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気象予報士が注意喚起していたその台風は、逸れた。西の地方はだいぶ被害を受けたようだが、この辺りは多少風を撒いただけで雨はさほどの被害ではなかったし、少なくとも暖の暮らす街は平和に過ぎた。
それでも嵐の夜は外出を控えた。蒼生子との夜が待っているかと思うと憂鬱だったが、なぜこんなにも蒼生子に対してこじれた感情を抱くのかが暖にはいまひとつ不明で、真剣に考えて結論を出した。きっと、と暖は思う。きっとあの夜、告白された夜、もう会わないと言った(そして実行した)鴇田の「会わない理由」に「暖には妻がいるから」という意味が含まれていたせいだからだろう、と考える。蒼生子からすればとばっちりもいいところだ。暖と蒼生子が結婚したのはふたりの意思で、選択だったのだが、いまになってそれに疑問を持つ。
結婚したら人から想われてはいけないのだろうか。想う人は、それを理由に恋を諦めねばならないのだろうか。
そりゃそうだよな、婚姻という関係はそれだけ特別なことだ、と思う一方で、そうならざるを得なかった鴇田のことはあまりにも淋しいと暖は思っている。叶うなら彼の望みを叶えてやりたかった。触れられないことを苦にして生きる、それがどんなに辛いか、暖なりに真剣に考えたのだ。
だったらこれはただの同情でそう思うのだろうか。
鴇田からは好かれていたいと思っている。好かれていることが嬉しいことだと気づいたのは、久しぶりの感覚だった。久々だからわくわくしているとでも言うのだろうか。単なる興味で好かれていたいのか? 頭が煮えてごちゃごちゃする。
嵐が過ぎて改めて店に向かうと、鴇田遠海の姿はあっさりと見つけることが出来た。
祈り縋るように背を丸め、ピアノに頬ずりでもしそうなあの独特の姿勢で、ピアノをぽろぽろと弾いていた。演奏者は鴇田だけだった。こんなにも簡単に再会出来てしまったことに少々狼狽えるも、暖は嬉しかった。
生憎いつものカウンター席が塞がっていて、奥の小さな席を取るしかなかった。遠くからピアノのあるステージヘ、一心に耳を傾け、眼を凝らす。その場で連続して五曲ほど演奏した鴇田は、いったんステージから降りた。降りて裏へ下がった。そのタイミングで話しかけようとしてテーブルの位置の遠さで逃す。引っ込んだ鴇田がまた出てくるのか、もしくは今夜はもうこれで演奏は終わりで帰ってしまうのか。分からず、たまらなくて、暖は急いで会計を済ませると店を出て地上に出た。そこで鴇田を待つ。
鴇田はなかなか出てこなかった。まだ出番があるのかもしれない。冬だったらこんな行為は耐えられなかったが、いまはちょうどよい季節だ。どこで鳴くのかこんな街中でも秋虫の声が耳に心地よい。
一時間ほどして鴇田は出て来た。暖に気づくと彼はあからさまに体をこわばらせ、足早にその場を過ぎ去ろうとした。
「鴇田さん」
声には振り向きもしない。暖は追いかける。
「待って、待てって――鴇田さん、おれの話を聞いて」
鴇田の足は速かった。追いつくのに精いっぱいだったが、横断歩道で運よく赤信号になり、行き先にためらう後姿に大声で「鴇田さん!」と声を掛けた。多少の卑怯は承知だ。周囲にまだ人が残る時間帯、通りすがる人が声に振り向く。これに人のいい鴇田が困らないはずはないと踏んだ。予想通り鴇田はしかめっ面で自ら暖の方へと二・三歩近寄り、「夜は静かに」と暖を咎めた。
「……鴇田さんが逃げないでおれの話を聞いてくれれば静かにするよ」
「……用件は?」
一応は話を聞いてくれるのだと分かってホッとした。「色々と長くなる」と言うとしかめっ面をさらに深くして、鴇田は「店とか絶対に入らないですよ」と言った。
「ここで話せない話なら僕は帰ります」
「……じゃあ、そこは?」
と指差した先にあるのは公園で、鴇田も頷いたので連れ立って歩いた。手前のコンビニで飲料を買い、適当なベンチを探して並んで腰掛ける。飲料と一緒に買い込んだ二個セットのアイスクリームの片方を分けると、鴇田は一瞬迷う素振りを見せたが、「こういうの懐かしいです」と言って受け取った。
「こういうの?」
「こういう、学生がよくやるやつ。半分ずつに分けっこ」
「ああ。確かにある程度大人になるとしなくなるね。する相手も限定されるしね」
鴇田がどんな学生時代を送ったのかが気になったが、それを話題にすると話が逸れるのでやめた。
「……前に記事で、コラムの欄に三倉さんが『友達が出来た』って書いてたじゃないですか」
「ん、ああ」もう二カ月も前の記事だ。
「あれって僕のことですよね」
「うん」
「あの記事、……すごく嬉しくて、すごく辛かった」
鴇田に渡したアイスクリームが溶けかかっていた。それを指摘すると鴇田は急いでアイスクリームを口にする。最後は指についたクリームを舐めた。その動作、舌の動きにはなんとなく目を取られた。
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朝いちばんで珍しい品種の葡萄を栽培しているという農家の元へ出向き、取材をして、いったん会社に戻って来たところで後輩の女性記者に声を掛けられた。「先日はありがとうございました」と彼女はちいさな紙袋を差し出す。
「これ、奥様にお礼です。よろしくお伝えください」
「気を遣わなくたっていいのに」
「いやもー、だって本当に素敵だったんですもん、あのシャツ。あんなふうに直るなんて思いませんでした。これじゃ足りないぐらいですよ」
「中身、なんなの?」
「『フラウ』のショコラです」
「うわ、そらまた高いもんを」
「奮発しましたもん。お金取ったっていいぐらいですよ、あれは!」
と力説する。
この後輩記者が「お気に入りのシャツに穴が空いちゃったんですが奥様のお力をお借り出来ませんか?」と相談を持ち掛けてきたのは先月のことだった。値が張った分ものがよく、ものがよいので日常着としてがしがし着ていたらボタンホールが裂けてしまったという。彼女は暖の妻が洋裁教室で助手を務めていることを知っていた。暖の着ているシャツがほぼ彼女の手製であることもだ。
「訊いてみるよ」と言っておいて、暖はあまり熱心に関わろうとは思わなかったのだが、こういう依頼でもあれば子ども子どもと言う口がすこしは紛れるかもしれない、と思い直した。実にずるい考え方で、だが実際その依頼の話をしているあいだの蒼生子の目は生き生きとしていて、暖のもくろみは当たった。ボタンホールの他にいくつか修繕が必要な個所があったようで、その依頼を彼女は丁寧に請け、仕事をこなした。そうして仕上がったシャツを後輩社員は大いに喜んだ。すごい、すごいと目を輝かせ、写真に収めてSNSに投稿した結果、たくさんのいいねをもらったという。
