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to touch
高校生のころに好きだった人のことを丹念に話してくれた。童顔で背はあまり高くなかったそうだが、バランスの取れた身体つきをしていたという。告白は向こうから。屈託ない笑い顔になによりも惹かれた。若かったふたりは恋を愛に変えるのに手間をかけなかった。結果、性急にあっさりと子どもが出来てしまった。
それを若いふたりは、純粋に喜んだという。未成年かつ学生であることにうろたえることはあったが、罪悪はなく、家族になれることの喜びが強かった。いま現状でどうやって子を生み育てていくかは大きな課題であるため、これにはさすがに自分たちだけでの解決は出来ないと判断した。そして実に現実的な思考でお互いの保護者に打ち明けた。
結果として猛反発をくらい、蒼生子は無理やり堕胎を強いられた。好きな人とも離され、双方を失った喪失感で中絶後の学業復帰に時間を要した。望まぬ中絶手術の結果、子が出来にくい身体になったと自身が知るのは、暖と結婚し再び子を望むようになった後のことだった。
父親には過去に妊娠と中絶の経験があることを言うなと言われていた。恥であるから、と。あまりにも恥ずかしいことだと言われすぎて、蒼生子自身が「若さゆえに恥ずかしく愚かなことをしてしまった」と思い込むようになった。母親の意見は違ったようだが、それに後押しされて言おうと心に決めても、暖から軽蔑されたらどうしようと思うと言えなかった。
だから全て知られる前に断ち切ってしまおうと離婚を切り出したのが結婚して三年目のことだった。なにも知らない夫は離婚を渋った。どころか側にいて支えようと懸命に努力し、決して蒼生子のことを投げ出したりはしなかった。いっそあのとき諦めて離婚してくれればこんなにもあなたを追い詰めることもなかったかもしれないと言われ、暖は首を横に振った。
「それは違う。おれと別れてもあなたは子どもを望んだだろうし。鴇田さんに出会っていなければおれもあなた以外の誰かと関係を持とうなんてことは思い浮かびもしなかった」
そう答えると、妻は顔を曇らせて俯いた。
「私と別れたら、鴇田さんと一緒になる?」
「それも違う話だな。あなたがおれとのあいだに子どもを望んでいるから、それはもうやめよう、という話をしたい。鴇田さんと一緒になりたいから別れたいという話とは別なんだ」
「でも暖は鴇田さんが好きなんでしょう?」
「……それはまだ、これからおれ自身が整理をつける話だ。あなたと結婚していながら浮気をしてしまった非は認めるし、そのことであなたに苦痛をもたらしたのだから、謝罪する」
「私と結婚しているから、私に対して味方であろうとしてくれるあなたの姿勢は嬉しいと思う。けど、許せないの。だったらどうして浮気なんかしたの? って思ってしまう。浮気をするぐらいまで私が追い詰めてしまったとしても」
「……」
「それに、私にすごく正直であろうとしてくれているけど、鴇田さんの気持ちは考えないの? 鴇田さんに対してだって素直になるべきで……分かんなくなってきた。私はどっちの味方なのかな」
「あなたはあなたの主張をすればいい。おれの答えは見えている」
「答え?」
「子どもを望むなら添えないということ。別れてほしい。もちろん、人工授精にもまだ様々なやり方はあるし、養子縁組という方法もある。それらを検討してみてもいいとは思うから、あくまでも選択肢のひとつではあるけれど」
「……私と暖との子どもを望まないなら、離婚しないということ?」
「そういう方がおれにとっては無理がないんだ。あなたとこの先もやっていけると思う。蒼生子さんは?」
妻は深く考え込んだ。そのまま会話が止まり、随分と経ったあとで「私は自分のお腹を痛めて子どもが欲しい」と言った。
「だから浮気もなかったことにする。諦めたくない」
「……養子縁組すら考えない?」
「他人の子どもを育てるっていう感覚が、どうしても」
暖はふ、と息を吐いた。
「おれは鴇田さんのことをなかったことにはしたくない。子どもが欲しいと言っていたあなたを承知で関係を持っている。なかったことにして子どもが欲しいというあなたの意見には、残念ながら添えない。……子を成したくて成せない女性の苦しみのことは、長年あなたを傍で見て分かっているはずのことだし、理解を怠りたくないと思う。けれどあなたが望むような共感へは至らない。辛いところだけれど、これがおれの本音だ」
話せば話すほど平行線を辿る不毛な会話。それでも懲りずに対話をし、お互いの意思を伝えた。暖はいくつもの可能性を探っていた。だが蒼生子の方は「子どもが欲しいから浮気を許す、なかったことにして婚姻を継続させたい」の一点張りだった。
絶えず根気よく話し、わだかまり、泣き、それでも冷静を努め、蒼生子が「お母さんと暮らそうと思う」と言い出したのは気分転換にと義母とふたりで温泉旅行に出かけて帰ってきたその日だった。一月、いつの間にか年が明けていた。
「お母さんね、お父さんとの離婚を決めたみたいで」
「え」
前に話した時にも熟年離婚はあり得そうな気配ではあった。それがようやくか、意外にもなのか、とにかくそういう方向性で進んだらしい。
「お母さんは強い人だけど、このままお父さんの面倒見ながら暮らして行く選択肢はなくてもいいよって、私も思うの。そりゃふたりが別れるのは嫌だけど、私にとってお父さんはお父さんだし、お母さんはお母さんだから」
「そうだね。あなたにとってその関係性は変わらない」
「それで、私も暖と離れて暮らしたらいいのかなって思ったの」
その意見を聞いて、暖は妻の心境の変化を悟った。ずっと対話を続けてきた成果なのだと思った。
「離れたら見えるものもあると思うから。……私は赤ちゃんが欲しい、暖はいらない。その平行線の先に交わるものがあるのか、ないのか、ちょっと距離を置いて考えてみたいと思ったの」
「……賛成するよ」
そう言って妻は十年暮らしたマンションを出て行った。母親と部屋を借りて暮らしはじめたのだ。ひとりになった暖には、それでもまだ考えるべきたくさんのことがあった。離婚になってもならなくても、離れた方がいいという選択は肯定すべき事柄だ。
一週間に一度ほどは蒼生子と会った。そして彼女の口から離婚を申し渡されたのが三月のこと。
「暖をね、楽にしてあげたい。私のわがままをたくさん聞いてもらったんだってようやく気づいた。やっぱり私は子どもを諦められない。諦めたくないから、ずっと子どもが欲しいって言い続けてしまう。暖はパートナーだからそれを無視することはしないでしょう? それはやっぱり、これからもあなたを苦しめるんだってことだから」
つまり、暖以外のパートナーを見つけて子どもを望むということだ。その意図が分かってやっぱりな、とも思ったし、いままでの自分を無念にも思ったし、それでもほっとした面もあった。
「これからは離婚についての話をしましょう。暖から慰謝料をもらうことは考えてない。円満離婚がいいと思う。財産分与の話もしないといけないから、嫌な話もしないといけないけれど、最後の日は美味しいものでも食べてあー美味しかったねって笑って別れたい」
「……出来るだけ実現させよう」
「そういえばずっと前に鴇田さんを水琴窟のお店に誘ってたけど、行った?」
「いや、機会を逃しっぱなしで。秋以降は会ってないし」
電話すら通じなくなってしまった。
「もう会わないでくださって取り乱しちゃった私が言うことじゃないかもしれないけど、……あのお店、夏には閉店しちゃうらしいよ。ご主人の高齢化でお店たたむんだって。約束をいつでも守れるわけじゃなくなっちゃう」
「――鴇田さんに会うタイミングをいまのおれひとりでは決められない」
「……そうだね。そう思う」
離婚が成立して単身者向けのアパートに引っ越したのは、四月も下旬になるという頃だった。
