に好きな子が出来て、僕はその子の声とか、手のかたちとかが好きだったんですけど、……触りたかったんですけど、出来ませんでした。向こうも好きだと言ってくれて、好意がこちらに全面向いたときにね。僕は逃げました。瞬間、怖くてたまらなくなった。心が好きだと言っているのに、身体が勝手に逃げていく感じ。最大の防衛本能だったのかもしれません。近い距離に誰か他人を置いて、傷つけたとか傷つけられたと感じるのが、嫌だったのかも」
「……」
「自分はこのままじゃ誰とも添えずに死んでくんだと思ったら、それも怖くて。周囲に知られないように心療内科とかかかったんですけど、どうやっても自分のこの体質? を医者に話せなくて。いまだったら話せるかもしれないですけど、昔はもっと頑固でこわばってたんですよ、僕は。だから医者もどうしてよいやらそのまま、慰めみたいなビタミン剤出されて終わりました。結局飲んでいません」
「……誰とも恋愛したり、触れ合ったり、その、……そういう経験が、ない?」
遠海は頷いた。誰にも告げず内緒にしてきた事柄だったが、三倉には隠さなくても受け入れてもらえるように感じた。もしくは受け流してもらえる。
「いつも思うんですよ。次に誰かをきちんと好きになったら、逃げたくないなって。僕はどういうわけだかあなたに触れられないし、経験もちゃんとしたのがないけど、でもあなたが好きですって、言いたい」
「そうか、……」
また沈黙が流れる。しばらくして三倉は「わるかった」と言った。
「あなたの、……きっととてもナイーブな部分にだいぶずかずかと踏み込んでいるみたいだから、おれは」
否定はしなかった。
「でも、触っていい?」
「え?」
「鴇田さんがいま怖い顔をしているから。すこし、背に手を置くだけ」
「……」迷う気持ちがあった。
「伝えたい。おれは鴇田さんを傷つけないよって、分かってほしいんだと思う」
気持ちわるい? と訊かれ、遠海は首を横に振った。
「気分がわるかったら言います。そのときはやめてください」
「分かった。――触るよ、」
吐息と共に背に熱が触れた。遠海のシャツ越しにごしごしと力強く触れてくる。これが三倉の人への接し方なのだと思ったら、鼻の奥が痛んで参った。それをいつでも当たり前のように享受しているのだろう存在を思うと、苦味が口の中にこみあげる。
← 6
→ 8
「ああ、……今度から収集ルートを変えるので、その案を」
「あ、仕事か」
「いえ、別にこんなのはいまやらなくたっていいので。……今日、蒼生子さんは、」
「彼女だって別に四六時中おれにくっついてなくたっていいんだよ。――今日もお疲れさま」
やって来たビールのグラスを合わせて、まずは杯を煽る。言ったとおりにすぐに食事がやって来たので、「準備がいいね」と三倉は嬉しそうに箸を取った。「腹減ってたんだ」
置かれたピザの皿から三倉はひと切れ取ると、美味そうに口元へ運んだ。それを見ながら遠海はまたぐびりとビールを飲む。
「食わないの、鴇田さん。冷めるよ?」
「あんまり腹が減ってないので」
「だからってオリーブばっかりつまんでちゃだめだろ。すいません、メニューください。食事の方を」
フードメニューを受け取り、三倉が選んだのはトマトとズッキーニのスープだった。
「もう夏野菜か。そんな時期だよなあ」と三倉がしみじみとこぼす。
「考えてみれば夏至はもうとっくに過ぎたもんな。一年あっという間」
「時間の経過を早く感じるってのは、ときめきがないせいらしいですよ」
「えー、こんなに毎日ときめいて暮らしてるのに、そりゃないよ」
「そんなにときめくことあります? 毎日」と冗談めかして言うと、三倉は思いがけず真面目な顔をした。
「あるよ。あるから記者なんて仕事してんだよ」
「ときめきを文字に起こす仕事?」
