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映画館を出るころは、外は雨がひどくなっていた。
電車が止まらぬうちに帰ろうと話し、鴇田と別れた。マンションにはずぶ濡れで帰宅する。風もだいぶ強くなっていた。映画を観たあとだからか余計に視覚が調整出来ず、暖は帰るなりぐったりとソファに沈み込んだ。
「――先にシャワー浴びる?」と蒼生子が訊ねる。そうだ、まだイベントはこれからだったな、と暖は眉根を寄せて唸る。嵐で周囲はこんなに暗くなっているのに、やけに眩しくて目を開けづらい。
「はるー?」
「いいよ、蒼生子さん入りな。冷えるのもまずいんだろ」
手で目元を覆い隠すと、不快感はすこし消えた。暖が動く気がないことを察した蒼生子は、雨の中帰宅して疲れたのだと思ったのか、特になにも言わずに浴室へ消えた。
しばらく目元を覆い、浴室から水音が聞こえたのを聞いてようやく起き上がった。LEDの白すぎる照明が辛いので、設定をいじって照度を落とした。大丈夫、と言い聞かせるようにキッチンに立つ。今夜のメニューは野菜と魚がメインだ。肉ばかりで満腹になると満足なセックスが出来ないらしいから、食事はあっさりと身体によいものを。どこかで聞きかじった、本当か嘘かもわからない情報を信じている。ばかばかしいと思うが、これで子どもが出来たら彼女は積年の悩みから解放されるのだ。……多分、きっと。
子どもが生まれたら、自分は好奇心を持ってかわいがり、安全に気を配って、きちんと育てると思う。思うようにしている。けれど心のどこかで醒めた自分が「そんなに必要?」と訊ねる。もしかわいくなかったら放棄、なんてことは出来ない。育てる方がセックスの何百倍も大変のはずで、じゃあこんなにもいま足掻いている自分は、蒼生子も、この先どうなってしまうか分からない。もっと苦しい目に遭うのかもしれないのに、いまは「子どもが生まれたらゴール」に目標がすり替わっている。生まれたらスタートのはずだ。
もう、蒼生子も、暖も、決定的に間違えているのだ。それでもこの道を引き返すことを考えない。暖は考えている。自分は蒼生子ほど熱心ではないから。卑怯者だから。蒼生子は意地になっている。それは彼女自身が一番感じていると思う。だが彼女は進む。……今夜のセックスでだめだったら彼女をきちんと諭そう、と思う。このままのこの先には多分、ふたりが夢を見られるものはない。
たっぷり一時間ぐらい、蒼生子は浴室から出てこなかった。そのころには暖による手料理はあらかた準備が済んでいた。テーブルをセッティングし終えて、暖はテレビをつけた。各地の台風被害を伝えている。この付近でも交通がだいぶ麻痺しているようだった。
――鴇田さん、帰れたかな。
ある程度は濡れて帰ったと思う。彼には湯を張ってくれる妻も、食事を作ってくれる旦那もいない。オーストラリアに帰った友人らとは連絡が取れているのだろうか。とにかくこの嵐の中ひとりで凍えていないことを祈る。――いや、鴇田ならあり得そうで嫌だ。とても嫌だ。
スマートフォンに触れ、鴇田のアドレスを呼び出す。表示されたナンバーにメッセージを送る。それはすぐに既読がついた。
『無事に帰れました?』
『帰りました』
『映画観る前、鴇田さんが言いかけてたことを聞きたい』
その質問には既読はついたがなかなか返事がなかった。
やがて鴇田の返事を諦めたころ、スマートフォンが反応した。
『あのとき嘘をつきました。前に映画を観た日。本当は僕のところから虹なんか見えてなかった。虹が見えたって子どもみたいな興奮をしているあなたを好きだと思ったから、嘘をつきました。とにかくあなたに好かれたかった』
そうだよな、と当たり前に納得してしまった。好きになったのだから当然そう思うだろうに、鴇田がなかなか口にしなかった言葉だ。
『でもあなたには好かれないと分かっていたから、同時にすごく辛かった。それがあのとき僕が思ったことです』
好きになった人から好かれたいと思う。心から。
電車が止まらぬうちに帰ろうと話し、鴇田と別れた。マンションにはずぶ濡れで帰宅する。風もだいぶ強くなっていた。映画を観たあとだからか余計に視覚が調整出来ず、暖は帰るなりぐったりとソファに沈み込んだ。
「――先にシャワー浴びる?」と蒼生子が訊ねる。そうだ、まだイベントはこれからだったな、と暖は眉根を寄せて唸る。嵐で周囲はこんなに暗くなっているのに、やけに眩しくて目を開けづらい。
「はるー?」
「いいよ、蒼生子さん入りな。冷えるのもまずいんだろ」
手で目元を覆い隠すと、不快感はすこし消えた。暖が動く気がないことを察した蒼生子は、雨の中帰宅して疲れたのだと思ったのか、特になにも言わずに浴室へ消えた。
しばらく目元を覆い、浴室から水音が聞こえたのを聞いてようやく起き上がった。LEDの白すぎる照明が辛いので、設定をいじって照度を落とした。大丈夫、と言い聞かせるようにキッチンに立つ。今夜のメニューは野菜と魚がメインだ。肉ばかりで満腹になると満足なセックスが出来ないらしいから、食事はあっさりと身体によいものを。どこかで聞きかじった、本当か嘘かもわからない情報を信じている。ばかばかしいと思うが、これで子どもが出来たら彼女は積年の悩みから解放されるのだ。……多分、きっと。
子どもが生まれたら、自分は好奇心を持ってかわいがり、安全に気を配って、きちんと育てると思う。思うようにしている。けれど心のどこかで醒めた自分が「そんなに必要?」と訊ねる。もしかわいくなかったら放棄、なんてことは出来ない。育てる方がセックスの何百倍も大変のはずで、じゃあこんなにもいま足掻いている自分は、蒼生子も、この先どうなってしまうか分からない。もっと苦しい目に遭うのかもしれないのに、いまは「子どもが生まれたらゴール」に目標がすり替わっている。生まれたらスタートのはずだ。
もう、蒼生子も、暖も、決定的に間違えているのだ。それでもこの道を引き返すことを考えない。暖は考えている。自分は蒼生子ほど熱心ではないから。卑怯者だから。蒼生子は意地になっている。それは彼女自身が一番感じていると思う。だが彼女は進む。……今夜のセックスでだめだったら彼女をきちんと諭そう、と思う。このままのこの先には多分、ふたりが夢を見られるものはない。
たっぷり一時間ぐらい、蒼生子は浴室から出てこなかった。そのころには暖による手料理はあらかた準備が済んでいた。テーブルをセッティングし終えて、暖はテレビをつけた。各地の台風被害を伝えている。この付近でも交通がだいぶ麻痺しているようだった。
――鴇田さん、帰れたかな。
ある程度は濡れて帰ったと思う。彼には湯を張ってくれる妻も、食事を作ってくれる旦那もいない。オーストラリアに帰った友人らとは連絡が取れているのだろうか。とにかくこの嵐の中ひとりで凍えていないことを祈る。――いや、鴇田ならあり得そうで嫌だ。とても嫌だ。