→ 2
高校生のころに好きだった人のことを丹念に話してくれた。童顔で背はあまり高くなかったそうだが、バランスの取れた身体つきをしていたという。告白は向こうから。屈託ない笑い顔になによりも惹かれた。若かったふたりは恋を愛に変えるのに手間をかけなかった。結果、性急にあっさりと子どもが出来てしまった。
それを若いふたりは、純粋に喜んだという。未成年かつ学生であることにうろたえることはあったが、罪悪はなく、家族になれることの喜びが強かった。いま現状でどうやって子を生み育てていくかは大きな課題であるため、これにはさすがに自分たちだけでの解決は出来ないと判断した。そして実に現実的な思考でお互いの保護者に打ち明けた。
結果として猛反発をくらい、蒼生子は無理やり堕胎を強いられた。好きな人とも離され、双方を失った喪失感で中絶後の学業復帰に時間を要した。望まぬ中絶手術の結果、子が出来にくい身体になったと自身が知るのは、暖と結婚し再び子を望むようになった後のことだった。
父親には過去に妊娠と中絶の経験があることを言うなと言われていた。恥であるから、と。あまりにも恥ずかしいことだと言われすぎて、蒼生子自身が「若さゆえに恥ずかしく愚かなことをしてしまった」と思い込むようになった。母親の意見は違ったようだが、それに後押しされて言おうと心に決めても、暖から軽蔑されたらどうしようと思うと言えなかった。
だから全て知られる前に断ち切ってしまおうと離婚を切り出したのが結婚して三年目のことだった。なにも知らない夫は離婚を渋った。どころか側にいて支えようと懸命に努力し、決して蒼生子のことを投げ出したりはしなかった。いっそあのとき諦めて離婚してくれればこんなにもあなたを追い詰めることもなかったかもしれないと言われ、暖は首を横に振った。
「それは違う。おれと別れてもあなたは子どもを望んだだろうし。鴇田さんに出会っていなければおれもあなた以外の誰かと関係を持とうなんてことは思い浮かびもしなかった」
そう答えると、妻は顔を曇らせて俯いた。
「私と別れたら、鴇田さんと一緒になる?」
「それも違う話だな。あなたがおれとのあいだに子どもを望んでいるから、それはもうやめよう、という話をしたい。鴇田さんと一緒になりたいから別れたいという話とは別なんだ」
「でも暖は鴇田さんが好きなんでしょう?」
「……それはまだ、これからおれ自身が整理をつける話だ。あなたと結婚していながら浮気をしてしまった非は認めるし、そのことであなたに苦痛をもたらしたのだから、謝罪する」
「私と結婚しているから、私に対して味方であろうとしてくれるあなたの姿勢は嬉しいと思う。けど、許せないの。だったらどうして浮気なんかしたの? って思ってしまう。浮気をするぐらいまで私が追い詰めてしまったとしても」
「……」
「それに、私にすごく正直であろうとしてくれているけど、鴇田さんの気持ちは考えないの? 鴇田さんに対してだって素直になるべきで……分かんなくなってきた。私はどっちの味方なのかな」
「あなたはあなたの主張をすればいい。おれの答えは見えている」
「答え?」
「子どもを望むなら添えないということ。別れてほしい。もちろん、人工授精にもまだ様々なやり方はあるし、養子縁組という方法もある。それらを検討してみてもいいとは思うから、あくまでも選択肢のひとつではあるけれど」
「……私と暖との子どもを望まないなら、離婚しないということ?」
「そういう方がおれにとっては無理がないんだ。あなたとこの先もやっていけると思う。蒼生子さんは?」
妻は深く考え込んだ。そのまま会話が止まり、随分と経ったあとで「私は自分のお腹を痛めて子どもが欲しい」と言った。
「だから浮気もなかったことにする。諦めたくない」
「……養子縁組すら考えない?」
「他人の子どもを育てるっていう感覚が、どうしても」
暖はふ、と息を吐いた。
「おれは鴇田さんのことをなかったことにはしたくない。子どもが欲しいと言っていたあなたを承知で関係を持っている。なかったことにして子どもが欲しいというあなたの意見には、残念ながら添えない。……子を成したくて成せない女性の苦しみのことは、長年あなたを傍で見て分かっているはずのことだし、理解を怠りたくないと思う。けれどあなたが望むような共感へは至らない。辛いところだけれど、これがおれの本音だ」
話せば話すほど平行線を辿る不毛な会話。それでも懲りずに対話をし、お互いの意思を伝えた。暖はいくつもの可能性を探っていた。だが蒼生子の方は「子どもが欲しいから浮気を許す、なかったことにして婚姻を継続させたい」の一点張りだった。
絶えず根気よく話し、わだかまり、泣き、それでも冷静を努め、蒼生子が「お母さんと暮らそうと思う」と言い出したのは気分転換にと義母とふたりで温泉旅行に出かけて帰ってきたその日だった。一月、いつの間にか年が明けていた。
「お母さんね、お父さんとの離婚を決めたみたいで」
「え」
前に話した時にも熟年離婚はあり得そうな気配ではあった。それがようやくか、意外にもなのか、とにかくそういう方向性で進んだらしい。
「お母さんは強い人だけど、このままお父さんの面倒見ながら暮らして行く選択肢はなくてもいいよって、私も思うの。そりゃふたりが別れるのは嫌だけど、私にとってお父さんはお父さんだし、お母さんはお母さんだから」
「そうだね。あなたにとってその関係性は変わらない」
「それで、私も暖と離れて暮らしたらいいのかなって思ったの」
その意見を聞いて、暖は妻の心境の変化を悟った。ずっと対話を続けてきた成果なのだと思った。
「離れたら見えるものもあると思うから。……私は赤ちゃんが欲しい、暖はいらない。その平行線の先に交わるものがあるのか、ないのか、ちょっと距離を置いて考えてみたいと思ったの」
「……賛成するよ」
そう言って妻は十年暮らしたマンションを出て行った。母親と部屋を借りて暮らしはじめたのだ。ひとりになった暖には、それでもまだ考えるべきたくさんのことがあった。離婚になってもならなくても、離れた方がいいという選択は肯定すべき事柄だ。
一週間に一度ほどは蒼生子と会った。そして彼女の口から離婚を申し渡されたのが三月のこと。
「暖をね、楽にしてあげたい。私のわがままをたくさん聞いてもらったんだってようやく気づいた。やっぱり私は子どもを諦められない。諦めたくないから、ずっと子どもが欲しいって言い続けてしまう。暖はパートナーだからそれを無視することはしないでしょう? それはやっぱり、これからもあなたを苦しめるんだってことだから」
つまり、暖以外のパートナーを見つけて子どもを望むということだ。その意図が分かってやっぱりな、とも思ったし、いままでの自分を無念にも思ったし、それでもほっとした面もあった。
「これからは離婚についての話をしましょう。暖から慰謝料をもらうことは考えてない。円満離婚がいいと思う。財産分与の話もしないといけないから、嫌な話もしないといけないけれど、最後の日は美味しいものでも食べてあー美味しかったねって笑って別れたい」
「……出来るだけ実現させよう」
「そういえばずっと前に鴇田さんを水琴窟のお店に誘ってたけど、行った?」
「いや、機会を逃しっぱなしで。秋以降は会ってないし」
電話すら通じなくなってしまった。
「もう会わないでくださって取り乱しちゃった私が言うことじゃないかもしれないけど、……あのお店、夏には閉店しちゃうらしいよ。ご主人の高齢化でお店たたむんだって。約束をいつでも守れるわけじゃなくなっちゃう」
「――鴇田さんに会うタイミングをいまのおれひとりでは決められない」
「……そうだね。そう思う」
離婚が成立して単身者向けのアパートに引っ越したのは、四月も下旬になるという頃だった。
→ 2