「そー。この事実を知った人はどう思うんだろうっていう得体の知れない未知へのときめき。淡々と事実を伝える役割だけど、そう思ってばっかりで仕事はしないです。……ま、でも、ある程度の諦めや未来予測はあるかな。こう持っていけば読者はこう感じ取ってくれる、みたいなの。だからここはこういう言い回しにしてこれは削る、とか。……そう考えるとときめいてなんかないね。夢のない仕事だよ」
「金もらってんですから仕方がないです。ある一定の基準はクリアしないと、でしょう。どんな仕事も」
「そうなんだけど、言い訳がましいよな。子どもや若い人には夢を持てだのなんだの言っといて大人の有様はずるいよね」
と三倉は息をついたが、「鴇田さんも充分若い人だな」と苦笑する。
「もう二十八歳ですよ」
「若い若い。おれからすればもう、全然」
色々と老いを感じることばっかりなんだよねえ、と三倉は言った。喋りながらもちゃっかり食は進んでいて、遠海は紗羽を連想した。強かな人、という印象は共通する。
「二十八歳のころってなにしてました?」と訊くと、三倉はしばらく考えて、「あんまり人には話してないことなんだけど、」と前置きした。
「聞いちゃっていいんですか、僕が」
「鴇田さんを信用してるからね。でも田代や周囲はうすうす知ってるかもしれないな。結婚して三年目で、離婚の危機だった」
「……浮気でもばれたんですか、」
「人聞き悪いな、そんな印象かなあ、おれ。浮気出来る度胸なんてないよ」
「人って分からないものですからね」
「そうなんだけどあなたに言われるとちょっと淋しくなるな。……まあいいよ。好きに取ってくれ。二十八歳は離婚の危機でした。おしまい」
すねたように三倉はビールを煽る。そのまま沈黙が出来た。遠海は後悔した。冗談のつもりだったのだが、ニュアンスがうまくない。会話の方向をいま自分は間違えたのだと思った。
どうにも上手に沈黙を流せない。運ばれたスープに口をつけられずにいると、ややあって三倉が「鴇田さん分かりやすいな」とすこし笑った。
ぽん、とたわむれに背中を叩かれ、遠海はあからさまに背を引き攣らせた。
「と、ごめん」
「……いえ、」
「鴇田さんって、触られるの苦手?」
言い当てられて遠海は動揺したが、三倉相手に隠すこともないかと思い、「そうです」と答える。
「多分、人よりパーソナルスペースが広いんです」
「なんか理由があるの」
「全然なにも。なにもないです。ただ親が、僕の両親って人たちが、子育てが下手だった。多少神経質に子どもを育ててしまった。強いて言うならそれだけだと思います」
そう言うと三倉は迷うそぶりを見せたが、好奇心には抗えないようで「聞きたい」と続きを促した。
「虐待とか、DVとか、ネグレクト、そういうんじゃなくて、本当になんにもないんですけど」
「うん」
「その、僕は両親に抱っこされたとか手を繋いで歩いたとかそういう記憶が全くないんです。ないってことは、そんなにしてもらわなかったんだと思う。両親は僕に対してどう触れていいのか分からなかったんだろうなっていうのが、いまのところの考察です。はじめての子どもだったし、余計に戸惑ったんでしょうね。あとは僕自身の性質がそうなのかもしれません。でも、……それだけなんです」
「……うん」
「普通の家庭に育って、両親共に健在で、兄弟もいて、僕に不幸と言えるものはなにもないです。いまちゃんと仕事があって、働けて、自立出来てる。親に迷惑はかけてないし、そのときが来たら親の最期を看取るでしょう。だからなんにも問題ない。ただ、」
そこで息を吸った。「ただ?」と三倉が問い直す。
「どうしても、触れられること、触れることは、怖い」
身を乗り出して遠海の話を聞いていた三倉が、ぱっと身を引いた。遠海は内心で苦笑するも、フォローは出来なかった。