スマートフォンに触れ、鴇田のアドレスを呼び出す。表示されたナンバーにメッセージを送る。それはすぐに既読がついた。
『無事に帰れました?』
『帰りました』
『映画観る前、鴇田さんが言いかけてたことを聞きたい』
その質問には既読はついたがなかなか返事がなかった。
やがて鴇田の返事を諦めたころ、スマートフォンが反応した。
『あのとき嘘をつきました。前に映画を観た日。本当は僕のところから虹なんか見えてなかった。虹が見えたって子どもみたいな興奮をしているあなたを好きだと思ったから、嘘をつきました。とにかくあなたに好かれたかった』
そうだよな、と当たり前に納得してしまった。好きになったのだから当然そう思うだろうに、鴇田がなかなか口にしなかった言葉だ。
『でもあなたには好かれないと分かっていたから、同時にすごく辛かった。それがあのとき僕が思ったことです』
好きになった人から好かれたいと思う。心から。
夜半、窓の外でひときわ大きく風が唸った。やわなつくりのマンションではないはずだが、窓ガラスが鳴る。自分の心臓の音の方がうるさかったので、その風の音で我に返った。気付けば裸の暖の下で蒼生子が不安そうに暖を見上げ、懸命に暖の二の腕をさすっているのだった。
「――やめようか。ね、はる」
「……ごめん」
「謝ることないでしょ。そういう日だってあるよ」
暖の下から蒼生子は抜け出て、下着とパジャマを拾って身に着けた。暖は風音がうるさい窓の外を見遣る。ブラインドが下りているので外の様子は窺えないが、雨風がひどいことだけは伝わる。
蒼生子への挿入がなかなかうまくいかなくて、ひたすらに焦っていた。落ち着け、大丈夫だ、とずっと心の中で唱えていた。目も老眼気味だし、枯れて来たのかもしれない。いや、早くないか。まだ三十五歳だぞ、おれは。勃起障害なんて無縁だと思ってたのにな。
改めてベッドに転がり、長く息を吐く。蒼生子がちいさく流していたヒーリングミュージックを止めて、そのままラジオに変えた。深夜ラジオは放送予定を変更して、淡々と台風関連のニュースを流している。この辺りは暴風圏内ぎりぎりであるらしかった。
「明日の朝までには収まるかな?」と隣へ蒼生子が潜り込んでくる。暖はそのやわらかな身体を抱えなおし、髪に鼻先を埋めた。甘ったるい花のにおいがする。
「明日は朝早いんだっけ」
「台風が過ぎたらすぐに出たいかな。被害確認しないと」
「報道が仕事だもんね」
「蒼生子さんは?」
「先生にドレスメイキングしてほしいっていうお客さんがいてね。それを手伝うから、しばらく忙しくなる予定」
「――そっか」
正直ほっとした。蒼生子が塞ぐ思いでこの家にひとりでいることだけはあってほしくないと思っていた。なにかに手間を見つけられるなら、その方がいい。
「あ。でもね、再来週は時間取れない?」
「なに?」
「実家行こうと思って。ポチに子どもが産まれたんだって。見に行きたいって言ったら、暖もたまには一緒にって言われて」
「ああ」ポチ、とは蒼生子の実家で飼っている柴犬だ。雑なネーミングのメスで、義父が同じ柴犬の相手を見つけて子どもを産ませたという。おかげさまでこちらはこんなに苦労しているのに、さすが犬は安産だ。「いいよ」
「ほんと? 日程は?」
「任せるよ」
「じゃあ再来週のどこかでお母さんに連絡しとくね。カレンダーに書き込んどくからだめなら言って」
「うん」
目を閉じる。花の香りが強くなる。風とラジオの音が響く。
← 7
→ 9
「――やめようか。ね、はる」
「……ごめん」
「謝ることないでしょ。そういう日だってあるよ」
暖の下から蒼生子は抜け出て、下着とパジャマを拾って身に着けた。暖は風音がうるさい窓の外を見遣る。ブラインドが下りているので外の様子は窺えないが、雨風がひどいことだけは伝わる。
蒼生子への挿入がなかなかうまくいかなくて、ひたすらに焦っていた。落ち着け、大丈夫だ、とずっと心の中で唱えていた。目も老眼気味だし、枯れて来たのかもしれない。いや、早くないか。まだ三十五歳だぞ、おれは。勃起障害なんて無縁だと思ってたのにな。
改めてベッドに転がり、長く息を吐く。蒼生子がちいさく流していたヒーリングミュージックを止めて、そのままラジオに変えた。深夜ラジオは放送予定を変更して、淡々と台風関連のニュースを流している。この辺りは暴風圏内ぎりぎりであるらしかった。
「明日の朝までには収まるかな?」と隣へ蒼生子が潜り込んでくる。暖はそのやわらかな身体を抱えなおし、髪に鼻先を埋めた。甘ったるい花のにおいがする。
「明日は朝早いんだっけ」
「台風が過ぎたらすぐに出たいかな。被害確認しないと」
「報道が仕事だもんね」
「蒼生子さんは?」
「先生にドレスメイキングしてほしいっていうお客さんがいてね。それを手伝うから、しばらく忙しくなる予定」
「――そっか」
正直ほっとした。蒼生子が塞ぐ思いでこの家にひとりでいることだけはあってほしくないと思っていた。なにかに手間を見つけられるなら、その方がいい。
「あ。でもね、再来週は時間取れない?」
「なに?」
「実家行こうと思って。ポチに子どもが産まれたんだって。見に行きたいって言ったら、暖もたまには一緒にって言われて」
「ああ」ポチ、とは蒼生子の実家で飼っている柴犬だ。雑なネーミングのメスで、義父が同じ柴犬の相手を見つけて子どもを産ませたという。おかげさまでこちらはこんなに苦労しているのに、さすが犬は安産だ。「いいよ」
「ほんと? 日程は?」
「任せるよ」
「じゃあ再来週のどこかでお母さんに連絡しとくね。カレンダーに書き込んどくからだめなら言って」
「うん」
目を閉じる。花の香りが強くなる。風とラジオの音が響く。
← 7
→ 9
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三日後は半休を取った。都合よく取れたと言っていい。取材の予定を他の記者に代わってもらい、取材先には別の人間が行く旨を連絡した。午前中だけ仕事をして、昼休み前に会社を出る。なまぬるい風が吹き荒れていた。曇り空を見上げ、こういう日の方が目が辛いな、と感じた。痛みに近い感覚で目を開けていられない。空を見上げるのはやめて、早々に立ち去る。
蒼生子とは映画館の入るショッピングモールで待ちあわせていた。そこで食事を取り、雑貨や服飾品を見てまわって、十四時からの映画を観る予定でいる。前回は暖の希望で観た映画だったので、今回は蒼生子の希望で見る映画だった。確か海外のアニメーションを実写化した映画だったと思う。先日観たテレビの歌番組で、日本語吹き替えの声優を務めることになった俳優が(どっちなんだ)主題歌を披露していた。
映画を観たら買い物をして家に帰る。今夜は暖がささやかに贅沢な食事をふるまう。それで風呂に入り、準備をして、小学校の授業みたいな義務の時間。