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たまらずその場で開封した。雨に濡れないようにひさしの下へ出来るだけ深く潜り込む。中身は見覚えのある走り書きで大きく「ボツ」と書かれている、手書きの原稿だった。
『テナガザル/樹上生活者と呼ばれる/一夫一妻制の動物/大きな性差なし/歌で家族を囲う/歌/核家族』
アイディアの根起こしのようなメモ書きが続く。遠海は必死で目を凝らす。店から漏れる明かりを頼りになんとか読み進める。
『ずっと触れられなかった理由がある/体が拒絶反応を起こす/相手と「出会う」ために他を全て拒絶する/一生を共にする運命の相手に触れるため/拒否/出会って許容を覚える/ひとりを愛し続ける遺伝子』
最後の方は書いた文章をぐしゃぐしゃと潰していた。けれどその潰された文章は「遠浅の海みたいなピアノで愛を歌う樹上生活者」とかろうじて読めた。
ふ、と背後からの明かりが消える。音がして裏口から閉店作業を終えたスタッフが出て来る。最後尾に伊丹がいた。遠海を見て「あれ? まだいたの?」と言う。
「ここ閉めちゃうけどもしかして帰れない?」
「あー、あの、」
封筒を握り締める。アパートに帰ってからとか、雨が止んだらとか、時間を挟むことをなにも考えられなかった。
「ここ、店にもう少しだけいさせてもらう訳にはいきませんか?」
「ピアノ弾きたくなっちゃった?」
「そんな感じです。夜間の電気代とかお支払いしますので」
必死で言い募る遠海に、伊丹は「こんな雨だしね」と言って店のキーを渡してくれた。
「警備会社には連絡しとく。セキュリティの解除は分かるね。毛布の常備があるからよければ使って。無理はしないように。おやすみ」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
挨拶ももどかしく鍵を開け直して裏口から店に入る。店に入れてある警備会社のロックも外した。電灯をひとつだけ灯し、ピアノの椅子に腰掛けた。再び封筒をひらく。もう湿気でよれてくたくたになっている。
原稿用紙を再び読んだが、「ボツ」と記された原稿、それだけだった。こんなんじゃなんにも分かんないよ、と遠海は焦る。裏も表もよく確認し、封筒も改める。中にもう一枚入っていた。こちらは名刺だった。あおばタイムス記者、三倉暖。未だ読み仮名の入らないその名刺の裏をめくると手書きでナンバーが記されていた。右斜め上へと走る番号の下に、やはり手書きのメッセージが続く。
『アドレス再通知。電話をください。ミクラ』
それがなにを意味するのかは分からない。この人がいまどこにいて、なにを思って、誰といるのか。やっぱりなんにも分からない。
けれどいまじゃなきゃだめだと思う。いまじゃないと遅い。それだけははっきりと分かる。時間を置いて冷静になったらそれは、「逃した」のだ。
スマートフォンを取り出し、震える手でナンバーを押した。長いコールのあいだ、留守電に切り替わるまではなんとしても鳴らそうと思いながら粘る。もう無理かと思いかけた頃、ようやく『三倉です』と応答した。女の声でも、子どもの声でもない。成人した男性の、遠海がずっと聞きたいと思っていた声だった。
「……あの、鴇田です。……いまいいですか?」
『鴇田さん。お久しぶりですね。大丈夫です』
心臓が痛む。呻くように目を閉じてピアノにもたれた。
「会社の後輩に封筒を渡してもらいました。中、読んで」
『まさか今夜のうちに届くとは思わなかったです。意味、分からなかったでしょう』
「全然」
『そう。だから……要するに話したいことがたくさんあります』
声音には笑みが混じっていた。音声が鼓膜から脳へと伝わり、それは遠海の中で歓喜として変換される。こんなにもこの人の声を聞きたかった。長く遠海が堪えていたこと。
「僕もたくさんあるんです。いまどこにいますか?」
『アパートです。引っ越したんですよ』
「引っ越し?」
『うん。鴇田さん、いまどこ?』
「……ピアノの前、」
『え? 店? それともアパート?』
「店。……雨がひどいって無理言ってひとりで居残りしてます」
ピアノの蓋を開けて一音だけ鳴らす。『そうか、店か』と相手は笑った。
『鴇田遠海さん』
「はい」
『先日は封書を下さいまして、ありがとうございました。励みになりました。なんていうかな、ちゃんと届いていることが伝わって嬉しかったというよりは、私が得たいと思っていた喜びを頂いた、と言うのかな。この仕事をしていて良かったと思いました。本当にありがとう』
「あんな文章しか書けなくて。三倉さんみたいには書けない」
『でもおれはピアノを弾けない。おれとあなたで表現の方法が違うだけです。もしくは会得した技術とか。それはいままでの人生の差で、個であることだと思います』
「コ?」
『個性だって意味です。ピアノを弾いて来たあなたの人生と、人に会って話を聞いてものを書くのを仕事に選んだおれの人生。当然ながら違うんです』
「性質も?」
『そうだね、性質も。前にあなたが言っていた通りに。ですが同じ時間軸に生まれているので、こうやって交わることがあります』
「またそうやって難しいことを言いますね」
『難しくはないんだけど、……文字だけとか、音声だけで100%はなかなか伝わらないね』
「分かるように言ってください。ちゃんと説明されないと、僕は分からない……」
三倉の「おれ」や「あなた」を久しぶりに聞いて身体がぐずぐずに崩れる。好きでたまらない、どうにもならない恋心が胸の内側にひたひたと満ちる。
「会いたいです」と口にしていた。
「会って顔を見て話をしたいです」
『うん。おれも同じことを思います。あんな演奏されたらこっちはたまったもんじゃないよ。おいで、待ってるから。ああ、いいか。おれがタクシーでいったん店まで迎えに行きます』
「大丈夫なんですか? こんな時間だし、こんな天気だし、……家庭とか、奥さんとか」
『ひとり暮らしだからね、問題ないです。こうなるためではなかったけれど、慎重に時間をかけました。その話もしたいと思う』
そう言われ、遠海はとっさに電話を落としそうになった。指が震える。声が出ない。
『遅くなってしまって申し訳ない。まだ間に合いますか?』と男は訊く。遠海は目を閉じる。目蓋の裏に困った顔で笑っている男の顔を思い浮かべる。
「三倉さん、会いたいです」
『会いに行きます。少し待ってて。――あ、思いついた。電話切らないでおくのでピアノ鳴らしててください。それ聴きながら会いに行きますから』
「……リクエストにお応えします」
『そうだな。ブラックミュージックに浸りたい気分です。ジャズもそうだけど、R&Bなんかもいいよね。好きな歌手がいてさ。この話したことあったかな?』
「知らないです。なんていう歌手ですか?」
三倉は歌手名を告げた。よく知っているわけではなかったが、有名な曲をひとつだけ弾けそうだった。
「確かこんな感じ」とサビの部分を指で弾く。
『ああ、それ。さすがよくご存知ですね』
「ではこれも交えていくつか。……どうぞお気をつけて。お待ちしています」
スマートフォンをスピーカーに変えて、ピアノの譜面台に立てかける。
呼吸をして、音を一音だけ鳴らす。大好きなA。それから遠海はゆったりとミュージックを奏ではじめた。
メイストーム end
『テナガザル/樹上生活者と呼ばれる/一夫一妻制の動物/大きな性差なし/歌で家族を囲う/歌/核家族』
アイディアの根起こしのようなメモ書きが続く。遠海は必死で目を凝らす。店から漏れる明かりを頼りになんとか読み進める。
『ずっと触れられなかった理由がある/体が拒絶反応を起こす/相手と「出会う」ために他を全て拒絶する/一生を共にする運命の相手に触れるため/拒否/出会って許容を覚える/ひとりを愛し続ける遺伝子』
最後の方は書いた文章をぐしゃぐしゃと潰していた。けれどその潰された文章は「遠浅の海みたいなピアノで愛を歌う樹上生活者」とかろうじて読めた。