「はじめて人と接する距離を意識したのって、いつでした?」
「おれ? 意識した、っていうのは特にないかなあ」
「きっとみんなそんな感じなんですよね。でも僕には大事件でした。中一のときにやたら距離の近い友人がいて、そいつはべたべた、肩を組んだりちょっかい出して来たりが当たり前で、他の友達はそれを軽く流してたんだけど、僕は出来ませんでした。ぞわぞわして、落ち着かなかった。修学旅行のバスの座席とか、誰かと一緒に寝る空間とかが落ち着かなくて。はじめは神経質だからなんだと思ってました。
高校に入って本当に好きな子が出来て、僕はその子の声とか、手のかたちとかが好きだったんですけど、……触りたかったんですけど、出来ませんでした。向こうも好きだと言ってくれて、好意がこちらに全面向いたときにね。僕は逃げました。瞬間、怖くてたまらなくなった。心が好きだと言っているのに、身体が勝手に逃げていく感じ。最大の防衛本能だったのかもしれません。近い距離に誰か他人を置いて、傷つけたとか傷つけられたと感じるのが、嫌だったのかも」
「……」
「自分はこのままじゃ誰とも添えずに死んでくんだと思ったら、それも怖くて。周囲に知られないように心療内科とかかかったんですけど、どうやっても自分のこの体質? を医者に話せなくて。いまだったら話せるかもしれないですけど、昔はもっと頑固でこわばってたんですよ、僕は。だから医者もどうしてよいやらそのまま、慰めみたいなビタミン剤出されて終わりました。結局飲んでいません」
「……誰とも恋愛したり、触れ合ったり、その、……そういう経験が、ない?」
遠海は頷いた。誰にも告げず内緒にしてきた事柄だったが、三倉には隠さなくても受け入れてもらえるように感じた。もしくは受け流してもらえる。
「いつも思うんですよ。次に誰かをきちんと好きになったら、逃げたくないなって。僕はどういうわけだかあなたに触れられないし、経験もちゃんとしたのがないけど、でもあなたが好きですって、言いたい」
「そうか、……」
また沈黙が流れる。しばらくして三倉は「わるかった」と言った。
「あなたの、……きっととてもナイーブな部分にだいぶずかずかと踏み込んでいるみたいだから、おれは」
否定はしなかった。
「でも、触っていい?」
「え?」
「鴇田さんがいま怖い顔をしているから。すこし、背に手を置くだけ」
「……」迷う気持ちがあった。
「伝えたい。おれは鴇田さんを傷つけないよって、分かってほしいんだと思う」
気持ちわるい? と訊かれ、遠海は首を横に振った。
「気分がわるかったら言います。そのときはやめてください」
「分かった。――触るよ、」
吐息と共に背に熱が触れた。遠海のシャツ越しにごしごしと力強く触れてくる。これが三倉の人への接し方なのだと思ったら、鼻の奥が痛んで参った。それをいつでも当たり前のように享受しているのだろう存在を思うと、苦味が口の中にこみあげる。
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ぽろんぽろんと雨粒みたいな音をさせて、映画は終わった。明かりが灯ると途端に周囲にはざわめきが訪れ、三倉の膝も離れる。「蒼生子さん」と彼は妻を揺さぶった。よっぽどよく眠れたのか(確かに静かな映画だった)、蒼生子はしばらく目をこすっていた。
遠海はこれで暇を告げるつもりだったが、三倉に「予定がないなら一緒に昼食でも」と言われて、嫌と言えなかった。
劇場から出て、チケット売り場の脇の売店で三倉は映画のパンフレットを購入した。三倉が買ったので遠海も購入した。それを見た三倉は意外そうな顔で、だが「買うんだ?」と声を弾ませたが、遠海は答えなかった。「あなたが買うから買います」とは、言うはずもない。