思わずついたため息を拾った人間がいた。顔を上げると面倒くさそうな、困ったような顔をした男が目の前に立っている。軽装だったので彼もまた休日で出歩いているのだと分かった。――そうか、前にも別の映画館で会ったな。
暖と目が合うとさっと踵を返す。それを追いかけて捕まえた。手首を取ると大げさでなく長い身体がこわばったので、ああそうか触れるのだめなんだよなと思い、手を離して代わりに名を呼んだ。
「鴇田さん」
男は暖の顔を見ないままうつむいた。もう逃げる気はないらしい。
「また来てたの、映画館」と暖は笑った。
「……雰囲気が好きだから、」
「観る映画決まってる?」
「……いえ」
男は振り返った。背丈は暖とそう変わりないが、プロポーションが暖とは全く違う。痩せ型だが、きちんと備えるべき筋肉を備えている。それは仕事上必要だからだろう。そしてそれ以外をシャープにそぎ落としている。また痩せたかもしれない。目と鼻と唇がそれぞれにちょうどよく顔の輪郭に納まっていて、だから不愛想でも不快にならない。いい顔してるよな、と思う。
蒼生子だって、どうせ義務で行うならこういう身体をしたこういう顔の若い男の方がいいと思った。というか暖ならそう思う。おれなら、と思ってから、そういうのはこの人に対して見かけで判断するみたいで失礼だな、と思い直した。内面の誠実さやナイーブなところは知っている。人の話を丁寧に聞いて相槌を打ってくれる、優しい男だ。じゃあますますなんにも問題ないなと考えて、めぐる思考にあれ、と思った。なにを考えてるんだ。おれだったらって、なんだ。
蒼生子との夜が憂鬱で余計なことを考えるんだな、と思った。振り払うように明るい声を出す。「鴇田さん、めし食いました?」
「まだです。もう帰ります」
「用事でもある? これから蒼生子さんと待ちあわせなんだけど、一緒にどうぞ」
「だから、あんたにはびっくりするぐらい僕の気持ちって伝わってないんですね。奥さんと一緒ならなおさら食事を一緒になんてありえません。帰ります」
「あんた、」
ふ、と吹き出してしまった。いままで散々丁寧な言葉遣いだったのがほどけた。それだけ暖に対して呆れているのだろう。笑っていると鴇田は険しい顔をして、そっぽを向いた。
「――すみません、馴れ馴れしすぎました」
「いや、鴇田さんは普段が遠いから気にならない。食事しませんか。そのあとの映画も」
「前にもありましたね、そういうの」
「あ、あんときは虹が凄かったよなって、唐突に思い出した」
あのときの虹は後から知れば実は虹ではなかった。雲に含まれる水蒸気が太陽光を回析することで出現する彩雲という現象だった。さほど珍しい現象ではないが、あのようにはっきり現れたのは珍しかったらしい。暖が撮った写真は記事には採用されなかったが、別の場所から同僚記者が撮った写真が暖の勤める新聞社の記事になったし、そこには専門家のコメントもついていた。
「あのとき」
「ん?」
鴇田がなにかを言いかける、と鴇田の背後に蒼生子の姿を認めた。暖は鴇田に「またあとで」と軽く腕に触れてから、妻へ手を挙げて合図した。気づいた蒼生子が近寄って来る。傍らにいた鴇田を見て軽く驚いていたが、すぐにいつも通りの穏やかな笑みに変えた。
「また鴇田さん誘っちゃったの?」と蒼生子が言う。
「いえ、そこで偶然会っただけです。僕は帰ります」
「あ、気にしないで。どうせ暖が無理やり引き留めてたんでしょう? 鴇田さんさえ構わなければ一緒にいてください。今日の映画は私の趣味だけど」
「……なんの映画ですか」
「ええと、あれ」
蒼生子が指さした先には今日これから観る予定の映画のポスターが貼られていた。鴇田は観念したように眉間にしわを寄せ、珍しくぶっきらぼうな口調で「ご一緒します」と言った。
「じゃあ先にごはん食べましょうか。ここ、新しくレストラン入ったんだよね。タイ料理屋さん」
「鴇田さん、エスニック平気?」
「あまり食べませんが、好きです」
「じゃあ行こう」
暖を真ん中に三人で歩き出す。タイ料理屋で好きに食べ、時間になったのでそのまま映画館へ移動した。前回と同じ席順で座り、前回とは違う華やかな音楽で映画は幕開けになった。暖はあくびをかみ殺す。こういう映像も音響も派手な映画は好みではなかったが、蒼生子の気分を高めるためなのだから従う。蒼生子が楽しい気分になって、心からくつろいで、リラックスしきって、そのまま夜は楽しいお遊戯のような性交を。――あれ、おれの気持ちってどこにあんのかな。
映画の序盤で隣の椅子からバイブレーションの音がした。音響にかき消されてちいさいが、周囲を気にして鴇田が慌てている。スマートフォンの電源を切り忘れていたらしかった。「すみません」とささやき声で暖に謝り、ポケットからスマートフォンを取り出すのをなんとなく眺めていた。逆隣に座る蒼生子にまでは聞こえていないようで、彼女は映画にすっかり夢中になっている。
隣だからスマートフォンの画面が視界に入る。電源ボタンを長押しして画面を暗くする直前に、その画面に気づいてぎくりとした。前回の映画のあとの彩雲。暖が撮って送った写真を、鴇田は丁寧に待ち受け画面にしていた。鴇田はすぐにスマートフォンを上着のポケットに仕舞う。暖はたわむれに靴の先を隣へ滑らせる――鴇田の靴先に当たった。
鴇田の身体が硬くなった。靴先でしか触れていないが、緊張感が伝わる。この人はこんなにも自分を好いてくれていると分かって、暖は淋しくなった。暖はこの映画が終われば妻と帰宅して、食事をしてベッドに入る。この人はひとりで帰るだろう。ひとりのアパートへ。
やるせない気分のまま隣を見る。視線に気づいた鴇田もこちらを向いた。映像からの反射で左目が光っている。男は映画でなく、真摯に暖を見つめていた。視線が刃物になるなら暖は殺されていると思った。そういう力強い瞳を、暖も見返す。
〈あんたはひどい〉
と言った。と思う。音までは聞き取れなかったし、鴇田も発声しなかった。けれど暖には確かにそうと分かった。
そうだな、と唇の動きだけで同意して、お互いを剥がすように無理やり映画のスクリーンを向いた。
← 6
→ 8
結局、仲間とも鴇田とも飲みには行かなかった。
蒼生子から連絡があり、駅近くまで出ているから落ち合えるなら外で食事でも、という話になったのだ。待ちあわせ場所を決めて蒼生子と合流する。そのころには雨は止んでいた。目がパーティ会場の明るさをまだ引きずっているような感覚で、やたらと眩しく感じた。
鴇田さん、と蒼生子は言った。
「もしかして、一緒だった?」
「なんで?」ドキリとした。
「さっき地下鉄のホームをのぼるところですれ違ったから。黒い服装だったから、どこかでセッションでもあったのかな、とも思ったけど、暖が前に『鴇田さんはあの店でしか弾かないそうだ』って言ってたし」
「あ、ああ」
暖は頭を搔いた。
「そうなんだ。実を言うとマコに頼まれて鴇田さんに式の最中のピアノ演奏をお願いしてた」
「あ、じゃあやっぱり一緒だったんだね」
「隠してた訳じゃないけど、言うタイミングをなんか、逃してた」