その礼の品だ。暖は「じゃあありがたくいただきます」と頭を軽く下げて紙袋を受け取る。後輩が「今日のシャツも奥様の手製ですか?」と訊ねる。暖は苦笑しながら頷いた。蒼生子があまりにも張り切って、もう家にはそれしか着るものがないのだから仕方がない。
「いいなあー」と実に羨ましそうに後輩が漏らす。
「自分の手製のシャツを旦那さんが着てるとか、どんな素敵夫婦ですか、もう。憧れちゃう」
「あなたも早くそういう彼氏作りなさい」
「あ、それこのご時世ではセクハラ発言ですからね。あーあ。彼氏がいたってさあ、シャツ着てくれるとは限らないし、そもそもあたしにそういう技術はないんですから、逆立ちしたって出来っこないですよ」
どうやら後輩は「シャツを縫える技術とセンスを持った女性」と「それを理解してくれるパートナーの存在」に憧れているようだった。なんだかな、と内心で息をつく。確かに蒼生子の縫ったシャツは既製品よりよっぽど見栄えがいいし、着心地もいい。だからと言って家の中のものでそんなに「私」を主張されても、とは感じていた。蒼生子の縫ったクッションカバー、カーテン、テーブルマットにシーツに入る刺繍。彼女の好きな色と柄で揃えられた家具、生活小物、暖の使うボールペンに至るまで妻の手が入る。
もっとも、暖は料理を作るのが好きなので、家で食べる料理はほぼ請け負っている。蒼生子にも「おれが作ったもの」を食べさせているのだ。蒼生子の身体を作っているのはほぼ自分だろうと思うと、反論は難しい。
後輩が「学生時代からのお付き合いでしたよね」と言う。
「それでいつまでも仲がいいって、本当に憧れちゃう。ひとりの人と長く付きあうって、そこにはまればいいんでしょうけど、あたしは無理です」
「おれらだって必ずしも『はまって』るわけじゃないよ」
「そんなこと言って」
「ホントホント」
と言うも後輩は本気にしない。くれぐれもよろしくお伝えください、と言い残して後輩は取材に出かけて行った。憧れの夫婦、な。不意に明るい社内がものすごく眩しく感じられて、暖は咄嗟に目を閉じる。しばらく瞑ってからまた開ければ、いつもの視界に戻っていた。
次の取材の時間まで間があった。もらった紙袋をデスクの上に置きに行くと、暖の携帯電話が震えた。社で使っているものではなく、プライベートで使っている方だ。着信は幼なじみからで、久々だった。
出るとすぐに『ダンのあほたれ』と罵られた。
「え、なに?」
『結婚式の招待状届いてるだろ? 返信早く寄越せっての。期限とっくに過ぎてんぞ』
「あ、」忘れていた。
幼なじみの誠人(まこと)は長くパートナーがいなかったのだが、三十代も折り返し地点となったいま、ようやくそれと定める人が見つかった。確かに結婚を決めたときにそう報告を受けたのに、その後の披露宴の予定などすっかり頭から抜けていた。返信しようと思うことすらすっぽ抜けていたのはきっと、披露宴の招待状が届いたのが梅雨の終わりと重なるせいかもしれなかった。
「ごめん、ごめん。出るよ。行くよ」
そう言うと誠人は『相変わらずノリが軽いな』とぼやく。
「フットワークが軽い、の間違いだろう」
『嫁さんどうする?』と訊かれた。
「ああ、蒼生子さん? どうかな、彼女はあんまりマコに会わせたことないし、大学時代の知人の結婚式とかならともかく、知らない人ばっかりだからな」
『そうかあ』誠人の声音が思いのほか沈んでいるので、不思議に思った。「どうした?」
『いや、おまえの嫁さんってピアノ弾けないかなって思ってさ』
ピアノと聞いて心臓にずきっと衝撃が走った。ずっと求めていながら会えない人は、ごみ収集という人が嫌がりそうな仕事をしながら、ごみを扱うその手でピアノを弾いていた。
「……蒼生子さんは弾けないよ」
『おまえの周辺でピアノの上手なやつ、いない?』
「どうしたんだよ」
暖は苦笑してみせる。
『いやー……。パーティでピアノ弾いてくれる人探してんだ』
「そういうのって式場のスタッフに任せとけばいいんじゃないの?」
『今回式を挙げるところが式場ならな。違うんだよ、おれと彼女の行きつけのレストラン借りてやる、披露宴ってよりはパーティだから、……それも招待状に書いてあるぞ。ちゃんと読めよ』
「ごめんってば」
『まあいいや。それでさ。当初ピアノを演奏してくれるはずだった人が不注意で指を骨折しちゃってさ。弾いてくれる人いないか、探しなおしになっちゃって』
「生演奏の必要のない演出にすればいいじゃないか」
『彼女の希望なんだよ。BGMになんとなくピアノが流れている中でみんな楽しそうに食事をしているような、そういう素朴だけど素敵なお式にしたい、だって。なんて純粋。かわいいだろう?』
「かわいいね」ピアニストに不都合が出てもそれを望む辺りに現実感のなさを感じたが、花嫁とはまた男性とは違う気分のものなのだろう。いまは口を閉ざす。
『な。だから旦那予定の身としてはなんとかして叶えてやりたいと思うわけ』
と誠人は息をつく。それを聞いて暖の頭の中に浮かぶのはやはり鴇田だった。BGMでいい、という辺りがますます彼にそぐっているように思う。「お式いつだっけ?」と訊くと、『またそういう愚問を』と呆れながら言われた。
『それも招待状に書いてあんの! 今月最終の日曜日!』
「わるいわるかったってば。ひとり心当たりがあるけど、その人といま音信不通だからあんまりあてにはならないかもしれない。とりあえず当たってみる。……で、どうだ?」
『え、まじで?』
「音信不通を極めてるからそっちでも引き続き当たっといてくれよ。マコの方で見つかればそれでいいんだし。もしかしたらおれの方で見つかるかもっていう、それだけ」
『いい、いい。全然オッケー。いやー、さすがの人脈だけはあるよな、おまえは』
「最悪ピアノなしの式だけど文句は言うなよ。努力はするが責任は持てん」
『責任持つのはおれよ、おれ。努力しましたって過程が大事なタイプ、おれは』
「おれは結果が大事だと思うけどなあ」
それからいくつか近況を話しあい、電話を切った。なんとなく胸の内側が湧いているのはきっと、鴇田に「連絡を取る努力」をしてみる都合のよい言い訳が出来たからだと分かる。分かっていて嬉しい。