近くのイタリアンレストランで三人で食事を取り、遠海はきっちり自分の会計分だけを三倉に支払い、「じゃあこれで」とようやく離れた。帰りの電車の中で遠海は映画のパンフレットをひらく。映画の概要、役者へのインタビューなどを眺める中で遠海が繰り返し思い返したのは三倉と触れていた膝の熱だった。それから三倉の囁き声。面白い? と訊かれて答えたときの、充実したため息。
電車を降り、改札をくぐり抜けたタイミングで電話が鳴った。心臓に悪かった。登録していない番号からだったが、なんとなくそうじゃないかという予感があり、震えながら電話に出た。
『――鴇田さん?』
三倉です、と電話の主は告げた。それを聞いて、声を聞いて、遠海は本当に嬉しかった。さっきまで傍にいたのに、嬉しかった。
嬉しいと思うことが辛い。
『すみませんね。鴇田さん、忘れ物をされたみたいだったので、田代に連絡して無理やり番号聞き出しちゃいました』
「なにを忘れました?」
『傘。レストラン出るころには雨が止んでいたから、気づいてないかも、と思って。そうだよね、この青い傘』
「ああ、」
確かに遠海が置き忘れた折り畳み傘だった。
『困ってるといけないな、と思ったんで。困ってる? いま、どこ?』
「いまはアパートの方まで戻って来ています。別に困ってはいないんですけど、」
『ああよかった。ならまたあの店に行きますんで、会えたら直接渡すし、会えなかったらお店の人にでも預けます。こんな時期だと必需だね。早く受け取れるようにしますから』
「お手数おかけします」
『いえ、鴇田さんにはまた会いたいしね』
そこで会話が区切れ、電話の向こうから息をつく音がした。
『うわ、すごい』と三倉がこぼす。
「なにが?」
『いまおれたちのいるところから、すごく……なんていうかな、不思議な虹が見えたから』
「虹?」
『うん、雲に重なって、色もはっきりしてる。見えない? 鴇田さんのところからはさ』
遠海は足早に駅の構内を抜けて外に出たが、どの方角を見ても虹は確認できなかった。ただ不安定な空があるだけだ。
「見えます、虹。すこし」
けれど遠海は嘘をついた。
「ビルの隙間になってるけど、」
『あ、ホント? なんかこういうの、おれは嬉しくてさあ』
「はい」
『あとは単純に記事に出来そうっていう直感。ごめん、電話切るね。写真撮るわ』
「はい」
すぐに電話は切れた。あっけないものだな、と思う。それだけ三倉の興奮が伝わって来る。
アパートまで戻ってしばらくして、遠海のスマートフォンが震えた。
三倉からだった。電話番号で送信できるショートメールで写真を送ってくれたのだ。三倉が見た、そして撮影した虹がかかっていた。上空の雲に幅の広い刷毛で掃いたようにさっと虹が乗っていて、それは遠海がこれまでに見たことのない虹のありようだった。
『すごかったですね。今日の記念にどうぞ』
ショートメールにはそう記してあった。遠海はうなだれる。しばらく考えて礼だけにとどめる返信を送り、画像は保存して、そのままスマートフォンの待ち受け画面に設定した。
三倉の素直な喜びが伝わってくるやり取りだった。遠海は胸を押さえる。嘘をついた罪悪感よりも、三倉が嘘を信じて喜んでくれる、そのことの方が遠海の胸を痛ませた。
三倉の前では平気で嘘つきになれる。ごめんなさい、と遠海は思う。
嘘をついてでも、なにをしてでも、三倉にまた会いたいと、祈り縋るように遠海は思った。
遠海はこれで暇を告げるつもりだったが、三倉に「予定がないなら一緒に昼食でも」と言われて、嫌と言えなかった。
劇場から出て、チケット売り場の脇の売店で三倉は映画のパンフレットを購入した。三倉が買ったので遠海も購入した。それを見た三倉は意外そうな顔で、だが「買うんだ?」と声を弾ませたが、遠海は答えなかった。「あなたが買うから買います」とは、言うはずもない。