「やだな、言い訳みたいなことしなくていいよ。問い詰めてる訳じゃないし」
蒼生子はふ、と笑った。
「嫌じゃない?」
「んー、微妙ではあるけどね。鴇田さんがあのときもう会わないって言ったからにはきっと今回のピアノ演奏は暖が頼んだんでしょう? 無理に、押せ押せの態度で」
「反省してます」蒼生子には見抜かれているようだったので正直に答える。
「人を好きになってそれを告げるのって、とても勇気とエネルギーのいることだから……鴇田さんのことを思うと本当に申し訳なくなる」
「え、あなたはそっち側に立つのか?」
「別に鴇田さんが人の夫取るような人だとか、そんなこと考えないよ。あの人、見た目はクールっていうか無表情で取っつきにくいんだけど、とても素直で、誠実だよね」
演奏どうだった? と訊かれ、暖は素直に「よかったよ」と答えた。
「……マコも嫁さんも喜んでくれたみたいだし」
「ならよかったね。――これからなに食べる?」
「んー……おれは式で食べたから蒼生子さんにお任せするよ」
「それ丸投げって言うんだよ」
「あなたが食べたいものでいいんだって話。おれは隣でちょっとアルコールでも飲めれば充分」
「そうだなあ。なら新規開拓より知ってるお店の方がいいのかな?」
蒼生子があれこれと候補を挙げる。それに答えつつも、暖は鴇田にまた会う気でいた。
これでもう会わないという選択肢を暖は考えていない。それはやはり鴇田のことを真剣に考えていないからかと、自嘲気味に思った。
蒼生子から連絡があり、駅近くまで出ているから落ち合えるなら外で食事でも、という話になったのだ。待ちあわせ場所を決めて蒼生子と合流する。そのころには雨は止んでいた。目がパーティ会場の明るさをまだ引きずっているような感覚で、やたらと眩しく感じた。
鴇田さん、と蒼生子は言った。
「もしかして、一緒だった?」
「なんで?」ドキリとした。
「さっき地下鉄のホームをのぼるところですれ違ったから。黒い服装だったから、どこかでセッションでもあったのかな、とも思ったけど、暖が前に『鴇田さんはあの店でしか弾かないそうだ』って言ってたし」
「あ、ああ」
暖は頭を搔いた。
「そうなんだ。実を言うとマコに頼まれて鴇田さんに式の最中のピアノ演奏をお願いしてた」
「あ、じゃあやっぱり一緒だったんだね」
「隠してた訳じゃないけど、言うタイミングをなんか、逃してた」
「やだな、言い訳みたいなことしなくていいよ。問い詰めてる訳じゃないし」
蒼生子はふ、と笑った。
「嫌じゃない?」
「んー、微妙ではあるけどね。鴇田さんがあのときもう会わないって言ったからにはきっと今回のピアノ演奏は暖が頼んだんでしょう? 無理に、押せ押せの態度で」
「反省してます」蒼生子には見抜かれているようだったので正直に答える。
「人を好きになってそれを告げるのって、とても勇気とエネルギーのいることだから……鴇田さんのことを思うと本当に申し訳なくなる」
「え、あなたはそっち側に立つのか?」
「別に鴇田さんが人の夫取るような人だとか、そんなこと考えないよ。あの人、見た目はクールっていうか無表情で取っつきにくいんだけど、とても素直で、誠実だよね」
演奏どうだった? と訊かれ、暖は素直に「よかったよ」と答えた。
「……マコも嫁さんも喜んでくれたみたいだし」
「ならよかったね。――これからなに食べる?」
「んー……おれは式で食べたから蒼生子さんにお任せするよ」
「それ丸投げって言うんだよ」
「あなたが食べたいものでいいんだって話。おれは隣でちょっとアルコールでも飲めれば充分」
「そうだなあ。なら新規開拓より知ってるお店の方がいいのかな?」
蒼生子があれこれと候補を挙げる。それに答えつつも、暖は鴇田にまた会う気でいた。
これでもう会わないという選択肢を暖は考えていない。それはやはり鴇田のことを真剣に考えていないからかと、自嘲気味に思った。
また台風が近づいている、と気象情報が告げている。暖はスマートフォンをひらいて今後の天候を窺っていたが、不意にスマートフォンに通知が入ってそちらへ指を動かした。蒼生子と共有で使っているカレンダーのアプリがあり、そこに彼女が予定を入れたのだ。予定が書き込まれると通知が来るように設定してある。アプリを開けばそこに記されていたのは日付の元にある「★」のマークだった。
急激な眩しさを感じて目を開けていられなくなり、暖は目を閉じる。星のマークが記されていたのは三日後だった。ハートマークは嫌だからと彼女が決めたこのマークは、蒼生子の排卵予定日を示している。
つまり、子どもを作るのにセックスするならここ数日だから、三日後の夜の予定はいかがですかという彼女からのメッセージなのだった。
蒼生子は月経の周期があまり整わず、ゆえに排卵日も予測しにくいのだという。彼女はまめに基礎体温を測り、グラフをつけ、きちんとカレンダーに記す。出来るだけ妊娠しやすい身体を作ることを目指して、食事もそのようなものを希望するし、漢方も飲んでいる。ストレッチをしたり、リラックスする時間を大切にする。だが暖はそのひとつひとつをどうしてもむなしく感じてしまう。可哀想に思う。そこまでして必要なのかな、と。
過去にはもちろん、暖自身が不妊体質なのではないかという検査も行った。暖には問題がなく、ならばやはり自分なのだと責める蒼生子の落ち込みようは見ていられないほどだった。蒼生子自身に「自分は子どもができにくい」「私さえ頑張れば子どもは出来る」という思い込みがあるように思う。
二十八歳のころ、と昔のことを思う。結婚して三年目、離婚の危機、といつか鴇田に話したころだ。あのときはいまよりもっとふたりの過ごし方が鬼気迫っていた。自然なかたちで出来にくいのなら人工授精をやってみようかと話し合って試したが、受精卵を作れても蒼生子の身体にうまく着床せず、何度も流れた。身体をいじることは負担も強いる。あのとき蒼生子は泣いて「ごめんなさい」を繰り返した。泣き疲れるまで泣いて、何度も「産んであげられなくてごめんなさい」と詫びる。暖はどちらでもよかったから、謝られると苦しくて仕方がなかった。そんなに自分は蒼生子に望んでいることはないのに、一緒にいるだけでいいのに、彼女はそうじゃない。一体なにに対して謝られているのか、どうしていいのか、ただ肩を抱くことしか出来ず、全てに靄がかかったかのように見通しが悪く暖には分からないことばかりだった。
蒼生子のメンタルが崩れたことで妊娠を考えることをいったんやめにした。女には肉体的なタイムリミットがあるから、としきりに年齢のことを気にする彼女に、いまは医療が進歩していて高齢出産も当たり前だから大丈夫だと繰り返し説いた。頼りなく痩せて尖った肩を抱いて、暖自身が発狂しないように注意しながら、辛抱強く添った。おかげでいまはあのときほどの危機じゃない。けれど当たり前に妊娠を目指す蒼生子には相変わらず心が追い付かない。