ただこの努力をしても鴇田に会えなかったら相当に落ち込むんだろうなというのは、やはり簡単に想像のつくことだった。
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a storm night
『連日の猛暑は次第におさまりつつありますが、今度は台風が北上しています。大型で非常に強い勢力の台風二十号が南の海上にあり、明日には沖縄地方に接近しそうです。予想天気図を見ていきましょう――』
夏の終わり、秋のはじまりのニュースで気象予報士がそう言った。ぼんやりとテレビを眺めていた三倉暖は知らずのうちに「嵐が来るのか」と呟いていた。
「なに?」と食器を拭いながら妻の蒼生子が訊ね返す。
「いや、なんでもないよ」
「そう」
蒼生子は食器の片付けに戻り、家庭内には沈黙が出来た。それはもう不自然なぐらいの沈黙で、原因は自分だと分かっていて暖はあえて修復を手放している。
暖は最近、苛々していた。
夏のはじまりに出会った男は、雨期の終わりごろ暖に恋心を告白し、それきり連絡が途絶えた。あれからもう一ケ月以上は経過している。夏の最も暑い時期が過ぎ、こうやって前線が次々と通過する季節に入っているというのに、未だに会えない。
同じ街で暮らすと言ったのだから引っ越したわけではないだろう。だが電話は繋がらないし、男がピアノを演奏していた店に行っても姿はない。男の仲間すらいなかった。駄目もとで送ったメッセージも、一向に既読にならない。最終手段は職場で待ち伏せることだが、それをして彼を激しく乱すことだけはしたくなかった。――いや、冷たくあしらわれて自分が傷つくことが嫌なのだろう。
ため息が出た。蒼生子が反応したように思ったが、それも放る。
気象情報が流れ終わると、今度は番組の宣伝に切り替わった。だらだらと見ているようで見ていないテレビ画面を前に、暖は男のことを思い返す。
いつかの夜、酒を飲みながら「好きな人には好きだと伝えたい」と言い切った男の、真っ直ぐな表情。あのときすでに惚れられていたのだろうか。知らずに聞いていたとしたらあまりにも迂闊で愚鈍な話だ。そして男は、それを実行した。有言を実行できる、誠実な人だった。それははじめて見たときからそうではないかという予感があった。だから興味があった。
暖が鴇田遠海をはじめて見たのは、喫茶店での取材の場ではなかった。もっと前から暖は鴇田を見ていた。暖はテレビを消し、のろのろと立ちあがるとベランダへ出た。暖と蒼生子が暮らすマンションのベランダから、このマンションのごみ収集所が見える。要するにマンションの玄関口が見えるわけで、そこを行き交う人を見るのが暖は好きだった。人を眺めるのが趣味だと言ってもいいぐらい、よくベランダに出て見ている。登校していく子ども、会社に向かう大人。自転車で危なっかしく飛び出していく中高生。日傘の女性。休みの日の朝はたいていベランダでコーヒーを飲みながらぼんやりする。そのいつもの眺めの中にごみ収集車がやって来てごみを回収して去っていく、それがあった。
収集作業員にも様々な人間がいるのだろうが、たいていはスピード勝負でさっとごみを持ちあげ収集車に投げ入れて車に乗り込んで去っていく。短いあいだでもあれだけ体を動かせば、彼らは肉体労働者だろうと思いながら眺めていた。その中に男は混ざっていたが、はじめのうちは特に注目して見ることはなかった。
冬だったと思う。寒い朝にいつものようにベランダに出てコーヒーを啜りつつ下を眺めていて、唐突に人の声が響いた。ごみ収集の作業員が大声で「ストーップ! ストップ! 止めます!」と叫んでいる。作業員は後方に据えられた緊急停止ボタンを押し、ごみ収集車の動きは止まった。作業員が急いでごみを引っ張り出す。なにかまずいものでも捨ててあるのを見つけたのだろうかと興味津々に眺めていると、彼は引っ張り出したごみ袋の中から灰色の塊を取り出した。いきもの、と認識した途端に暖は全身から血の気が引くような感覚を味わう。大きさからして小型犬か猫か。遠いせいではっきりしないが、作業員が手で掴んでいる分にはその灰色の塊はだらりとぶら下がっている。
誰かがこっそり飼っていたペットが死んで、ごみとして廃棄処分したのだろうかと暖は考えた。ペットをそんな風に扱う家がこのマンションの中にあることを想像して、気分がわるくなる。最悪の想像――生きたままごみとして処分した――はしないように努めるも、脳裏をかすった。
一生懸命目を凝らして一部始終を暖は見る。塊を取り出した作業員はもうひとりの作業員に指示を出し、車の中からタオルを持ってこさせた。それで塊を包む。包むとそっとそれを地面に置いて、ごみの収集作業を続行した。終えるとタオルで包んだ塊をやはり大事に持ちあげ、車に乗り込んで行ってしまった。
あれが一体なんだったのかが気になり、確か清掃会社に就職した友人がいたと思い起こして連絡を取った。いきものの死骸かなにかを持ち帰った作業員がいなかったか、もしくはそういう話を聞かなかったかと訊ねると、友人は「ああ、鴇田だ」とあっさり答えた。
「トキタ?」
「若い作業員じゃなかった?」
「遠くて顔まで見えなくてね。すらっとした背格好で、姿勢がよかったのは分かったけど」
「そういうのなら鴇田で間違いないと思うよ。そう、あれは猫だったんだ。鴇田は勘がいいっていうのかな、袋の中になにが入っているのかを瞬時に悟るやつでさ。持った瞬間に動物が入ってるって分かって、慌てて封を開けたらしい」
「……死骸?」
「いや、生きてるぞ」
そう言われてぞっとした。生きているものをごみ袋に入れて捨てた人間がマンションにいるかもしれない、と思うと気分は当然ながらよくない。
だが友人は「ちゃんとあのあと飼い主も見つかったしな」と続けた。
「ん? え、あれ? 生きてる?」
「そう言っただろう? 生きてるよ、鴇田が助けたからな。あのあと自費で動物病院連れてって、衰弱してたけど、さいわい猫はどこも怪我なくて済んだんだ。しばらく鴇田が面倒見てたけどあいつはアパートで本当は飼えないからって言ってみんなで飼い主探して、事務所で飼うか? なんて話をしてたら欲しいって人が現れたから引き取ってもらったよ。まー、色々とラッキーだったな」