ふ、と背後からの明かりが消える。音がして裏口から閉店作業を終えたスタッフが出て来る。最後尾に伊丹がいた。遠海を見て「あれ? まだいたの?」と言う。
「ここ閉めちゃうけどもしかして帰れない?」
「あー、あの、」
封筒を握り締める。アパートに帰ってからとか、雨が止んだらとか、時間を挟むことをなにも考えられなかった。
「ここ、店にもう少しだけいさせてもらう訳にはいきませんか?」
「ピアノ弾きたくなっちゃった?」
「そんな感じです。夜間の電気代とかお支払いしますので」
必死で言い募る遠海に、伊丹は「こんな雨だしね」と言って店のキーを渡してくれた。
「警備会社には連絡しとく。セキュリティの解除は分かるね。毛布の常備があるからよければ使って。無理はしないように。おやすみ」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
挨拶ももどかしく鍵を開け直して裏口から店に入る。店に入れてある警備会社のロックも外した。電灯をひとつだけ灯し、ピアノの椅子に腰掛けた。再び封筒をひらく。もう湿気でよれてくたくたになっている。
原稿用紙を再び読んだが、「ボツ」と記された原稿、それだけだった。こんなんじゃなんにも分かんないよ、と遠海は焦る。裏も表もよく確認し、封筒も改める。中にもう一枚入っていた。こちらは名刺だった。あおばタイムス記者、三倉暖。未だ読み仮名の入らないその名刺の裏をめくると手書きでナンバーが記されていた。右斜め上へと走る番号の下に、やはり手書きのメッセージが続く。
『アドレス再通知。電話をください。ミクラ』
それがなにを意味するのかは分からない。この人がいまどこにいて、なにを思って、誰といるのか。やっぱりなんにも分からない。
けれどいまじゃなきゃだめだと思う。いまじゃないと遅い。それだけははっきりと分かる。時間を置いて冷静になったらそれは、「逃した」のだ。
スマートフォンを取り出し、震える手でナンバーを押した。長いコールのあいだ、留守電に切り替わるまではなんとしても鳴らそうと思いながら粘る。もう無理かと思いかけた頃、ようやく『三倉です』と応答した。女の声でも、子どもの声でもない。成人した男性の、遠海がずっと聞きたいと思っていた声だった。
「……あの、鴇田です。……いまいいですか?」
『鴇田さん。お久しぶりですね。大丈夫です』
心臓が痛む。呻くように目を閉じてピアノにもたれた。
「会社の後輩に封筒を渡してもらいました。中、読んで」
『まさか今夜のうちに届くとは思わなかったです。意味、分からなかったでしょう』
「全然」
『そう。だから……要するに話したいことがたくさんあります』
声音には笑みが混じっていた。音声が鼓膜から脳へと伝わり、それは遠海の中で歓喜として変換される。こんなにもこの人の声を聞きたかった。長く遠海が堪えていたこと。
「僕もたくさんあるんです。いまどこにいますか?」
『アパートです。引っ越したんですよ』
「引っ越し?」
『うん。鴇田さん、いまどこ?』
「……ピアノの前、」
『え? 店? それともアパート?』
「店。……雨がひどいって無理言ってひとりで居残りしてます」
ピアノの蓋を開けて一音だけ鳴らす。『そうか、店か』と相手は笑った。
『鴇田遠海さん』
「はい」
『先日は封書を下さいまして、ありがとうございました。励みになりました。なんていうかな、ちゃんと届いていることが伝わって嬉しかったというよりは、私が得たいと思っていた喜びを頂いた、と言うのかな。この仕事をしていて良かったと思いました。本当にありがとう』
「あんな文章しか書けなくて。三倉さんみたいには書けない」
『でもおれはピアノを弾けない。おれとあなたで表現の方法が違うだけです。もしくは会得した技術とか。それはいままでの人生の差で、個であることだと思います』
「コ?」
『個性だって意味です。ピアノを弾いて来たあなたの人生と、人に会って話を聞いてものを書くのを仕事に選んだおれの人生。当然ながら違うんです』
「性質も?」
『そうだね、性質も。前にあなたが言っていた通りに。ですが同じ時間軸に生まれているので、こうやって交わることがあります』
「またそうやって難しいことを言いますね」
『難しくはないんだけど、……文字だけとか、音声だけで100%はなかなか伝わらないね』
「分かるように言ってください。ちゃんと説明されないと、僕は分からない……」
三倉の「おれ」や「あなた」を久しぶりに聞いて身体がぐずぐずに崩れる。好きでたまらない、どうにもならない恋心が胸の内側にひたひたと満ちる。
「会いたいです」と口にしていた。
「会って顔を見て話をしたいです」
『うん。おれも同じことを思います。あんな演奏されたらこっちはたまったもんじゃないよ。おいで、待ってるから。ああ、いいか。おれがタクシーでいったん店まで迎えに行きます』
「大丈夫なんですか? こんな時間だし、こんな天気だし、……家庭とか、奥さんとか」
『ひとり暮らしだからね、問題ないです。こうなるためではなかったけれど、慎重に時間をかけました。その話もしたいと思う』
そう言われ、遠海はとっさに電話を落としそうになった。指が震える。声が出ない。
『遅くなってしまって申し訳ない。まだ間に合いますか?』と男は訊く。遠海は目を閉じる。目蓋の裏に困った顔で笑っている男の顔を思い浮かべる。
「三倉さん、会いたいです」
『会いに行きます。少し待ってて。――あ、思いついた。電話切らないでおくのでピアノ鳴らしててください。それ聴きながら会いに行きますから』
「……リクエストにお応えします」
『そうだな。ブラックミュージックに浸りたい気分です。ジャズもそうだけど、R&Bなんかもいいよね。好きな歌手がいてさ。この話したことあったかな?』
「知らないです。なんていう歌手ですか?」
三倉は歌手名を告げた。よく知っているわけではなかったが、有名な曲をひとつだけ弾けそうだった。
「確かこんな感じ」とサビの部分を指で弾く。
『ああ、それ。さすがよくご存知ですね』
「ではこれも交えていくつか。……どうぞお気をつけて。お待ちしています」
スマートフォンをスピーカーに変えて、ピアノの譜面台に立てかける。
呼吸をして、音を一音だけ鳴らす。大好きなA。それから遠海はゆったりとミュージックを奏ではじめた。
メイストーム end
開店して客の入りは上々で、席はすぐに満席になったらしかった。外はひどいどしゃぶりだと言うのに、皆心待ちにしていたオープンだったと分かる。オーダーをまわすスタッフたちの声や足音を聞きながら、遠海はずっと目を閉じていた。頭の中でははじまりのAが鳴り響いている。
「――出番だよ」
そっと声をかけられ、目を開けた。伊丹がカウンターの中から目配せをする。バックヤードを誰にも気付かれないように抜けて、ピアノに近づいた。店の騒音が心地いい。どんなお喋りをして、どんな料理と酒を楽しんでいるのか。ああ、たしなむんだっけか、と思い直す。
はじめの一音をポーンと鳴らす。遠海に気づいた何人かがこちらに注目したのが分かった。別に注目なんかしなくていいのにな、と思う。あなたの時間を楽しんでください。僕はピアノで遊んでいるだけ。ただあなたの時間にふと出来た余白に、ピアノが作用していますようにと願います。
今日はあとからボーカリストが参加するが、はじめはひとりだから、タイミングを図ることもなく静かにピアノを鳴らしはじめた。撫でるようにやさしく。祈るように首を折る。
いい音が鳴っている、と思う。自分で鳴らしておいてうっとりする。ホールが広く、天井が高くなったので、音の響きがいい。ピアノが喜んで勝手に歌っている心地がした。遠海はピアノの求めに応じてただ弦を叩いているだけのような気がしてしまう。
もっと触ってと言われる。そこを押すと気持ちがいいよと言われる。