人工授精を決めたとき、精子の採取の仕方があまりにもお粗末で苦痛だった。クリニックの採取室は暗くカーテンが閉め切ってある。テレビがあり、いくつかAVを見られるようになっていた。アダルト雑誌もあった。それらを使ってマスターベーションを行え、という指示だ。別に妻を想って抜くのがいいとも思わないが、興奮のありどころは妻に求めないんだなと思ったら、裏切りのようにも思え、むなしかった。ここで過去数多の男が同じ思いをしただろうとは安易に想像がつく。クリニックのベビーピンクの内装がいっそう腹立たしく、だったらいっそきわどく卑猥なピンク色でもしてろよ、と壁に怒鳴り散らしたかった。
それでも別室で妻が待機している。採取した精液を挿入するために暖を待っている。腹をくくってまじめに性器を擦った。世界一むなしい部屋だと思い、世界一哀れな男だと思い、あのとき暖の中でセックスと快楽が結びつかなくなってしまった。ぷつっと途切れてしまったのだ。
パートナーと睦みあう、心から気持ちが良くて楽しいセックスを経験していたはずで、だが暖の中で回路が切れた。人工授精は結果が出なくても何回か試す必要があると言われ、そのたびに採取室に通った。蒼生子のケアはしてもおれのケアは誰もしてくれないんだなと、クリニックで呆然と蒼生子を待つあいだに考えていた。
それも成果が出ず、あくまでも自然なかたちで妊娠を待ちましょうということになったが、暖は自然なかたちってなんだと心中で笑っていた。排卵のタイミングが不明瞭な蒼生子は熱心にクリニックに通い、ときには医者から「今夜夫婦生活をしてください」と指示される。仕事で疲労していても、これを逃せばまた次まで待たねばならないから、精力剤を飲んで夜に挑む。苦痛でならなかったが、そうまでして子どもを欲しいと願う妻の気持ちを無下には出来ない。パートナーだから。ふたりは結婚したのだから。
だからだろうか。暖は蒼生子がカレンダーにつける星マークを見るたびに、気が滅入る。暗い気持ちになる。夫婦間の努力義務性交には助成金でも給付してほしいと思ってしまう。金がもらえて、それで美味しいものでも食べに行ければ、もうすこし楽しい気持ちでセックスが出来るようになるのかも、などと。
三日後か。台風でみんなそれどころじゃない場合でも、夫婦の営みは遂行される。興奮するのか自信がない。スマートフォンの画面はとっくに暗くなっており、再度タッチして明るくさせたが、目が眩んで眉をひそめた。
最近はこういうことが多い。やたらと目が疲れているのか、パソコンの文字が読みづらかったりする。老眼のはじまりか? いや早すぎないか。疲れてると枯れるのも早いのかな。とにかく日中でも夜間でも、会社でも家でも出先でも、どこでも眩しさを常に感じている。目つき悪いんだろうな、と眉間を揉んだ。
二十八歳のときの綱渡りみたいな日々を思えばいまの状況などたいしたことじゃない、と言い聞かせる。ふといつか『二十八歳はなにをしていましたか?』と訊いた男の声が蘇った。
あの人は知らないままだ。夫婦間に生じる義務に対する苦痛なんてもの。そもそもセックス自体を知らないのだから。のんきなものだとは決して笑えない。けれど羨ましくもある。もし彼が通常の人間と同じように触れられるなら、どんな風に触れるのだろうと思ってしまった。
きっとひどく臆病に、こわごわ触れる。祈り縋るように背を丸める。まるで彼が日ごろ触れているピアノのように。
← 5
→ 7
急激な眩しさを感じて目を開けていられなくなり、暖は目を閉じる。星のマークが記されていたのは三日後だった。ハートマークは嫌だからと彼女が決めたこのマークは、蒼生子の排卵予定日を示している。
つまり、子どもを作るのにセックスするならここ数日だから、三日後の夜の予定はいかがですかという彼女からのメッセージなのだった。
蒼生子は月経の周期があまり整わず、ゆえに排卵日も予測しにくいのだという。彼女はまめに基礎体温を測り、グラフをつけ、きちんとカレンダーに記す。出来るだけ妊娠しやすい身体を作ることを目指して、食事もそのようなものを希望するし、漢方も飲んでいる。ストレッチをしたり、リラックスする時間を大切にする。だが暖はそのひとつひとつをどうしてもむなしく感じてしまう。可哀想に思う。そこまでして必要なのかな、と。
過去にはもちろん、暖自身が不妊体質なのではないかという検査も行った。暖には問題がなく、ならばやはり自分なのだと責める蒼生子の落ち込みようは見ていられないほどだった。蒼生子自身に「自分は子どもができにくい」「私さえ頑張れば子どもは出来る」という思い込みがあるように思う。
二十八歳のころ、と昔のことを思う。結婚して三年目、離婚の危機、といつか鴇田に話したころだ。あのときはいまよりもっとふたりの過ごし方が鬼気迫っていた。自然なかたちで出来にくいのなら人工授精をやってみようかと話し合って試したが、受精卵を作れても蒼生子の身体にうまく着床せず、何度も流れた。身体をいじることは負担も強いる。あのとき蒼生子は泣いて「ごめんなさい」を繰り返した。泣き疲れるまで泣いて、何度も「産んであげられなくてごめんなさい」と詫びる。暖はどちらでもよかったから、謝られると苦しくて仕方がなかった。そんなに自分は蒼生子に望んでいることはないのに、一緒にいるだけでいいのに、彼女はそうじゃない。一体なにに対して謝られているのか、どうしていいのか、ただ肩を抱くことしか出来ず、全てに靄がかかったかのように見通しが悪く暖には分からないことばかりだった。
蒼生子のメンタルが崩れたことで妊娠を考えることをいったんやめにした。女には肉体的なタイムリミットがあるから、としきりに年齢のことを気にする彼女に、いまは医療が進歩していて高齢出産も当たり前だから大丈夫だと繰り返し説いた。頼りなく痩せて尖った肩を抱いて、暖自身が発狂しないように注意しながら、辛抱強く添った。おかげでいまはあのときほどの危機じゃない。けれど当たり前に妊娠を目指す蒼生子には相変わらず心が追い付かない。
人工授精を決めたとき、精子の採取の仕方があまりにもお粗末で苦痛だった。クリニックの採取室は暗くカーテンが閉め切ってある。テレビがあり、いくつかAVを見られるようになっていた。アダルト雑誌もあった。それらを使ってマスターベーションを行え、という指示だ。別に妻を想って抜くのがいいとも思わないが、興奮のありどころは妻に求めないんだなと思ったら、裏切りのようにも思え、むなしかった。ここで過去数多の男が同じ思いをしただろうとは安易に想像がつく。クリニックのベビーピンクの内装がいっそう腹立たしく、だったらいっそきわどく卑猥なピンク色でもしてろよ、と壁に怒鳴り散らしたかった。
それでも別室で妻が待機している。採取した精液を挿入するために暖を待っている。腹をくくってまじめに性器を擦った。世界一むなしい部屋だと思い、世界一哀れな男だと思い、あのとき暖の中でセックスと快楽が結びつかなくなってしまった。ぷつっと途切れてしまったのだ。