その顛末を聞いてなんだか救われた。気分のわるさもすこし和らぐ。やがてその話題は「悪徳ブリーダーが繁殖に失敗した猫を生きたままごみ袋に詰めてマンションのごみ収集所に置き去りにした」ニュースとなって周囲を一時騒然とさせたが、きちんと刑罰が科されて騒ぎも収まった。そして暖は、その「トキタ」という収集作業員の姿を興味を持って見つめるようになった。ごみを収集しに来る中にらしき人がいれば徹底的に眺めた。眺める中で顔を覚え、動作を覚えた。きびきびと素早い動作ながら植木の花に気を遣ってごみを集めたり、ふとした隙に空を見上げるような仕草は、心のささくれた人にはないものだと思えた。無関心ではいられないなにかを持っている。
育つ夏の雲のように、むくむくと「話を聞いてみたい」欲が湧いた。職権濫用と言われようとなんだろうと取材の申し込みを入れた。友人に仲介をしてもらって指名した。渋がられながらも対面出来たとき、そして肉声を聞けた瞬間は、素直に嬉しかった。
その後、個人的な付きあいをしていく中で、好意はよりいっそう深まった。だからと言って暖のそれは鴇田のそれとは異なるものだったわけだが、告白されても暖はこの関係を続けるつもりでいた。元に戻れる。また笑って話が出来る。向こうの感情など全くお構いなしだったと言える。身勝手な付きあいをさせて、――それを思うとやはり後悔が湧いた。
会いたいと思う。身勝手さをあからさまに出すなら、元通り誘いあって飲みに行く仲になりたかった。それほどあの日々が弾んで楽しかったのだ。本当に自己のかわいさに嫌になる。だがここで関係が切れるのは惜しい。
いつか収集ルートを変えるとかなんとか言っていたせいか、その後マンションのごみ収集時間も変更になり、収集作業員の姿を以前のようには見かけなくなった。そのこともまた暖を苛々させている。
カラリと音をさせて蒼生子が室内から顔を覗かせた。「お風呂先に入るよ」と言う。
「暖は?」
「おれはもうちょっとここでぼんやりしてる。先に休んでていいよ。明日も教室だろ」
「……今夜は、」
「――ごめんな、ちょっと考え事させて」
それだけ言って蒼生子に背を向けた。蒼生子がわるいわけじゃない。彼女はなにもわるくない。ただ暖の気持ちの収まりがわるいだけだ。
身勝手だ、と呟く。
地上七階のマンションのベランダにも秋虫の声は届き、暖は目を閉じた。
→ 2
『連日の猛暑は次第におさまりつつありますが、今度は台風が北上しています。大型で非常に強い勢力の台風二十号が南の海上にあり、明日には沖縄地方に接近しそうです。予想天気図を見ていきましょう――』
夏の終わり、秋のはじまりのニュースで気象予報士がそう言った。ぼんやりとテレビを眺めていた三倉暖は知らずのうちに「嵐が来るのか」と呟いていた。
「なに?」と食器を拭いながら妻の蒼生子が訊ね返す。
「いや、なんでもないよ」
「そう」
蒼生子は食器の片付けに戻り、家庭内には沈黙が出来た。それはもう不自然なぐらいの沈黙で、原因は自分だと分かっていて暖はあえて修復を手放している。
暖は最近、苛々していた。
夏のはじまりに出会った男は、雨期の終わりごろ暖に恋心を告白し、それきり連絡が途絶えた。あれからもう一ケ月以上は経過している。夏の最も暑い時期が過ぎ、こうやって前線が次々と通過する季節に入っているというのに、未だに会えない。
同じ街で暮らすと言ったのだから引っ越したわけではないだろう。だが電話は繋がらないし、男がピアノを演奏していた店に行っても姿はない。男の仲間すらいなかった。駄目もとで送ったメッセージも、一向に既読にならない。最終手段は職場で待ち伏せることだが、それをして彼を激しく乱すことだけはしたくなかった。――いや、冷たくあしらわれて自分が傷つくことが嫌なのだろう。
ため息が出た。蒼生子が反応したように思ったが、それも放る。
気象情報が流れ終わると、今度は番組の宣伝に切り替わった。だらだらと見ているようで見ていないテレビ画面を前に、暖は男のことを思い返す。
いつかの夜、酒を飲みながら「好きな人には好きだと伝えたい」と言い切った男の、真っ直ぐな表情。あのときすでに惚れられていたのだろうか。知らずに聞いていたとしたらあまりにも迂闊で愚鈍な話だ。そして男は、それを実行した。有言を実行できる、誠実な人だった。それははじめて見たときからそうではないかという予感があった。だから興味があった。
暖が鴇田遠海をはじめて見たのは、喫茶店での取材の場ではなかった。もっと前から暖は鴇田を見ていた。暖はテレビを消し、のろのろと立ちあがるとベランダへ出た。暖と蒼生子が暮らすマンションのベランダから、このマンションのごみ収集所が見える。要するにマンションの玄関口が見えるわけで、そこを行き交う人を見るのが暖は好きだった。人を眺めるのが趣味だと言ってもいいぐらい、よくベランダに出て見ている。登校していく子ども、会社に向かう大人。自転車で危なっかしく飛び出していく中高生。日傘の女性。休みの日の朝はたいていベランダでコーヒーを飲みながらぼんやりする。そのいつもの眺めの中にごみ収集車がやって来てごみを回収して去っていく、それがあった。
収集作業員にも様々な人間がいるのだろうが、たいていはスピード勝負でさっとごみを持ちあげ収集車に投げ入れて車に乗り込んで去っていく。短いあいだでもあれだけ体を動かせば、彼らは肉体労働者だろうと思いながら眺めていた。その中に男は混ざっていたが、はじめのうちは特に注目して見ることはなかった。
冬だったと思う。寒い朝にいつものようにベランダに出てコーヒーを啜りつつ下を眺めていて、唐突に人の声が響いた。ごみ収集の作業員が大声で「ストーップ! ストップ! 止めます!」と叫んでいる。作業員は後方に据えられた緊急停止ボタンを押し、ごみ収集車の動きは止まった。作業員が急いでごみを引っ張り出す。なにかまずいものでも捨ててあるのを見つけたのだろうかと興味津々に眺めていると、彼は引っ張り出したごみ袋の中から灰色の塊を取り出した。いきもの、と認識した途端に暖は全身から血の気が引くような感覚を味わう。大きさからして小型犬か猫か。遠いせいではっきりしないが、作業員が手で掴んでいる分にはその灰色の塊はだらりとぶら下がっている。
誰かがこっそり飼っていたペットが死んで、ごみとして廃棄処分したのだろうかと暖は考えた。ペットをそんな風に扱う家がこのマンションの中にあることを想像して、気分がわるくなる。最悪の想像――生きたままごみとして処分した――はしないように努めるも、脳裏をかすった。
一生懸命目を凝らして一部始終を暖は見る。塊を取り出した作業員はもうひとりの作業員に指示を出し、車の中からタオルを持ってこさせた。それで塊を包む。包むとそっとそれを地面に置いて、ごみの収集作業を続行した。終えるとタオルで包んだ塊をやはり大事に持ちあげ、車に乗り込んで行ってしまった。