近くのイタリアンレストランで三人で食事を取り、遠海はきっちり自分の会計分だけを三倉に支払い、「じゃあこれで」とようやく離れた。帰りの電車の中で遠海は映画のパンフレットをひらく。映画の概要、役者へのインタビューなどを眺める中で遠海が繰り返し思い返したのは三倉と触れていた膝の熱だった。それから三倉の囁き声。面白い? と訊かれて答えたときの、充実したため息。
電車を降り、改札をくぐり抜けたタイミングで電話が鳴った。心臓に悪かった。登録していない番号からだったが、なんとなくそうじゃないかという予感があり、震えながら電話に出た。
『――鴇田さん?』
三倉です、と電話の主は告げた。それを聞いて、声を聞いて、遠海は本当に嬉しかった。さっきまで傍にいたのに、嬉しかった。
嬉しいと思うことが辛い。
『すみませんね。鴇田さん、忘れ物をされたみたいだったので、田代に連絡して無理やり番号聞き出しちゃいました』
「なにを忘れました?」
『傘。レストラン出るころには雨が止んでいたから、気づいてないかも、と思って。そうだよね、この青い傘』
「ああ、」
確かに遠海が置き忘れた折り畳み傘だった。
『困ってるといけないな、と思ったんで。困ってる? いま、どこ?』
「いまはアパートの方まで戻って来ています。別に困ってはいないんですけど、」
『ああよかった。ならまたあの店に行きますんで、会えたら直接渡すし、会えなかったらお店の人にでも預けます。こんな時期だと必需だね。早く受け取れるようにしますから』
「お手数おかけします」
『いえ、鴇田さんにはまた会いたいしね』
そこで会話が区切れ、電話の向こうから息をつく音がした。
『うわ、すごい』と三倉がこぼす。
「なにが?」
『いまおれたちのいるところから、すごく……なんていうかな、不思議な虹が見えたから』
「虹?」
『うん、雲に重なって、色もはっきりしてる。見えない? 鴇田さんのところからはさ』
遠海は足早に駅の構内を抜けて外に出たが、どの方角を見ても虹は確認できなかった。ただ不安定な空があるだけだ。
「見えます、虹。すこし」
けれど遠海は嘘をついた。
「ビルの隙間になってるけど、」
『あ、ホント? なんかこういうの、おれは嬉しくてさあ』
「はい」
『あとは単純に記事に出来そうっていう直感。ごめん、電話切るね。写真撮るわ』
「はい」
すぐに電話は切れた。あっけないものだな、と思う。それだけ三倉の興奮が伝わって来る。
アパートまで戻ってしばらくして、遠海のスマートフォンが震えた。
三倉からだった。電話番号で送信できるショートメールで写真を送ってくれたのだ。三倉が見た、そして撮影した虹がかかっていた。上空の雲に幅の広い刷毛で掃いたようにさっと虹が乗っていて、それは遠海がこれまでに見たことのない虹のありようだった。
『すごかったですね。今日の記念にどうぞ』
ショートメールにはそう記してあった。遠海はうなだれる。しばらく考えて礼だけにとどめる返信を送り、画像は保存して、そのままスマートフォンの待ち受け画面に設定した。
三倉の素直な喜びが伝わってくるやり取りだった。遠海は胸を押さえる。嘘をついた罪悪感よりも、三倉が嘘を信じて喜んでくれる、そのことの方が遠海の胸を痛ませた。
三倉の前では平気で嘘つきになれる。ごめんなさい、と遠海は思う。
嘘をついてでも、なにをしてでも、三倉にまた会いたいと、祈り縋るように遠海は思った。
連絡先を知ってしまうということはきっとよくないのだと遠海は思う。とりわけ、感情の方向が異なっているとまずい。適正な距離感を見失うなと言い聞かせながら、その後何度も遠海は三倉と電話で話した。待ちあわせ場所を決めて飲みに行った。その際に連絡先を正式に交換したので、その後はSNSでもやり取りが続いた。