紛れもなくこれは快楽だと思った。ピアノに触れて快楽を得ている。それは三倉に触れたから理解出来る感覚だ。
自分でも驚くぐらいに次々と曲が出てくる。息継ぎもせずに水の中に潜り続けている心地だった。苦しいのにもっと続けていたいと思う。あまりにも没頭していて、だから鳴らしたイントロでボーカリストがすこし慌てたのが分かった。自然にボーカルが歌う予定の曲に突入していた。
けれど即興演奏という性質上、ボーカリストも身構えない。傍の広いテーブル席に待機していた彼女は、喋っていた常連客らに笑いかけて立ち上がった。ゆったりと出て来て、身体を揺らしてマイクスタンドの前に立つ。歓声が沸き起こった。
ボーカリストがハスキーな声を響かせて歌いはじめる。不意に雨のにおいがして、遠海は顔を上げる。照明を絞った広いホールに客がたくさんで、誰が入って来て誰が出ていったのかはよく把握できなかった。またピアノに没頭する。ボーカルとピアノが混ざって新しい快楽が生まれる。増幅する一方で収束を知らない。
長い時間が経ったような気もするし、短かったようにも思う。気づいたら遠海は人気のない店内のカウンター席でぐったりしていた。スタッフが椅子を上げて丁寧にホールを掃除している。ようやく顔を上げると、隣でアルコールを嗜んでいたボーカルのアンジェがにっこりと笑って「情熱的だったわ」と感想を述べた。
「なんか人肌恋しくなるような演奏でびっくりしちゃった。隅に置けないったら。あたしそろそろ帰るわね」
「ああ、……お疲れさまでした」
「遠海も恋人と早く落ち合った方がいいんじゃない? 今夜の雨は冷たいから」
いたずらめいて笑われた。アンジェは傍にいた旦那の腕にべったりと絡みつき、伊丹やスタッフらに声をかけて店を出ていく。今夜これから情熱的な夜を過ごすのかもしれない。そう思ったらいまさらになって恥ずかしくなった。
遠海も伊丹らに挨拶をして、上着を羽織って表へ出る。傘を取り出しているとそこへ人影がぬっと現れた。びっくりしたが、「すげーですよ、やばいです」との声で誰だか判明した。日瀧だった。店を惜しんでくれていた彼にだけは、他に遠海のピアノについて口外しないと約束の上で今夜のステージのことを告げてあった。
「お疲れさんです。やべーもん聴きました。すげえ、すげえかっけぇすね、鴇田さん。あのボーカルの姉さんも色気だだ漏れで。大人ってすげえ」
「……ありがとう。雨の中待ってるより、店にいればよかったのに」
「追いかけたんです」
「なにを?」
「あの人。鴇田さんの演奏、聴きに来てましたよ。すみっこの方でずっと鴇田さんのこと見てた」
あの人、と言われてもピンと来る人物は思い浮かばなかった。日瀧と共通の知人が会社以外にいただろうか。首を傾げつつ日瀧の話を聞く。日瀧は「鴇田さんの演奏が終わって出て行こうとするから、慌てて追っかけて捕まえたんです」と言った。
「鴇田さんの会社の後輩ですって言ったら、そうですかって頷いて、笑ってました。こういう風に笑って頷いてたってのが分かりました。……その人、今夜はこれを渡すか迷ってたんですがあなたに託しますって言って、これ、おれに渡して」
そう言って日瀧がバックパックから取り出したのは封筒だった。定型の大きさで、封筒に書かれている社名を確認した途端に遠海ははっと顔を上げて振り返った。
「もういません。行っちゃいました。すいません、引き留めきれなかったです」と日瀧はすまなそうな顔をする。
「でも、とにかくおれはこれを、鴇田さんに渡します。いいですか、渡しましたからね。じゃあおれは行きます。――また会社で」
遠海に封筒を押し付け、日瀧は雨の中を猛然と走って消えた。遠海はしばらくその場に佇んでぼんやりと封筒を見つめる。社名のロゴを知っている。毎日必ず目を通しているから飽きるほど見ていた。
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『三倉暖さんの記事は必ず読んでいます。コラムが面白いです。どんな切り口で語るのか毎回楽しみです。これからもずっと読みます。トキタ』
散々考えた末がこの文章なのだから、あまりのお粗末さに笑ってしまう。でもこれが遠海の精一杯だった。封書にして住所を記し、郵便局で料金を支払ってアパートへと戻る。あおばタイムスに宛てた手紙だった。もうこれ以外に方法を思いつかない。けれど伝えたいと思う。届けばきっと三倉は読む。読めばこちらの意思は分かってもらえると思う。
アパートに戻り、上着を脱ぐのももどかしく電子ピアノの前に座った。様々な音源を聴き、様々な譜を読み、とにかく指を動かす日々を送っている。伊丹の店のオープンが迫っていた。オープニングの広告もすでに打たれている。仕事から帰ればピアノ、ピアノで、知らぬうちに指が腿を叩いているときだってあった。あれだけ触らなかったピアノに猛然と触れている。遠海の頭の中ではずっと音楽が鳴りやまない。
電子ピアノに電源は入れていない。あくまでも指使いの練習で叩く。聴こえるのは脳内に鳴る甘美な音色であり、外からの生活音だった。子どもの声、母親の声、車の音。ここは保育園が近いので時間によっては園児の声がよく響いた。泣き声から笑い声まで多彩で豊かだ。それを苦には思わない。こんなにひとつひとつの音がはっきりと眩い。
窓ガラスが鳴り、遠海は顔を上げた。今日は風がだいぶ出ている。ここ最近は夏かと思えるような日差しで晴れた日が多かったが、天気が崩れることは前々から予想されていたと思い出す。この連休に低気圧がぶつかるようなことを気象予報士が言っていた。レジャーに行きたい人間には打撃だろう。
メイストーム、と三倉は書いていた。投函した手紙にもっといろんなことを書けばよかったな、と思う。そんな言葉ははじめて知りました、とか。三倉みたいに文章をうまく考えられないからあんなにそっけなくなってしまった。社内で読みまわされる可能性も考えてさっぱりと書いて送ってしまったが、せめて三倉の記事が好きだと書いたなら記事の内容にだって触れてもよかったのではないかと思う。思ったがいまさらだ。遠海は出来る限りで「伝えた」。
三倉が好きだ。だから遠海は三倉の記事をこれからもずっと探しては読む。
三倉が結婚していても、いなくても、子どもがいても、いなくても、ずっと好きでいる。はじめて誰かに触れられた喜びも一緒くたに大好きだと思う。
この先遠海がひとりでも、誰かといる日が来ても、ずっと。
アパートに戻り、上着を脱ぐのももどかしく電子ピアノの前に座った。様々な音源を聴き、様々な譜を読み、とにかく指を動かす日々を送っている。伊丹の店のオープンが迫っていた。オープニングの広告もすでに打たれている。仕事から帰ればピアノ、ピアノで、知らぬうちに指が腿を叩いているときだってあった。あれだけ触らなかったピアノに猛然と触れている。遠海の頭の中ではずっと音楽が鳴りやまない。
電子ピアノに電源は入れていない。あくまでも指使いの練習で叩く。聴こえるのは脳内に鳴る甘美な音色であり、外からの生活音だった。子どもの声、母親の声、車の音。ここは保育園が近いので時間によっては園児の声がよく響いた。泣き声から笑い声まで多彩で豊かだ。それを苦には思わない。こんなにひとつひとつの音がはっきりと眩い。
窓ガラスが鳴り、遠海は顔を上げた。今日は風がだいぶ出ている。ここ最近は夏かと思えるような日差しで晴れた日が多かったが、天気が崩れることは前々から予想されていたと思い出す。この連休に低気圧がぶつかるようなことを気象予報士が言っていた。レジャーに行きたい人間には打撃だろう。
メイストーム、と三倉は書いていた。投函した手紙にもっといろんなことを書けばよかったな、と思う。そんな言葉ははじめて知りました、とか。三倉みたいに文章をうまく考えられないからあんなにそっけなくなってしまった。社内で読みまわされる可能性も考えてさっぱりと書いて送ってしまったが、せめて三倉の記事が好きだと書いたなら記事の内容にだって触れてもよかったのではないかと思う。思ったがいまさらだ。遠海は出来る限りで「伝えた」。