あれが一体なんだったのかが気になり、確か清掃会社に就職した友人がいたと思い起こして連絡を取った。いきものの死骸かなにかを持ち帰った作業員がいなかったか、もしくはそういう話を聞かなかったかと訊ねると、友人は「ああ、鴇田だ」とあっさり答えた。
「トキタ?」
「若い作業員じゃなかった?」
「遠くて顔まで見えなくてね。すらっとした背格好で、姿勢がよかったのは分かったけど」
「そういうのなら鴇田で間違いないと思うよ。そう、あれは猫だったんだ。鴇田は勘がいいっていうのかな、袋の中になにが入っているのかを瞬時に悟るやつでさ。持った瞬間に動物が入ってるって分かって、慌てて封を開けたらしい」
「……死骸?」
「いや、生きてるぞ」
そう言われてぞっとした。生きているものをごみ袋に入れて捨てた人間がマンションにいるかもしれない、と思うと気分は当然ながらよくない。
だが友人は「ちゃんとあのあと飼い主も見つかったしな」と続けた。
「ん? え、あれ? 生きてる?」
「そう言っただろう? 生きてるよ、鴇田が助けたからな。あのあと自費で動物病院連れてって、衰弱してたけど、さいわい猫はどこも怪我なくて済んだんだ。しばらく鴇田が面倒見てたけどあいつはアパートで本当は飼えないからって言ってみんなで飼い主探して、事務所で飼うか? なんて話をしてたら欲しいって人が現れたから引き取ってもらったよ。まー、色々とラッキーだったな」
その顛末を聞いてなんだか救われた。気分のわるさもすこし和らぐ。やがてその話題は「悪徳ブリーダーが繁殖に失敗した猫を生きたままごみ袋に詰めてマンションのごみ収集所に置き去りにした」ニュースとなって周囲を一時騒然とさせたが、きちんと刑罰が科されて騒ぎも収まった。そして暖は、その「トキタ」という収集作業員の姿を興味を持って見つめるようになった。ごみを収集しに来る中にらしき人がいれば徹底的に眺めた。眺める中で顔を覚え、動作を覚えた。きびきびと素早い動作ながら植木の花に気を遣ってごみを集めたり、ふとした隙に空を見上げるような仕草は、心のささくれた人にはないものだと思えた。無関心ではいられないなにかを持っている。
育つ夏の雲のように、むくむくと「話を聞いてみたい」欲が湧いた。職権濫用と言われようとなんだろうと取材の申し込みを入れた。友人に仲介をしてもらって指名した。渋がられながらも対面出来たとき、そして肉声を聞けた瞬間は、素直に嬉しかった。
その後、個人的な付きあいをしていく中で、好意はよりいっそう深まった。だからと言って暖のそれは鴇田のそれとは異なるものだったわけだが、告白されても暖はこの関係を続けるつもりでいた。元に戻れる。また笑って話が出来る。向こうの感情など全くお構いなしだったと言える。身勝手な付きあいをさせて、――それを思うとやはり後悔が湧いた。
会いたいと思う。身勝手さをあからさまに出すなら、元通り誘いあって飲みに行く仲になりたかった。それほどあの日々が弾んで楽しかったのだ。本当に自己のかわいさに嫌になる。だがここで関係が切れるのは惜しい。
いつか収集ルートを変えるとかなんとか言っていたせいか、その後マンションのごみ収集時間も変更になり、収集作業員の姿を以前のようには見かけなくなった。そのこともまた暖を苛々させている。
カラリと音をさせて蒼生子が室内から顔を覗かせた。「お風呂先に入るよ」と言う。
「暖は?」
「おれはもうちょっとここでぼんやりしてる。先に休んでていいよ。明日も教室だろ」
「……今夜は、」
「――ごめんな、ちょっと考え事させて」
それだけ言って蒼生子に背を向けた。蒼生子がわるいわけじゃない。彼女はなにもわるくない。ただ暖の気持ちの収まりがわるいだけだ。
身勝手だ、と呟く。
地上七階のマンションのベランダにも秋虫の声は届き、暖は目を閉じた。
→ 2
「――鴇田さん?」
「すみません、好きになってしまいました。あなたが好きです」
「……それはええと、おれもで、」
「いえ、三倉さんの思う友情だとかlikeではない、という好きです」
三倉は黙った。
「これを、……告げるかどうかは迷ったんです。あなたは妻帯者だし、男性だし、僕は同性です。ですが三倉さんがこのあいだ書いた記事を読んで、ちゃんと言おうって、決めたんです。いつ言うかまでは考えてなかったですけど、もうなんていうか、僕が無理なので喋ります。――気持ちわるいかもしれませんが、すこし聞いてください」
三倉は息を飲んで驚きを隠さない。心臓が潰れそうにつめたく、耳の後ろから聞こえるはずのない拍動が聞こえた。こめかみが引き攣っていたが、遠海は喋る。
「あなたが好きです。恋だという意味です。僕の性格からして、これを言わずに隠して友だち付きあいを続けていくことは難しいことです。むしろ告げて恋を終わりにしたい。苦しいのは嫌です。だから話します。……恋を自覚すると同時の失恋というのは、辛いんでしょうかね。経験がろくにないので僕にはよく分かりません。けど、失恋なので、僕はもうあなたに会うつもりはありません。この一カ月半ぐらい、しんどくて、楽しくて、やっぱりしんどかった。大切なものを貰ったんだと思います。だから……ありがとうございました」
頭を下げたが、三倉は反応しなかった。
「本当なら引っ越したいです。どこか遠くに」
そう言うと、三倉は顔をしかめて「それは」と抵抗を口にした。だが言葉が続かない。遠海も聞く気はなかった。ただ、引き止めてもらえるぐらいには近い存在でいられたんだな、と思うと、じわりと温かく泣きたくて嬉しかった。
「それぐらい本気で好きです」
「……」
「でもね、三倉さん。僕はいまのアパートをそれなりに気に入っていて、職も変えるつもりはありません。そこまで一新したくはないんです。――もう会いません。だけど、このままこの街で暮らしてあなたを思うぐらいの自由というか、それぐらいは許して貰いたいと思います。本当にありがとうございました。あなたが好きです」
元より言葉が上手く出る性質ではないが、遠海にしたら驚くほど膨大な台詞量が出て来た。口説くつもりはないが、愛情を訴える手段を自分は持っていたのだなと知る。それで充分に思えた。三倉の反応を聞く前にここを去りたくて、遠海は席を立とうとした。だが咄嗟に三倉に手首を掴まれ、その力強さと熱で心にあさましく喜びが湧きあがる。
「待って、……もう会わないって、」