パートナーと睦みあう、心から気持ちが良くて楽しいセックスを経験していたはずで、だが暖の中で回路が切れた。人工授精は結果が出なくても何回か試す必要があると言われ、そのたびに採取室に通った。蒼生子のケアはしてもおれのケアは誰もしてくれないんだなと、クリニックで呆然と蒼生子を待つあいだに考えていた。
それも成果が出ず、あくまでも自然なかたちで妊娠を待ちましょうということになったが、暖は自然なかたちってなんだと心中で笑っていた。排卵のタイミングが不明瞭な蒼生子は熱心にクリニックに通い、ときには医者から「今夜夫婦生活をしてください」と指示される。仕事で疲労していても、これを逃せばまた次まで待たねばならないから、精力剤を飲んで夜に挑む。苦痛でならなかったが、そうまでして子どもを欲しいと願う妻の気持ちを無下には出来ない。パートナーだから。ふたりは結婚したのだから。
だからだろうか。暖は蒼生子がカレンダーにつける星マークを見るたびに、気が滅入る。暗い気持ちになる。夫婦間の努力義務性交には助成金でも給付してほしいと思ってしまう。金がもらえて、それで美味しいものでも食べに行ければ、もうすこし楽しい気持ちでセックスが出来るようになるのかも、などと。
三日後か。台風でみんなそれどころじゃない場合でも、夫婦の営みは遂行される。興奮するのか自信がない。スマートフォンの画面はとっくに暗くなっており、再度タッチして明るくさせたが、目が眩んで眉をひそめた。
最近はこういうことが多い。やたらと目が疲れているのか、パソコンの文字が読みづらかったりする。老眼のはじまりか? いや早すぎないか。疲れてると枯れるのも早いのかな。とにかく日中でも夜間でも、会社でも家でも出先でも、どこでも眩しさを常に感じている。目つき悪いんだろうな、と眉間を揉んだ。
二十八歳のときの綱渡りみたいな日々を思えばいまの状況などたいしたことじゃない、と言い聞かせる。ふといつか『二十八歳はなにをしていましたか?』と訊いた男の声が蘇った。
あの人は知らないままだ。夫婦間に生じる義務に対する苦痛なんてもの。そもそもセックス自体を知らないのだから。のんきなものだとは決して笑えない。けれど羨ましくもある。もし彼が通常の人間と同じように触れられるなら、どんな風に触れるのだろうと思ってしまった。
きっとひどく臆病に、こわごわ触れる。祈り縋るように背を丸める。まるで彼が日ごろ触れているピアノのように。
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結婚式当日は雨が降った。会場となるレストランへは電車とバスを使った。前もって聞いてはいたが、結婚式よりはもっとカジュアルなパーティという仕様で、参列者の格好もそれぞれにくだけた人が多かった。
暖がレストランに着いたときには、鴇田はすでにスタンバイの状態だった。いつもの黒づくめの服装で、だが明るい場所で見る鴇田はどこか尖っているように思えて、心臓がひやりとした。いつか鴇田を取材したときはいまの格好からは想像つかないような冴えない作業着姿だったから、昼間の鴇田のイメージはそれで固定されていた。いまは夜の鴇田が無理に昼に出現している感じがしている。夜の方が鴇田の存在を近くに感じた。過去これまでに昼も夜も時間を共にしたことはたくさんあったのに、不思議だった。
暖に気づくと鴇田はぺこりと頭を下げた。
「もしかして鴇田さん、緊張してる?」
「そう思いますか?」
「夜、あの店で見るあなたの方がよっぽどくつろいでいるというか、堂々と見える気がするから、」
そう言うと鴇田はうっすらと苦笑した。
「いつもと勝手が違いますからね。ピアノも違うし」
ポーン、と鴇田は一音を弾く。いつも店で弾いているのは黒く艶やかなグランドピアノだったが、この店にあるピアノは明るい茶色のアップライトだった。
「弾き馴れたピアノの方がいい?」
「というか僕は、ほぼあのピアノしか知らないんですよ。あの店でしか弾いてこなかったので。ここはあそことまた響き方も違う。役割としては変わらないと思ってるんですけど」
「そんなに違うものなんだ」
「違いますね。音もタッチもこんなに。プロのピアニストってどんな楽器も弾きこなせるんでしょうから、やっぱりすごいなと思います。僕には出来ない」
「ですが今日の演奏には謝礼が出るんですから、あなたはプロだ」
「技術で金銭を受け取ればプロ?」
「違う?」
答える代わりに、ポーン、と鴇田はまた一音を鳴らす。先ほどからずっと同じ音をまじないのように鳴らしていた。
ダン! と仲間うちから呼ばれたので暖は鴇田の背を軽く叩いて場を離れた。幼いころからの馴染みでまるくなって談笑するも、鴇田の存在が気になった。いつも緊張などなんだという顔であっさりピアノを弾いている人だから、滅多に見ない姿が新鮮に感じるんだろうか。硬い印象を受けるので、もう少し笑ってほしいなと思った。鴇田も楽しいと思う席になればいいのに、と。
それでも役割をきちんと全うした鴇田はさすがだと思った。
出席者の邪魔にならないようなさりげなさ、いつの間にかいましたという顔で流れるピアノ。まさに花嫁が望んでいた演奏だったと言える。盛り上げどころはきちんと盛り上げて新婦とその両親を泣かせ、また背後にまわって最後まで鴇田は美しいメロディを響かせた。いや、鳴らしていた、という表現が正しいかもしれない。地味に目立たず、あくまでもバックグラウンドミュージック。
二次会というものは予定されておらず、だが仲間たちが「久々に会ったんだからもうすこしどこかで飲もうか」と言いはじめて暖は参加を迷う。おそらく家に帰るだけの鴇田を早く捕まえて、本当は鴇田と飲みに行きたかった。もういっそこっちに引きずりこんでしまおうかと思う。仲間に断り、鴇田を誘いにピアノの傍へ向かうと、彼は新婦側の出席者である女性らに話しかけられていた。
心臓が、今度はパシっと軋んだ。
女性たちは若い頬を紅潮させて、鴇田と近い距離で話していた。プロの方なんですか、とか、いつごろからピアノを弾いているんですか、とか。こういうなれ合いに鴇田の性格なら不器用に答えそうなものを、鴇田の表情はやわらかく、丁寧に質問に答えていた。やがてひとりの女性が「わたしたちこれからもうすこし飲もうって話してるんですけど、一緒にいかがですか?」と申し出たとき、暖はひどい焦燥感に駆られた。
同時に、窓ガラスに映りこんだ自分の姿を認めた。歳を取ったな、と唐突に思った。鴇田はまだ若く、すらりとした端正な顔立ちとあの見かけなら若い女性らが放っておかないことは分かる。鴇田と暖の年の差は約七歳。それがこんなにも大きいと感じるのは、はじめてのことだった。
なぜ鴇田はこんなおじさんのことを好きだと言えたのだろうか。
もっと見合うべき人は他にいる、と分かってしまった。そのことがどうして、自分はこんなにも堪えるのだろう?