三倉が好きだ。だから遠海は三倉の記事をこれからもずっと探しては読む。
三倉が結婚していても、いなくても、子どもがいても、いなくても、ずっと好きでいる。はじめて誰かに触れられた喜びも一緒くたに大好きだと思う。
この先遠海がひとりでも、誰かといる日が来ても、ずっと。
バックヤードで髪を拭っていると表から声がした。ああ紗羽だな、と思った。はっきりとよく通る声をしているから分かる。紗羽か。――え、紗羽? 驚いて声の方を向くと同時にバックヤードの扉が開いた。花束を抱え、「やだそんな頭で演奏なんかしないでよね」と遠海を見て言った。
「パンクバンドに転向したかと思ったわ」
「紗羽?」
「ご無沙汰で悪かったね。お祝いに来たの。これはお店に。遠海にはこっち」
紗羽はコートについた雫を払いながら傍まで来て、大きな花束とは別の包みを寄越した。中身を見るとオーストラリアのマーケットでよく見たパッケージのコーヒーとビスケットだった。懐かしさがこみ上げる。
準備中でばたばたしながら伊丹もやって来た。「オープンおめでとうございます」と紗羽は伊丹に花束をうやうやしく渡す。トーンを落としたシックな花束にはゴールドに近い枝葉がアクセントカラーに使われており、大人びた華やかさがあった。伊丹は「店にぴったりだ」と嬉しそうに笑い、スタッフに呼ばれて「ゆっくりしていって」と残してすぐさまいなくなった。
「外、雨がひどい?」と訊く。
「うん、だいぶ降って来た」紗羽は遠海の向かいに腰かける。
「ケントはまだ帰国しないの?」
「そうなの。絶賛別居中。でももうじき帰って来るよ。六月からまたこっちでアシストティーチはじめる予定でいるから、そしたらまたセッションしてやって」
「ベースがいないと困るなあ」と遠海は笑う。紗羽も微笑んだ。オーストラリアに行っているうちに紗羽は妊娠したのだ。現在はだいぶおなかも目立ってきた。うちは子どもは授かったらでいいと前々から言っていたので、ぽっと出来ても本人たちはさほど慌ててはいない。ケントの母親は大喜びしたという話だ。
「まあ、そういうタイミングもあるってことだよね。そのうち子どもも混ざってセッションが出来るかな? なんの楽器に興味持ってくれるかなあ。くれなくてもいいんだけど、音楽に近い子だといいな」
「近い子になるよ。環境がそうなんだから」
「遠海はなんの楽器希望?」
「ボーカルがいないから歌仕込んどいて」
「あー、そうね。ならケントに任せよ。――ここ、いいね。天井が高くて広くなった。鳴る音が楽しみ」
「今度は地下じゃなくて一階だから紗羽は楽器を運ぶのも困らない」
「それもそうだな。あ、と遠海、だから髪ぐっちゃぐちゃ」
先ほどから遠海は自身のヘアスタイルに格闘していた。降り出した雨に濡れて店に入ったので、先日散髪をしたとはいえ、うまくセットが出来ない。
「スタイリング剤ある? ああ、持ってるんじゃん」
「紗羽たちがいなくなってから買ったんだ。一応」
「貸して。櫛も。鏡持ってなさいね。――いい? 触るよ」
遠海の背後にまわった紗羽が、そっと遠海の髪に触れる。櫛で整えられる。遠海を怖がらせないように慎重に、やさしく動く手。やがて「こんなもんかな?」と手が離れた。鏡の中の自分は綺麗なオールバックになっている。
「……老けて見えない?」
「それぐらい説得力あった方がいいんじゃない? バーのピアノ弾きなんだから」
「まあいいか」
手にしていた鏡をテーブルに置く。紗羽が「なんか雰囲気変わったね」と言った。
「そりゃグランドオープンだからね。弾くピアノも違うし」
「違う。遠海が」
「僕? なぜ?」
「なんだろう、オールバックのせいだけじゃなくて。んー、なんていうのかなあ。前はもっとほら、あからさまに嫌な顔したじゃん」
「なにに?」
「私やケントと近いもんなら、ずりずりと距離を置いたり」
「ああ、」思い当たって頷いた。
「嫌悪感がないわけじゃないんだけど、前よりは少しましになった気がする。ほんの数ミリだけどパーソナルスペースが狭まったのかも」
「なにか心境の変化があった?」
「うーん。特に変わんないよ。未だに失恋は痛いし」
「あ、ほらそゆとこ」
紗羽はぴしっと指を立てた。
「前の遠海だったら痛いって呻くことすら人前じゃしなかったんだよ。吹っ切れた?」
指摘されて、そうかと顎に手を当てた。
「こういうのも『距離を許す』なのかな」
「認める、自覚する、って辺りかな。許容、とか」
「そか」
「まあいいけど。今夜は胎教にいい音楽頼みますよー」
紗羽はそう言って遠海に拝むような仕草を見せた。ふ、と笑ってしまう。
「今夜の出演は遠海だけ?」
「いや、アンジェが来て歌うよ。昼前に顔出してちょっと合わせた。いまは旦那さんとどっか出てる」
「あらアンジェも久々だな。楽しみ」
「紗羽に会いたがってたから挨拶するといいよ」
やがて伊丹も戻って来て、紗羽と三人で話をした。開店時間が近くなったので紗羽はスタッフに席を案内されてバックヤードを出た。さあさあ、と伊丹が膝を叩いて立ち上がる。
「では皆さん、今夜は、今夜から、またよろしくお願いします。開店しましょう」
そう言い、スタッフは皆嬉しそうに拍手をした。遠海も手を叩く。目が合った伊丹とほんのりと微笑みあう。
BGMでいいと思う遠海の音楽のスタイルは変わらない。
けれど今日も、今日からも、楽しい音楽の時間がはじまる。
「パンクバンドに転向したかと思ったわ」
「紗羽?」
「ご無沙汰で悪かったね。お祝いに来たの。これはお店に。遠海にはこっち」
紗羽はコートについた雫を払いながら傍まで来て、大きな花束とは別の包みを寄越した。中身を見るとオーストラリアのマーケットでよく見たパッケージのコーヒーとビスケットだった。懐かしさがこみ上げる。
準備中でばたばたしながら伊丹もやって来た。「オープンおめでとうございます」と紗羽は伊丹に花束をうやうやしく渡す。トーンを落としたシックな花束にはゴールドに近い枝葉がアクセントカラーに使われており、大人びた華やかさがあった。伊丹は「店にぴったりだ」と嬉しそうに笑い、スタッフに呼ばれて「ゆっくりしていって」と残してすぐさまいなくなった。
「外、雨がひどい?」と訊く。
「うん、だいぶ降って来た」紗羽は遠海の向かいに腰かける。
「ケントはまだ帰国しないの?」
「そうなの。絶賛別居中。でももうじき帰って来るよ。六月からまたこっちでアシストティーチはじめる予定でいるから、そしたらまたセッションしてやって」
「ベースがいないと困るなあ」と遠海は笑う。紗羽も微笑んだ。オーストラリアに行っているうちに紗羽は妊娠したのだ。現在はだいぶおなかも目立ってきた。うちは子どもは授かったらでいいと前々から言っていたので、ぽっと出来ても本人たちはさほど慌ててはいない。ケントの母親は大喜びしたという話だ。
「まあ、そういうタイミングもあるってことだよね。そのうち子どもも混ざってセッションが出来るかな? なんの楽器に興味持ってくれるかなあ。くれなくてもいいんだけど、音楽に近い子だといいな」
「近い子になるよ。環境がそうなんだから」
「遠海はなんの楽器希望?」
「ボーカルがいないから歌仕込んどいて」
「あー、そうね。ならケントに任せよ。――ここ、いいね。天井が高くて広くなった。鳴る音が楽しみ」
「今度は地下じゃなくて一階だから紗羽は楽器を運ぶのも困らない」
「それもそうだな。あ、と遠海、だから髪ぐっちゃぐちゃ」
先ほどから遠海は自身のヘアスタイルに格闘していた。降り出した雨に濡れて店に入ったので、先日散髪をしたとはいえ、うまくセットが出来ない。
「スタイリング剤ある? ああ、持ってるんじゃん」
「紗羽たちがいなくなってから買ったんだ。一応」