「すみません。でも僕は三倉さんが思うような関係を望んでいないんです。だからもう会わない、というよりは、会えないです」
これ以上はやめてくれ、と思う。ここを立ち去りたい。遠海の望みは叶わないのだから。三倉から与えられる熱に参っている場合ではない。
「おれの答えは聞かないわけ?」
「答えなんてはじめから出ています。……離してもらえませんか、」
「離したらあなたは行くだろう。それでそのまま、それきりって、それは、ないよ……」
「僕の心が壊れそうなので、もうこれ以上は本当に、勘弁してください。もう、……会いたくない、」
「それが本心のわけないだろう」
「本心です。あなたから逃げてしまわないと、僕は僕を保てません。伝わりませんか? あなたが好きです」
「だからそうやってひとりで済ませてしまうんじゃなくて」
「暖、」
と、硬い声があいだに入る。仕事を終えてやって来た蒼生子が呆然とそこに立っていた。
瞬間的に三倉は遠海の手を離した。熱源を失って、遠海の身体に一気に冷たい真水が流れ込んできた。
溶けかかった身体が冷え固まって遠海の形に戻っていく。そうやって生きていく。これから先、ずっと。
「……いま、これは、どういうこと、なんだろ……?」と蒼生子が問う。このタイミングの良さ、もしくは悪さに、遠海は思わず舌打ちをしたくなったが堪えた。
「僕の台詞、聞いてましたか?」
「……途中から。ごめんなさい、えっと、……」
「なら話は早いです。あなたのご主人に対して、思ってはいけない感情を持ってしまいました。もう、……会わないです。僕は変わらずこの街で暮らしますけど、しばらくは想ったままかもしれないけど、会わないので、ご迷惑はおかけしませんので……許して貰えませんか」
蒼生子は黙った。三倉も黙っている。遠海は鞄を背負うと、ふたりに対して深く頭を下げた。
「失礼します。いままでありがとうございました」
大声で三倉が「鴇田さん!」と叫んだが、構わずその場を立ち去る。三倉は追いかけて来るようなことはしなかった。妻の手前か、遠海を慮ってか、自身の意思なのかは分からない。けれどそれでいいと思う。店を出て鼓動が耳の後ろから胸に戻って来た。どくどくと血を送り、いまごろになって手足が突っ張る。
足早に歩けるだけ歩いて、なんとか緑化公園にたどり着くと、自販機でスポーツドリンクを購入してベンチに座り込んだ。
ペットボトルの蓋を開けられなかった。手が小刻みに震えている。大きく息をつき、顔を上に向けた。上に向けてようやく雨が降っていることに気づいた。尻にしているベンチもしっとりと濡れている。
このままここで眠りたいぐらいに疲労していたが、後悔はなかった。友達のいない、梅雨入り前と同じ日々に戻るだけだ。
……いや、同じかな。せめて三倉が最後に言った「ひとりで済ませてしまうんじゃなくて」の続きぐらい聞いてから終わりにしても良かったのかもしれない。……そんなこといまさら考えても仕方がない。
深呼吸して、立ちあがる。飲料を飲むことは諦めて遠海は駅に向かってまた歩き出した。途中、電器屋の前を通る。そこには新型のテレビが置かれていて、画面いっぱいに天気図と男女が写り、気象情報を流していた。
前線の位置がかなり上がって来ていた。九州地方だけでなく、中国・四国地方も梅雨明けだと言う。
この雨の終わりも近い。
のろのろとアパートへの道を行く。遠海が予感した通りに翌日、雨は止んだ。止んで晴れた。その日の昼過ぎ、気象予報士は関東地方の梅雨明けを発表した。
暑い夏がやって来る。
梅雨前線 end.
← 11
次は9月に更新します。
「すみません、好きになってしまいました。あなたが好きです」
「……それはええと、おれもで、」
「いえ、三倉さんの思う友情だとかlikeではない、という好きです」
三倉は黙った。
「これを、……告げるかどうかは迷ったんです。あなたは妻帯者だし、男性だし、僕は同性です。ですが三倉さんがこのあいだ書いた記事を読んで、ちゃんと言おうって、決めたんです。いつ言うかまでは考えてなかったですけど、もうなんていうか、僕が無理なので喋ります。――気持ちわるいかもしれませんが、すこし聞いてください」
三倉は息を飲んで驚きを隠さない。心臓が潰れそうにつめたく、耳の後ろから聞こえるはずのない拍動が聞こえた。こめかみが引き攣っていたが、遠海は喋る。
「あなたが好きです。恋だという意味です。僕の性格からして、これを言わずに隠して友だち付きあいを続けていくことは難しいことです。むしろ告げて恋を終わりにしたい。苦しいのは嫌です。だから話します。……恋を自覚すると同時の失恋というのは、辛いんでしょうかね。経験がろくにないので僕にはよく分かりません。けど、失恋なので、僕はもうあなたに会うつもりはありません。この一カ月半ぐらい、しんどくて、楽しくて、やっぱりしんどかった。大切なものを貰ったんだと思います。だから……ありがとうございました」
頭を下げたが、三倉は反応しなかった。
「本当なら引っ越したいです。どこか遠くに」
そう言うと、三倉は顔をしかめて「それは」と抵抗を口にした。だが言葉が続かない。遠海も聞く気はなかった。ただ、引き止めてもらえるぐらいには近い存在でいられたんだな、と思うと、じわりと温かく泣きたくて嬉しかった。
「それぐらい本気で好きです」
「……」
「でもね、三倉さん。僕はいまのアパートをそれなりに気に入っていて、職も変えるつもりはありません。そこまで一新したくはないんです。――もう会いません。だけど、このままこの街で暮らしてあなたを思うぐらいの自由というか、それぐらいは許して貰いたいと思います。本当にありがとうございました。あなたが好きです」
元より言葉が上手く出る性質ではないが、遠海にしたら驚くほど膨大な台詞量が出て来た。口説くつもりはないが、愛情を訴える手段を自分は持っていたのだなと知る。それで充分に思えた。三倉の反応を聞く前にここを去りたくて、遠海は席を立とうとした。だが咄嗟に三倉に手首を掴まれ、その力強さと熱で心にあさましく喜びが湧きあがる。
「待って、……もう会わないって、」
「すみません。でも僕は三倉さんが思うような関係を望んでいないんです。だからもう会わない、というよりは、会えないです」
これ以上はやめてくれ、と思う。ここを立ち去りたい。遠海の望みは叶わないのだから。三倉から与えられる熱に参っている場合ではない。
「おれの答えは聞かないわけ?」
「答えなんてはじめから出ています。……離してもらえませんか、」