なんともいえない気分でその集団を眺めていると、暖に気づいた鴇田が目で合図をした。女性たちに断って暖の傍へやって来る。
「逆ナンなんてやりますね、鴇田さん」
言えたのはそんなつまらない台詞だった。
「え、ナンパですか、いまの」
「飲みに誘われてたじゃないですか。立派なナンパです」
「どう断ろうかと困っていたので、三倉さんがいてくれてよかったです。僕になにか用がありましたか?」
「ああ、うん、……と、」
言葉がうまく出てこない。かろうじて「おれたちも飲みに行く話をしているから、混ざらないかなと思って」と言うと、鴇田は安堵したような、やはり困るような、複雑な表情を浮かべた。
「お誘いはありがたいです」と鴇田は答える。
「けれど、僕は人見知りであまり言葉が上手に出てくる方ではないですし」
仲間の方だけでどうぞ、と鴇田は言った。「僕は帰ります」
「それって、おれとふたりだったらこれから飲みに行ってもオッケーってことですか?」
つい口をついて出たのは、やはり自分の心地よさだけを優先したつまらない言葉だった。
「……だめです」と鴇田は答える。
「だめ……だね。うん、いまのがだめなのは自分で言いながら分かる。ごめん」
「せっかくお仲間で集まったんですから、気心の知れた皆さんでどうぞ」
「それがだめな理由じゃないでしょう。本心を言ってください。言い訳はしない方がいい。人にも、自分にも」
「……あなたとふたりは、だめです」
と鴇田は目線を下に向ける。暖は「おれはいいよ」と言っていた。なぜこんなにも必死なんだろうかと思いながら、鴇田と離れがたいことが事実だった。
また逃げられるのは嫌だ。
「なんか、……だめな台詞ばっかり出てくるな。悪い大人の見本でごめん」
「どういう意味でいいよ、って言ってますか?」と鴇田が訊ねる。
「どういう意味?」
「僕は何度も三倉さんの傍にはいたくないと伝えたはずです。気持ちが落ち着かない上に失恋なんですから。ですがあなたは近くに寄ってきます。僕の気持ちは、伝わっていませんか?」
「鴇田さんがおれのことを好きだということ?」
「そうです。……残念なことにこれが、……恋だということです」
暖は黙った。なにを言っていいのか分からず、考える。
鴇田は「好きですよ」と言った。
「まだあなたが好きです。僕にとってこれはそう簡単に忘れてしまえる恋ではないみたいです」
「……」
「時間薬なんでしょう。距離も時間も離す。だからもう、これ以上は、」
喋っているうちに鴇田はうなだれ、言葉も窄む。鴇田を困らせたいわけではないし、精神的に追い詰めたいわけでもなかった。ただ暖に実感がないのだ。
「どうして好かれているのかが分からなくて」と暖は言った。先ほど窓ガラスに写った中年の自分の顔が浮かぶ。まるきり悪いと言える訳ではなく、むしろ歳を重ねることで得ることはあると思っているからそうがっかりすることではない。けれどやはり、若さが眩しい瞬間はある。
鴇田は顔を上げる。
「なんでおれは好かれたかな、っていう実感。さっきから漏れている通り、おれは全くいい人間じゃない。自分を卑下していう訳じゃないけど、そこら辺にありふれてるくたびれたおっさんらと一緒。若い子にちょっかい出したいだけかもしれないじゃん。だから、そんなおれが若い鴇田さんのなんの琴線に触れたのかな、と思ってる」
鴇田の黒い目が暖をしっかりと捉えて離さない。
「男だ女だ、ってのはあんまり気にする性格じゃないから、そこはあんまり不思議には思わない。どうしておれかな、同年代で比べるなら、田代となにが違うの、ってのは、思う」
喋れば喋るほど不思議に思う。鴇田は暖のどこが好きだと言うのか。
しばらくなにも、ひと声も鴇田は発しなかったので、暖はちいさく息をついた。こんな場所でいつまでも話すことでもないと思い、謝って鴇田を解放する気になった。
言葉を発するタイミングで、鴇田はちいさく息を吐いた。
「ん?」
「離れているからだと思います。きっと」と言う。
「離れてる?」
「はい。僕とあなたの、性質が遠いから」
暖はその答えについて、目線を上にあげて考える。
「例えば?」
「んーと、……人見知りしなかったり」
「ああ、……うん、それから?」
「人との距離感が近かったり、」
「誰にでも近いわけじゃないよ」
「よく笑ったり、思い切りがよかったり、好奇心が強くて隠さなかったり……」
言われて思い浮かぶ節は特になかったが、鴇田が言うならそうなんだろう。
「僕と正反対の性質だと思います。似るところがひとつもない。はじめは憂鬱でたまりませんでした。あなたみたいなひっぱり方は、僕にはないから」
「ひっぱり方?」
「人を惹きつける求心力。強引なのに、心地いいと思ってしまった」
「心地いい、か」
暖は頷きながら微かに笑った。
「そっか。遠いんだな」
「はい」
納得出来た訳ではなかったが、なんとなく言葉を噛み締めた。遠いから。
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「僕は友達、ってみんなに宣言されてるみたいで嬉しくなりました。でもこの人にとって友達以上にはならないんだと分かって、僕はそれ以上になってみたかったんだと分かって、辛かった」
「……」
「いまだって用件なんて聞かずにさっさと帰りたいって思う僕がいる。けど、また三倉さんに会えて嬉しいと思う僕もいます。もう、まだ、ぐっちゃぐちゃで……訳分かんないですよ。こういう気持ちは、本当に嫌だ」
ただでさえ経験なんてないんですから、と鴇田はうなだれた。その姿を見て、暖は単純に綺麗な輪郭線をしているな、と呆けただけだった。頭から首、背中へと切れる線が綺麗だと。若い人の線だと思った。もっと鴇田の心の傍に立ってやらねばと思うのに、鴇田に会えた喜び以上のものが湧いてこない。
「あの後何度も店に行ったし、電話もしたんです」
と言うと、鴇田は「知ってます」と答える。
「電話会社から不在着信の通知は入ってましたから」
「知ってて無視か。ひどいな」
「もう会わないって言ったはずです。それはそういうことです」
「結局、おれがいま知ってるあなたのアドレスはまだ通じるわけ? ひょっとして携帯変えたのかなって思って」
「日本にいなかったんです」
「え?」
「溜まってた有休めちゃくちゃ消化して、旅行してました。オーストラリア」
それはあまりにも意外すぎて言葉が出なかった。うなだれたまま鴇田は「失恋旅行です」と言う。
「紗羽とケントがしばらくオーストラリアに行くって言うから追いかけてって、あちこち観光したり、しなかったりしました。スマホも特に海外仕様にしなかった。のんびり好きに過ごして、あなたとは完全に縁を切るつもりでいて、……だったのに、」
「……」
「その気がないんだから近くに寄らないでほしいと思っても、あなたが近いと嬉しい。こんなに僕は優柔不断なはずじゃなかった」
しばらくうなだれたままの鴇田だったが、やがて顔をあげて「用件とは?」と訊き返してきた。
「あ、ああ……。その、鴇田さんピアノを弾いてくんないかな、って」
「ピアノならさっき弾きましたよ」
「そうだけど、そうじゃなくて、別件」
鴇田にことの詳細を話すと、鴇田は「分かりました」とため息混じりに答えた。
「ですが、お受けできません」
「どうして?」
「三倉さんからの依頼だからです」
「それは……おれ以外からだったら受けたってこと? 例えば、田代からとか」
「田代さんは僕がピアノを弾いていることを知らないはずですので例えようがないですけど、……でもそうですね。田代さんからなら受けたかもしれません」
「どうして?」
「あなたに関わることがつらい……」
と鴇田は表情を曇らせる。そんな顔をさせたいわけではなかった。やはり自分はいまいち鴇田の心を分かっていないのだろう。