「貸して。櫛も。鏡持ってなさいね。――いい? 触るよ」
遠海の背後にまわった紗羽が、そっと遠海の髪に触れる。櫛で整えられる。遠海を怖がらせないように慎重に、やさしく動く手。やがて「こんなもんかな?」と手が離れた。鏡の中の自分は綺麗なオールバックになっている。
「……老けて見えない?」
「それぐらい説得力あった方がいいんじゃない? バーのピアノ弾きなんだから」
「まあいいか」
手にしていた鏡をテーブルに置く。紗羽が「なんか雰囲気変わったね」と言った。
「そりゃグランドオープンだからね。弾くピアノも違うし」
「違う。遠海が」
「僕? なぜ?」
「なんだろう、オールバックのせいだけじゃなくて。んー、なんていうのかなあ。前はもっとほら、あからさまに嫌な顔したじゃん」
「なにに?」
「私やケントと近いもんなら、ずりずりと距離を置いたり」
「ああ、」思い当たって頷いた。
「嫌悪感がないわけじゃないんだけど、前よりは少しましになった気がする。ほんの数ミリだけどパーソナルスペースが狭まったのかも」
「なにか心境の変化があった?」
「うーん。特に変わんないよ。未だに失恋は痛いし」
「あ、ほらそゆとこ」
紗羽はぴしっと指を立てた。
「前の遠海だったら痛いって呻くことすら人前じゃしなかったんだよ。吹っ切れた?」
指摘されて、そうかと顎に手を当てた。
「こういうのも『距離を許す』なのかな」
「認める、自覚する、って辺りかな。許容、とか」
「そか」
「まあいいけど。今夜は胎教にいい音楽頼みますよー」
紗羽はそう言って遠海に拝むような仕草を見せた。ふ、と笑ってしまう。
「今夜の出演は遠海だけ?」
「いや、アンジェが来て歌うよ。昼前に顔出してちょっと合わせた。いまは旦那さんとどっか出てる」
「あらアンジェも久々だな。楽しみ」
「紗羽に会いたがってたから挨拶するといいよ」
やがて伊丹も戻って来て、紗羽と三人で話をした。開店時間が近くなったので紗羽はスタッフに席を案内されてバックヤードを出た。さあさあ、と伊丹が膝を叩いて立ち上がる。
「では皆さん、今夜は、今夜から、またよろしくお願いします。開店しましょう」
そう言い、スタッフは皆嬉しそうに拍手をした。遠海も手を叩く。目が合った伊丹とほんのりと微笑みあう。
BGMでいいと思う遠海の音楽のスタイルは変わらない。
けれど今日も、今日からも、楽しい音楽の時間がはじまる。
「こんにちは伊丹さん。お待ちしてました。もーほんと困るんですよねー」
青年はくだけた口調で喋る。
「こんなに苦労してピアノ手に入れたのなんか久々。チューニングはやたら繊細だし、万全の品質まで面倒見られないですよ」
「大丈夫、彼が気に入ればオッケーだから」
そう言って伊丹は遠海を指した。遠海はどうしていいやら、ひとまず会釈をする。
「ああ、伊丹さんの息子みたいな秘蔵っ子さんですね。はじめまして、春原(すのはら)と申します」
「鴇田です。ここは、あの、」
「ピアノの修理工場です。先代が伊丹さんとよく取引をしていて、僕が継いでからも無茶な注文をたくさんいただいています」
はあ、と返事をする。職人らしき人間もひとりふたり見かけたが、工場の奥には洗濯物もぶら下がっている。住居兼工場という感じで、規模も大きくはなさそうだった。
「うちにあったピアノはね、ここの先々代が母に売ったんだよ」
「え、販売店から買ったんじゃないんですか?」
「いまは事業を修理に絞ってますが、当時は新品も扱ってたんですよ。ピアノに関することならなんでもやってました。そういう時代だったんですかね。伊丹さんのお母様に売ったピアノはちょっと珍しいものだったんですよ。世界的なメーカーのものではありますけど、台数がアジアにはあまり入ってこなくて」
「きみ、ヤマハとかカワイとか、純然たる日本製のピアノって実はよく知らないでしょ。あのピアノばっかり弾いてきたから」
そう言われ、そういえばそうかもしれないと思い、「はあ」と返事をした。
「ヤマハもカワイも世界的なピアノなんですけどねえ」と春原は苦笑した。
「そういう子なんだよ。変な教育しちゃったかな」
「まー、いいですけど。音は好みによっちゃいますから。話を戻すと、伊丹さんのところにあったピアノは大きな製造拠点が二か所なんです。ハンブルグとニューヨークですね。日本に入って来るのはハンブルグ製が多かったんで、ニューヨーク製は珍しかったんです。その珍しいニューヨーク製が伊丹さんのお宅に行ったんですよ」
「あのピアノってそうだったんですか」
「そうらしいよ」
「こっちです」
春原は奥へ奥へと進んでいき、最終的にひとつの部屋の前で立ち止まった。
「当時ニューヨークでそのピアノの製造に携わっていた技術者が独立して、よそで独自の工房を立ち上げました。ちいさな工房でしたけど、音のよさは評判がよかったです。その工房のピアノは日本にも数台ですが販路がありました。いまその工房は別の大きな工場に吸収されてしまったので実質はありません。今回はニューヨーク製と同じ技術者の製作のもの、もしくはその工房の製作のもの、という指定だったので販売元に出向いて探してもらうようお願いしてきました。……何十年も昔のピアノの技術者まで指定して入手してくれっていうオーダーはなかなか難しくてね。ようやく手に入りましたけど当然ながら製造は新しくありません。ですのでさっき申し上げたように音の質までは保証しません。さあ、どうぞ」
部屋は工房の一室で、中庭に面していた。北側の窓ガラスから外光が穏やかに室内を満たしている。幼いころはじめて伊丹の家で見たピアノの記憶がよみがえり、混ざった。あのときは鯨みたいに黒々と大きなものだと感じていたが、こうやって見ると思っているよりはちいさいと感じる。遠海が大きくなったのだ。
部屋の真ん中に置かれた黒いグランドピアノには、金色で社名が入っていた。いままで遠海が弾かせてもらっていたピアノとはロゴが違う。けれどそのフォルムを懐かしく思った。久しぶり、と挨拶をする。震える手でピアノの一鍵を押した。大好きなラの音。はじまりのA。
コーンと音が響く。身体じゅうの血が突沸して波になり、うねって遠海の身体を震わせる。たまらず椅子に腰かけ、高さの調節ももどかしくまた音を鳴らした。A。A。A。気持ちがいい。A。
あのピアノじゃない。あれとは違う。あのピアノはもっと気ままで、力強い音もあれば、か弱い抜け方をする音もあった。このピアノははっきりと硬質に繊細で、遠くまで伸びる。あのピアノに比べれば優等生じみていて、少し華やかさに欠ける。
けれど音の粒の重さが一緒だ。鳴らしたときのタッチの沈み、跳ねあがり。遠海の大好きな余韻の残し方。変にわざとらしくなく、すっきりと素直に鳴る。
指を滑らせ、別の音を叩いた。やさしく押す。弦が遠海に応えて震える。音は単音ではなく重音で、もはやリズムを奏でている。タッチの重さが懐かしい。遠海に応えてくれて嬉しい。
静かに遠海は音を鳴らす。重たい音でも力任せには鳴らさない。軽い音でも遠くまで伝わるように押す。これは遠海の喜びだ。またピアノを弾けて、出会えて嬉しいという喜び。人の営みに寄り添いたいと思う遠海の気持ちを体現してくれる音。やわらかに差し込む光の曲。
たった四分間、けれど伊丹と春原は壁にもたれてゆったりと聴いていた。最後の一音を落として余韻が消えると、ぱらぱらと拍手がした。後ろを振りかえる。春原は呆れ顔で、伊丹は満足そうな顔をしていた。
「久々に聴いた。遠海くんのドビュッシー」
「久々に弾きました。指がもつれた。……練習不足です。昔はあんなに弾いたのに格好わるいですね」
「いや、よかったよ。遠海くんの音だと思った。決まりだね」
そう言って伊丹は握手を求めて来た。触れることに抵抗を持っている遠海のことはよく知っている。それでも触れずにいられない興奮が彼を包んでいる。遠海も満足してそっと手を差し出す。