「離したらあなたは行くだろう。それでそのまま、それきりって、それは、ないよ……」
「僕の心が壊れそうなので、もうこれ以上は本当に、勘弁してください。もう、……会いたくない、」
「それが本心のわけないだろう」
「本心です。あなたから逃げてしまわないと、僕は僕を保てません。伝わりませんか? あなたが好きです」
「だからそうやってひとりで済ませてしまうんじゃなくて」
「暖、」
と、硬い声があいだに入る。仕事を終えてやって来た蒼生子が呆然とそこに立っていた。
瞬間的に三倉は遠海の手を離した。熱源を失って、遠海の身体に一気に冷たい真水が流れ込んできた。
溶けかかった身体が冷え固まって遠海の形に戻っていく。そうやって生きていく。これから先、ずっと。
「……いま、これは、どういうこと、なんだろ……?」と蒼生子が問う。このタイミングの良さ、もしくは悪さに、遠海は思わず舌打ちをしたくなったが堪えた。
「僕の台詞、聞いてましたか?」
「……途中から。ごめんなさい、えっと、……」
「なら話は早いです。あなたのご主人に対して、思ってはいけない感情を持ってしまいました。もう、……会わないです。僕は変わらずこの街で暮らしますけど、しばらくは想ったままかもしれないけど、会わないので、ご迷惑はおかけしませんので……許して貰えませんか」
蒼生子は黙った。三倉も黙っている。遠海は鞄を背負うと、ふたりに対して深く頭を下げた。
「失礼します。いままでありがとうございました」
大声で三倉が「鴇田さん!」と叫んだが、構わずその場を立ち去る。三倉は追いかけて来るようなことはしなかった。妻の手前か、遠海を慮ってか、自身の意思なのかは分からない。けれどそれでいいと思う。店を出て鼓動が耳の後ろから胸に戻って来た。どくどくと血を送り、いまごろになって手足が突っ張る。
足早に歩けるだけ歩いて、なんとか緑化公園にたどり着くと、自販機でスポーツドリンクを購入してベンチに座り込んだ。
ペットボトルの蓋を開けられなかった。手が小刻みに震えている。大きく息をつき、顔を上に向けた。上に向けてようやく雨が降っていることに気づいた。尻にしているベンチもしっとりと濡れている。
このままここで眠りたいぐらいに疲労していたが、後悔はなかった。友達のいない、梅雨入り前と同じ日々に戻るだけだ。
……いや、同じかな。せめて三倉が最後に言った「ひとりで済ませてしまうんじゃなくて」の続きぐらい聞いてから終わりにしても良かったのかもしれない。……そんなこといまさら考えても仕方がない。
深呼吸して、立ちあがる。飲料を飲むことは諦めて遠海は駅に向かってまた歩き出した。途中、電器屋の前を通る。そこには新型のテレビが置かれていて、画面いっぱいに天気図と男女が写り、気象情報を流していた。
前線の位置がかなり上がって来ていた。九州地方だけでなく、中国・四国地方も梅雨明けだと言う。
この雨の終わりも近い。
のろのろとアパートへの道を行く。遠海が予感した通りに翌日、雨は止んだ。止んで晴れた。その日の昼過ぎ、気象予報士は関東地方の梅雨明けを発表した。
暑い夏がやって来る。
梅雨前線 end.
← 11
次は9月に更新します。
インターネットで気象庁のページをひらく。天気図を眺め、前線がだいぶ北に上がってきたなと思った。もう九州地方では梅雨明けが発表された。この雨もじきに終わると思いながらも、今年の梅雨は大当たりで今日もよく降っては街を濡らしている。どこもかしこも雨、雨、雨で、場所によっては災害も起こっている。異常気象の気配を感じ取ってはいるが、この街にひとまず困ることは起きていない。
先日、三倉の記事を読んだ。それは何度も眺めたのですっかり覚えてしまっていて、遠海は記事の内容を頭の中で思い返す。三倉の勤める「あおばタイムス」では記者が持ち回りで書くコラムの欄があり、それを読んだのだった。
『最近、友人が出来た。私のようにある程度年齢を重ねて来ると思春期みたく爆発する勢いで友人を作ることは中々ない。それがこの友人とでは「爆発する」勢いだった。驚いている▼若いうちにしか出来ない事があれば老いてようやく為せる事もある。前者は肉体的なエネルギーを要する事が多く、後者は熟考や技術の積み重ねの末に果たせる事が多いように思う。だが時折、それを飛び越える事象がある。若い棋士が何万手から最善の一手を指す事もあれば、老いて学に励み論文を執筆して大学を卒業する人もいる。人生は人それぞれにあり、何が起きるかは分からないと言う事だ▼楽しく生きていたいがそうは行かない時もある。今やらなければ半年後の自分は後悔するのか、もしくはやらなかった結果の幸運が待ち受けているのか。瞬発力は年々衰えて行くばかりだが思考は出来る。私は思考を止めたくない。あなたはどうか。〈暖〉』
いまやらなければ後悔するのか、幸運を受け取るのか。遠海はぼんやりと言葉を呟き、考える。
今日は職場に三倉が来る。取材に入ると言っていた。社長にインタビューなら遠海は関係がないと思っていたが、いわく「記者からの強い要望で」、現場で働く社員の話も訊きたいとのことで、田代と遠海も応じることになった。そういうものは広報部にでも任せればいいものを、絶対に職権濫用だと思いながら、それでも三倉に会える喜びに抗えない。
取材は午後からだった。午前中は遠海ら作業員が現場へ出てしまうことが多いため、それを考慮してのことだった。ぬるい雨の降りしきる中を同僚らと組んで作業し、昼に戻るころにはずぶ濡れで汗だくで、しっかりと汚れていた。カロリー摂取だけを目的とするゼリー飲料を数秒で口にして、社内にあるシャワー室で身体を洗う。洗い替えの作業着に着替えなおし、事務室に顔を出すと田代が新聞を読みながら待っていた。
「もう来てる。おまえが戻り次第応接間に来てくれ、って」
頷いて田代の後ろについた。
応接間からは朗らかな笑い声が漏れ響いていた。三倉が興味を持って笑んでいるのだと遠海はもう分かる。社長の機嫌も上々のようだった。田代が扉をノックし、失礼しますと断って中に入る。社長と三倉が揃ってこちらを向いた。三倉と目が合う。ほんのりと、目だけで彼は合図してみせた。
「挨拶しなおすほどでもないな」と田代は笑い、「そうだな」と三倉も同意した。田代は社長の隣に座り、遠海はパイプ椅子を引っ張り出して座った。
「いまね、社長さんから会社の成り立ちと伴う武勇伝を聞かせてもらっていました。いやあ、これは読みごたえのある記事になる。あとは現場の方というか、部下の方のお話もね」