「分かった」と言って暖は膝をパンとはたいた。
「あなたにお願いするのはやめます。幼なじみには『当たってみたけどやっぱりだめだった』言っておけばいいし」
そう言うと鴇田はほっとしたような淋しいような、複雑な表情を浮かべた。
「でも、水琴窟の店には行きましょう」
「……だから、」
「こういうのね、適当で曖昧な約束のままにするパターンが多いけど、おれはそういうの嫌なんです。期待しておいて嘘になる、っていうのが。だから言ったことは出来るだけ実行したい。約束を全部ばか丁寧に守れるわけないけど、でも、守れそうな約束は果たしたい」
だから今度は電話に出てくださいねと念を押す。鴇田は頷くでもなくしばらく黙っていたが、暖が立ちあがって「帰りますか」と言うと、唐突に「弾きます」と言った。
「――弾く?」
「幼なじみさんの結婚パーティでのピアノ演奏、請けます」
「さっき断るって、」
「僕がその披露宴でピアノを弾いたら、あなたは嬉しいですか?」
「嬉しいよ、そりゃ。幼なじみのためにもなるし、なによりおれは鴇田さんのピアノ好きだし、」
「じゃあ弾きます」
「おれが喜ぶから?」
「そうです。あなたが喜ぶから」
迷いもなく怖じけることもなく、鴇田は真っ直ぐに暖の顔を見つめてくる。その黒目の深さには夜とはいえ、鴇田遠海という男の計り知れない底のなさを感じさせた。
ぞ、と背筋が粟立つ。それは嫌な感覚ではなく、むしろわくわくしてしまうような危うい心地だった。危険だと身体のどこかで警告される。けれど興味が顔をもたげる。
「詳細な打ち合わせが必要だと思います。今夜は遅いのでいいですけど、早めにその幼なじみさんと時間を取ってもらえたら」
「あ、ああ。分かった。……伝えて、そうだな。近いうちにそいつ連れて店に行きます」
と言ってから、暖はこのことに関してすでに後悔が生じていた。
(鴇田さんはおれが喜ぶから請ける、と言ってくれた)
だったらいいじゃないかと思うのに、どうしてこんな気分になるんだ、と自問する。
(……鴇田さんをマコに紹介するんだと分かったら、嫌になったんだ)
つまりは鴇田を自分だけに繋ぎとめておきたかったのだと分かって、暖は心の中で自分を罵る。
(……鴇田さんの一番でいたいって思ってるのか。妻のいる身分ってのを、おれは分かってないのかな……)
それでも駅までの道のり、鴇田と方向が分かれるまでは共に歩いた。傍にいられて安心した。
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「……」
「いまだって用件なんて聞かずにさっさと帰りたいって思う僕がいる。けど、また三倉さんに会えて嬉しいと思う僕もいます。もう、まだ、ぐっちゃぐちゃで……訳分かんないですよ。こういう気持ちは、本当に嫌だ」
ただでさえ経験なんてないんですから、と鴇田はうなだれた。その姿を見て、暖は単純に綺麗な輪郭線をしているな、と呆けただけだった。頭から首、背中へと切れる線が綺麗だと。若い人の線だと思った。もっと鴇田の心の傍に立ってやらねばと思うのに、鴇田に会えた喜び以上のものが湧いてこない。
「あの後何度も店に行ったし、電話もしたんです」
と言うと、鴇田は「知ってます」と答える。
「電話会社から不在着信の通知は入ってましたから」
「知ってて無視か。ひどいな」
「もう会わないって言ったはずです。それはそういうことです」
「結局、おれがいま知ってるあなたのアドレスはまだ通じるわけ? ひょっとして携帯変えたのかなって思って」
「日本にいなかったんです」
「え?」
「溜まってた有休めちゃくちゃ消化して、旅行してました。オーストラリア」
それはあまりにも意外すぎて言葉が出なかった。うなだれたまま鴇田は「失恋旅行です」と言う。
「紗羽とケントがしばらくオーストラリアに行くって言うから追いかけてって、あちこち観光したり、しなかったりしました。スマホも特に海外仕様にしなかった。のんびり好きに過ごして、あなたとは完全に縁を切るつもりでいて、……だったのに、」
「……」
「その気がないんだから近くに寄らないでほしいと思っても、あなたが近いと嬉しい。こんなに僕は優柔不断なはずじゃなかった」
しばらくうなだれたままの鴇田だったが、やがて顔をあげて「用件とは?」と訊き返してきた。
「あ、ああ……。その、鴇田さんピアノを弾いてくんないかな、って」
「ピアノならさっき弾きましたよ」
「そうだけど、そうじゃなくて、別件」
鴇田にことの詳細を話すと、鴇田は「分かりました」とため息混じりに答えた。
「ですが、お受けできません」
「どうして?」
「三倉さんからの依頼だからです」
「それは……おれ以外からだったら受けたってこと? 例えば、田代からとか」
「田代さんは僕がピアノを弾いていることを知らないはずですので例えようがないですけど、……でもそうですね。田代さんからなら受けたかもしれません」
「どうして?」
「あなたに関わることがつらい……」
と鴇田は表情を曇らせる。そんな顔をさせたいわけではなかった。やはり自分はいまいち鴇田の心を分かっていないのだろう。
「分かった」と言って暖は膝をパンとはたいた。
「あなたにお願いするのはやめます。幼なじみには『当たってみたけどやっぱりだめだった』言っておけばいいし」
そう言うと鴇田はほっとしたような淋しいような、複雑な表情を浮かべた。
「でも、水琴窟の店には行きましょう」
「……だから、」
「こういうのね、適当で曖昧な約束のままにするパターンが多いけど、おれはそういうの嫌なんです。期待しておいて嘘になる、っていうのが。だから言ったことは出来るだけ実行したい。約束を全部ばか丁寧に守れるわけないけど、でも、守れそうな約束は果たしたい」
だから今度は電話に出てくださいねと念を押す。鴇田は頷くでもなくしばらく黙っていたが、暖が立ちあがって「帰りますか」と言うと、唐突に「弾きます」と言った。
「――弾く?」
「幼なじみさんの結婚パーティでのピアノ演奏、請けます」
「さっき断るって、」
「僕がその披露宴でピアノを弾いたら、あなたは嬉しいですか?」
「嬉しいよ、そりゃ。幼なじみのためにもなるし、なによりおれは鴇田さんのピアノ好きだし、」
「じゃあ弾きます」
「おれが喜ぶから?」
「そうです。あなたが喜ぶから」
迷いもなく怖じけることもなく、鴇田は真っ直ぐに暖の顔を見つめてくる。その黒目の深さには夜とはいえ、鴇田遠海という男の計り知れない底のなさを感じさせた。
ぞ、と背筋が粟立つ。それは嫌な感覚ではなく、むしろわくわくしてしまうような危うい心地だった。危険だと身体のどこかで警告される。けれど興味が顔をもたげる。
「詳細な打ち合わせが必要だと思います。今夜は遅いのでいいですけど、早めにその幼なじみさんと時間を取ってもらえたら」
「あ、ああ。分かった。……伝えて、そうだな。近いうちにそいつ連れて店に行きます」
と言ってから、暖はこのことに関してすでに後悔が生じていた。
(鴇田さんはおれが喜ぶから請ける、と言ってくれた)
だったらいいじゃないかと思うのに、どうしてこんな気分になるんだ、と自問する。
(……鴇田さんをマコに紹介するんだと分かったら、嫌になったんだ)
つまりは鴇田を自分だけに繋ぎとめておきたかったのだと分かって、暖は心の中で自分を罵る。
(……鴇田さんの一番でいたいって思ってるのか。妻のいる身分ってのを、おれは分かってないのかな……)
それでも駅までの道のり、鴇田と方向が分かれるまでは共に歩いた。傍にいられて安心した。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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