「これで大丈夫です。これをください」
「あんな音が鳴るならそりゃあね。ピアニストってのは怖いですね」
と春原は言った。呆れながらも笑っている。
「じゃあ配送は予定通りで大丈夫ですね。おれも同行しますので到着してからの微調整まで面倒見ます。配送と調整の料金はまあ、今日の名演と開店のご祝儀にサービスしましょう」
「それはありがたいねえ。ああ、あと頼んでたパーツ入った? スピーカーの」
「それならこっちですね。うちはピアノ修理工場なんでそれ以外の注文しないでくださいよ」
喋りながら伊丹と春原は部屋を出て行く。残された遠海は飽きずにまたピアノを弾きはじめた。こんにちは、はじめまして。どこか懐かしい気分がする。また会えたって思うよ。
心の中で語りかけながら、音と対話する。こうやっていつまでも過ごせてしまう。歓喜が胸の弦をかき鳴らしている。たくさん振幅して、遠くまで届く。
こういう喜びのときも、三倉を思い出すのはどうしてだろうか。三倉と分かちあいたいと思う。三倉ならきっと分かってくれる。目を細めて、あなたのピアノが好きだと笑ってくれる。
青年はくだけた口調で喋る。
「こんなに苦労してピアノ手に入れたのなんか久々。チューニングはやたら繊細だし、万全の品質まで面倒見られないですよ」
「大丈夫、彼が気に入ればオッケーだから」
そう言って伊丹は遠海を指した。遠海はどうしていいやら、ひとまず会釈をする。
「ああ、伊丹さんの息子みたいな秘蔵っ子さんですね。はじめまして、春原(すのはら)と申します」
「鴇田です。ここは、あの、」
「ピアノの修理工場です。先代が伊丹さんとよく取引をしていて、僕が継いでからも無茶な注文をたくさんいただいています」
はあ、と返事をする。職人らしき人間もひとりふたり見かけたが、工場の奥には洗濯物もぶら下がっている。住居兼工場という感じで、規模も大きくはなさそうだった。
「うちにあったピアノはね、ここの先々代が母に売ったんだよ」
「え、販売店から買ったんじゃないんですか?」
「いまは事業を修理に絞ってますが、当時は新品も扱ってたんですよ。ピアノに関することならなんでもやってました。そういう時代だったんですかね。伊丹さんのお母様に売ったピアノはちょっと珍しいものだったんですよ。世界的なメーカーのものではありますけど、台数がアジアにはあまり入ってこなくて」
「きみ、ヤマハとかカワイとか、純然たる日本製のピアノって実はよく知らないでしょ。あのピアノばっかり弾いてきたから」
そう言われ、そういえばそうかもしれないと思い、「はあ」と返事をした。
「ヤマハもカワイも世界的なピアノなんですけどねえ」と春原は苦笑した。
「そういう子なんだよ。変な教育しちゃったかな」
「まー、いいですけど。音は好みによっちゃいますから。話を戻すと、伊丹さんのところにあったピアノは大きな製造拠点が二か所なんです。ハンブルグとニューヨークですね。日本に入って来るのはハンブルグ製が多かったんで、ニューヨーク製は珍しかったんです。その珍しいニューヨーク製が伊丹さんのお宅に行ったんですよ」
「あのピアノってそうだったんですか」
「そうらしいよ」
「こっちです」
春原は奥へ奥へと進んでいき、最終的にひとつの部屋の前で立ち止まった。
「当時ニューヨークでそのピアノの製造に携わっていた技術者が独立して、よそで独自の工房を立ち上げました。ちいさな工房でしたけど、音のよさは評判がよかったです。その工房のピアノは日本にも数台ですが販路がありました。いまその工房は別の大きな工場に吸収されてしまったので実質はありません。今回はニューヨーク製と同じ技術者の製作のもの、もしくはその工房の製作のもの、という指定だったので販売元に出向いて探してもらうようお願いしてきました。……何十年も昔のピアノの技術者まで指定して入手してくれっていうオーダーはなかなか難しくてね。ようやく手に入りましたけど当然ながら製造は新しくありません。ですのでさっき申し上げたように音の質までは保証しません。さあ、どうぞ」
部屋は工房の一室で、中庭に面していた。北側の窓ガラスから外光が穏やかに室内を満たしている。幼いころはじめて伊丹の家で見たピアノの記憶がよみがえり、混ざった。あのときは鯨みたいに黒々と大きなものだと感じていたが、こうやって見ると思っているよりはちいさいと感じる。遠海が大きくなったのだ。
部屋の真ん中に置かれた黒いグランドピアノには、金色で社名が入っていた。いままで遠海が弾かせてもらっていたピアノとはロゴが違う。けれどそのフォルムを懐かしく思った。久しぶり、と挨拶をする。震える手でピアノの一鍵を押した。大好きなラの音。はじまりのA。
コーンと音が響く。身体じゅうの血が突沸して波になり、うねって遠海の身体を震わせる。たまらず椅子に腰かけ、高さの調節ももどかしくまた音を鳴らした。A。A。A。気持ちがいい。A。
あのピアノじゃない。あれとは違う。あのピアノはもっと気ままで、力強い音もあれば、か弱い抜け方をする音もあった。このピアノははっきりと硬質に繊細で、遠くまで伸びる。あのピアノに比べれば優等生じみていて、少し華やかさに欠ける。
けれど音の粒の重さが一緒だ。鳴らしたときのタッチの沈み、跳ねあがり。遠海の大好きな余韻の残し方。変にわざとらしくなく、すっきりと素直に鳴る。
指を滑らせ、別の音を叩いた。やさしく押す。弦が遠海に応えて震える。音は単音ではなく重音で、もはやリズムを奏でている。タッチの重さが懐かしい。遠海に応えてくれて嬉しい。
静かに遠海は音を鳴らす。重たい音でも力任せには鳴らさない。軽い音でも遠くまで伝わるように押す。これは遠海の喜びだ。またピアノを弾けて、出会えて嬉しいという喜び。人の営みに寄り添いたいと思う遠海の気持ちを体現してくれる音。やわらかに差し込む光の曲。
たった四分間、けれど伊丹と春原は壁にもたれてゆったりと聴いていた。最後の一音を落として余韻が消えると、ぱらぱらと拍手がした。後ろを振りかえる。春原は呆れ顔で、伊丹は満足そうな顔をしていた。
「久々に聴いた。遠海くんのドビュッシー」
「久々に弾きました。指がもつれた。……練習不足です。昔はあんなに弾いたのに格好わるいですね」
「いや、よかったよ。遠海くんの音だと思った。決まりだね」
そう言って伊丹は握手を求めて来た。触れることに抵抗を持っている遠海のことはよく知っている。それでも触れずにいられない興奮が彼を包んでいる。遠海も満足してそっと手を差し出す。
「これで大丈夫です。これをください」
「あんな音が鳴るならそりゃあね。ピアニストってのは怖いですね」
と春原は言った。呆れながらも笑っている。
「じゃあ配送は予定通りで大丈夫ですね。おれも同行しますので到着してからの微調整まで面倒見ます。配送と調整の料金はまあ、今日の名演と開店のご祝儀にサービスしましょう」
「それはありがたいねえ。ああ、あと頼んでたパーツ入った? スピーカーの」
「それならこっちですね。うちはピアノ修理工場なんでそれ以外の注文しないでくださいよ」
喋りながら伊丹と春原は部屋を出て行く。残された遠海は飽きずにまたピアノを弾きはじめた。こんにちは、はじめまして。どこか懐かしい気分がする。また会えたって思うよ。
心の中で語りかけながら、音と対話する。こうやっていつまでも過ごせてしまう。歓喜が胸の弦をかき鳴らしている。たくさん振幅して、遠くまで届く。
こういう喜びのときも、三倉を思い出すのはどうしてだろうか。三倉と分かちあいたいと思う。三倉ならきっと分かってくれる。目を細めて、あなたのピアノが好きだと笑ってくれる。
プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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