「田代からの方がいいか? 一応、現場直属の管理職だからな」と社長が言う。
「では、一応現場直属の管理職の私から。そのあと鴇田にも話をさせますか。現場の最先端ですからね」
と、田代と社長と三倉とで笑いながら色々と喋っていた。三倉は聞き上手で、手元の手帳にインタビュー内容をすらすらと書き取っていく。ボイスレコーダーだって持っているだろうに、あくまでも肉声に耳を傾けて一言一句聞き漏らすまいと話を聞いている三倉の姿勢には好感が持て、いつまでも見ていたいとぼんやり思っていた。「なあ、鴇田」といきなり田代に話を振られたので、遠海はびっくりして三倉から目を離す。
「なんだ聞いてなかったのか、鴇田」
「すみません、ぼんやりしていました。なんでしたっけ」
「ごみに花火が混ざっててボヤ騒ぎになってたときの話だよ。おまえあのころ、新人だったけど配属されてたぞ」
「ああ。僕が新人ならまだ清掃局があった頃の話ですね。ボヤなんてありましたかね?」
「あの頃からゴミ袋が透明になったんだ。あのね三倉さん、それまでは黒とか青とか色がついていましてね」
「いえ社長、ゴミ袋の透明化はもっと前のはずです。僕が入局した時はもう透明でしたから」
「ビニールの質が悪くてすぐ破けたりなあ」
社長と田代と三人で喋っていると、三倉は堪えきれないとばかりに可笑しそうに笑った。
「いえ、御三方集まられても社長と中間管理職とその部下、という感じがあまりしませんね。仲が良くて素敵です」
と言う。社長も豪快に笑った。
「あんまりなれ合ってくれても困りますけど、まあうちは仕事に出てしまえば基本的にはバディとしか話しませんので。垣根を超えた交流はね、ある程度は狙っていますよ」
「狙われすぎても困りますけどね」
「鴇田、おまえはもっと他人に気を許しなさい。いつでも背後に敵がいるような顔してるんだから」
「そんな訳のわからない顔はしてないと思いますよ」
やり取りにやはり三倉は笑い、「いい社風ですね」とコメントした。
最後に社長だけの写真と、三人そろった写真を撮り、三倉は「記事になりましたら掲載紙を送らせていただきます」と告げ、去った。いつもの退社時刻を過ぎている。「残業扱いでいいぞ」と社長が言うのでそうさせてもらい、ロッカールームに戻って着替えていると三倉からメッセージが届いているのに気づいた。
『今夜飲みません? 妻も一緒ですけど』
蒼生子と待ちあわせているという居酒屋のURLと時間も記されていた。遠海はため息をつく。ふとロッカーの内側に据えられた鏡の中にいる自分を見る。顎が尖って痩せて来たな、と思った。
もう、あまり悩んでいる時間ばかりでも仕方がない、と思う。鏡の中の自分は目だけやけに光っていた。人間じゃないみたいに見える。このまま人じゃないものになるのかもしれない。息をついて、返信を打った。「行きます」。
待ちあわせ場所には三倉しかいなかった。蒼生子はどうしたのかと尋ねると、仕事で遅れてくると答えがあった。三倉の話では、蒼生子は洋裁のカルチャー講座でアシスタントを務めているという。裁縫に関してはかなりの腕前の様子で、三倉が「このシャツいいね」と雑誌などを見せると、それを見ながらパターンを起こしてシャツを手製で作ってしまうほどらしい。それでようやく納得した。三倉は常に妻の手製のシャツを身に着けていた。だからあんなに三倉に似合っていたわけだ。
三倉が案内したのは和食の創作居酒屋だった。「後からひとり来ます」と店員に言い、四人掛けの席に向かいあわせで座る。おしぼりを手に「なに食いますかね」とメニューを三倉は選ぶ。遠海も覗き込む。メニューを握る三倉の手にはペンのインクが染みこんでいた。指を意識して、背筋がひやっとする。
「冷ややっこと、あ、カツオがあるな。鴇田さん、なに食いたいですか?」
「お任せします」
そう言うと、三倉は眉根を寄せた。
「一緒に飲んでる機会が多いから分かってて余計にしつこく訊くんですけど、鴇田さん、ちゃんと食ってます?」
三倉の質問にはあえてなにも答えなかった。あなたが好きで仕方がないから一緒にいると食事もままならない、とはどうやっても口から出てこない。
「なんかますます痩せて来ません? 痩せたよね?」
「夏が近くて気温が上がってますので、そのせいです。日中は動く仕事ですから」
「それにしたってさあ。同じ仕事してるはずの田代はさ……今日の田代の姿見て、まあ、会うのはおれも久々だったんですけどね。驚いちゃったよ。あいつはワイドになったな」
そう言って手で身体の幅を示す。
「そうですか?」
「おれが知ってるころよりははるかにね。元々はかたい筋肉質の男でしたよ。学生時代はラグビーやってたし」
「その話は聞いたことがあります」
「ああ、どうせ栄光の自慢話でしょう。昔はね、おれと違って食べたものみんな筋肉になる男だなと思ってたけど、今日のあれは食べたものぜい肉に変えてるな、って印象で」
「三倉さんは?」
「え?」
「三倉さんはなにかサークルとかしてたんですか?」
遠海からの質問に面食らった風だったが、ひっそりと笑って「写真サークルと弓道部のかけもち」と答えた。
「弓道?」
「蒼生子さんが元々弓道部でね。写真を頼まれて試合を観に行って、胴着と所作が格好良くて。ミーハーなんです。やってみたくて、入っちゃった。成績はふるいませんでしたけどね」
「いまでもやりますか?」
「もう、全く全然。でも所作は身体がまだ覚えてるな、って感じるときあるよ」
ふと、いまはシャツに包まれている三倉の身体を想像した。どうやったって遠海が触れられない、遠い身体。それを隠すシャツさえ蒼生子が作っていると分かったら、もう遠海はどうしようもなくなってしまう。
触れてみたい、触れられたい。
触れられない。
こんな思いはもうごめんだ。遠海は遠海でないものになる。
がくりと首を折ってうなだれると、近い距離で三倉が慌てる空気を感じた。
「鴇田さん?」
「あなたが好きです」
顔を上げ、真正面から言うと、三倉はみるみる目をまるくひらいた。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
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お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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