梅雨の気配がますます濃い、七月に入ってはじめの土曜日の夜。土砂降りの中を歩いていつものジャズバーへ行く。店内は混雑しており、蒸していつもより温度があった。
今日のセッションは遠海たち「名無し」バンドの出番ではない。ここでは常時セッションするグループが遠海たち以外に三・四組いて、他はオーナーの伊丹がどこからか連れてきたグループなりアーティストなりに演奏させている。スタッフが歌うときもある。伊丹自身は聴くに徹しているが、昔は遠海と同じくピアノを弾いていた。
カウンター席へ腰を据え、スタッフに「連れが来たら出して」と適当に食事を頼んで鞄の中からファイルを取り出す。新興住宅地が出来、伴ってごみの収集場所が新設されることになった。今回はそれの収集だけに留まらず、いままでなんのかんのと放っておいた各苦情にも対応するといい、たとえばもっと早く収集に来てほしいだの、道が狭いから通勤通学の時間帯はやめてほしいだの、そういう諸々を鑑みて収集車がまわるルートを変更することも検討している。そのルート設定を田代から任された。地図と注文と現状とを比べあわせて収集ルートをあれこれと考える。
考えているうちに目の奥に疲労を感じ、眉間を揉んでいると背中をぽんと軽く叩かれた。思わずびくりと身体を引き攣らせたが、その相手が三倉だと分かると自分でも呆れるぐらいに喜びに貫かれた。
「待ちました?」とテーブルに広げられた書類に目を落としながら三倉は隣に腰かける。今夜、蒼生子の姿はない。蒼生子抜きで三倉に会うのはもう何度もあった。
「今日は黒ビールがいいな。いいですか? ポーターをふたつ」とアルコールを頼み、三倉は再度遠海の手元を覗き込んだ。
← 5
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梅雨の気配がますます濃い、七月に入ってはじめの土曜日の夜。土砂降りの中を歩いていつものジャズバーへ行く。店内は混雑しており、蒸していつもより温度があった。
今日のセッションは遠海たち「名無し」バンドの出番ではない。ここでは常時セッションするグループが遠海たち以外に三・四組いて、他はオーナーの伊丹がどこからか連れてきたグループなりアーティストなりに演奏させている。スタッフが歌うときもある。伊丹自身は聴くに徹しているが、昔は遠海と同じくピアノを弾いていた。
カウンター席へ腰を据え、スタッフに「連れが来たら出して」と適当に食事を頼んで鞄の中からファイルを取り出す。新興住宅地が出来、伴ってごみの収集場所が新設されることになった。今回はそれの収集だけに留まらず、いままでなんのかんのと放っておいた各苦情にも対応するといい、たとえばもっと早く収集に来てほしいだの、道が狭いから通勤通学の時間帯はやめてほしいだの、そういう諸々を鑑みて収集車がまわるルートを変更することも検討している。そのルート設定を田代から任された。地図と注文と現状とを比べあわせて収集ルートをあれこれと考える。
考えているうちに目の奥に疲労を感じ、眉間を揉んでいると背中をぽんと軽く叩かれた。思わずびくりと身体を引き攣らせたが、その相手が三倉だと分かると自分でも呆れるぐらいに喜びに貫かれた。
「待ちました?」とテーブルに広げられた書類に目を落としながら三倉は隣に腰かける。今夜、蒼生子の姿はない。蒼生子抜きで三倉に会うのはもう何度もあった。
「今日は黒ビールがいいな。いいですか? ポーターをふたつ」とアルコールを頼み、三倉は再度遠海の手元を覗き込んだ。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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