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「日瀧となに話してたんですか?」と訊かれ、暖はうすく笑った。笑うしかなかった。
「……なに、」
「知らないうちにあなたは熱心な信者を作ってたみたいだから、安心したのと妬けたのと半分ずつです」
「信者? 誰が?」
「日瀧くん」
「僕に?」
真剣に首を捻っている。
「しきりにあなたのことを心配していたし、憧れている風だった」
「憧れるほどのものは僕にはないんですけどね。いつも日瀧とセットで西川っていう新入社員がいて、そいつといるから余計に変な憧れを抱くみたいで」
「西川くん? さん?」
「男です。大卒入社なんで日瀧より年上なんですけど、気が合うようで休憩のときは大体一緒です。でもあれであいつらが信者かと言われると、そういうもんじゃないと思うんですけど」
「あなたに懐きたくなる気持ちはおれも分かるけどね」
食事の支度でキッチンに向かいつつ鴇田に答える。準備のあいだにゆっくり風呂にでも入ってくればいいと言ったのだが、手元を見ていたいと言って、鴇田はシャワーだけ浴びてさっさと出てきてしまった。
前妻と暮らしたマンションは食事にこだわりを持つ暖のことを考えてアイランド型のキッチンだった。ひとりとなったいまそんなこだわりはいらないと思って壁に据え付けのキッチンの部屋を選んでしまったが、鴇田がこんなに興味を持つならもう少しこだわってもよかったな、と後悔している。
暖の手元にあるスキレット・パンの中で、じゅわじゅわとダークブラウンのソースが煮詰まっていく。先ほどまでここで肉を焼いていた。肉汁をそのまま利用したソースは絶対に美味いと請け負える。肉に特製のソースをかけて、あとは仕込んでおいた野菜のたくさん入ったスープと合わせて出す。パンもライスも準備があるので、主食はお好みで。軽い食べ合わせでタコとサーモンのカルパッチョも冷やして準備している。
「冷蔵庫に酒があるんです。好きなの出して」
そう言うと鴇田は暖の傍から離れ、冷蔵庫を探る。
「あ、スパークリングがある。これいいですか?」
「いいですね。今日は昼間暑かったから冷やしておいて正解だったな。栓抜けますか?」
「やったことはないんですけど、店で伊丹さんやスタッフが抜いているところは見たことがあるので、やり方は知っています」
その言い分が面白かった。鴇田はスパークリングワインを取り出し、コルクを留めている針金を外す。暖が煮詰まったソースを肉に垂らしていると、背後で「ポン」と軽い音がした。
「あ、グラスありますか?」
「あります。買ったんですよ。そこの引き出し」
「買ったんですか?」
「うん。一脚だけね」
暖が示したキッチンの引き出しからグラスを取り出し、鴇田は「きれい」と呟く。
「スパークリングワインなら本当はフルートなんだろうけど、タンブラーでごめんね」
「いえ、きれいです。模様が細かくてきれい」
鴇田はしげしげとグラスを眺める。取材で訪れた骨董市で買い求めたもので、古いものだが値が張ったわけではなかった。よくあるタンブラーの形だが、底から上部三分の一までに模様の入る切り子で、骨董さながらの薄い琥珀色と、ガラスの薄さがいいなと思って買った。
「前に使ってたのはあらかた売ったり処分したりで、この家の食器ってひとり分しかなかったからさ。これを機にあなたと長く使えますようにっていう願掛けの気持ちで買ったんですよ。気に入ってもらえたなら嬉しい。さて、用意出来たよ」
スクエアのちいさなダイニングにこれだけの皿が並ぶのはこの部屋でははじめてのことだった。鴇田が向かいに腰かけ、切り子のタンブラーにアルコールを注ぐ。
「いただきます」
「どうぞ」
冷えた辛口のアルコールが胃に染みて美味かった。鴇田はスープを口にして、ほっと息をつく。「美味い」
「去年店で食べたスープの感じで作ってみたんです。あのころの鴇田さんって全然食事をしないイメージだったけど、いまは?」
「食ったり食わなかったりですかね。もともとそんなに規則正しく食べる方じゃなかったので。でもこれは食べます。美味しい」
「よかった」
暖は微笑み、自身もスープから食べはじめる。肉の焼き加減がちょうどよく、二重丸だなと思いながら食べる。つい苦笑してしまったのは、蒼生子との食事を思い出したからだった。
「……なに?」と向かいの鴇田が首を傾げる。
「いやあ……前の奥さんとの話になるから、せっかくの食事なのに気をわるくしたら申し訳ない」
「気にしないです。聞きたい」
「……おれがよく作ったのは、さっぱりした和食だったんですよ。ひじきの煮付けとか、五目ごはんとか、いんげんの白和えとかね。あんまりにも作りすぎてもうどっかの寺の坊主みたいに胡麻豆腐とか自分で作れるんじゃないかと思うぐらい。だから誰かとの食事でこんな風に肉焼いたの久しぶりだなあって思ったらつい表情に出てしまいました。ごめんね」
「……それは、蒼生子さんが和食が好きだったから、ですか?」
「どうかな? 彼女も好きだったのかは怪しいな。美味しいって食べてくれましたがね。……不妊治療してたんですね、おれたちは。彼女が読んでたハウツー本に、肉料理はなんとかっていう満腹を促すホルモンが分泌されてそれに満足しちゃって性欲が減退するからセックスの前は軽い食事程度に留めましょう、みたいなこと書いてあったんだ。それを信じてね。こういう、満腹になる食事っていう食事を作らなかった。精進料理みたいなさ……いま考えれば本当かよって疑う話です。肉食わないでどうやって力出すんだよって。ベジタリアンかって思うぐらいに食事制限してました。まあおかげで健康診断に引っかかったこともなかったんですけどね」
「……」
「小麦は身体を冷やすから良くないとか、五穀米のお粥がいいとか。突き詰めてもなんの根拠も得られない情報にばっかり左右されてたなって。こうすれば確実に子どもが出来ますっていうものはなかったから、余計に。そういう結果でいまがあって後悔しているわけじゃないけど、あの食事も苦しかったりはしたなって」
「……」
「ごめん、しょうもない話で冷めちゃうね。食べてください」
ボトルを取り、鴇田のグラスにアルコールを注いだ。けれど鴇田は黙ったまま手が動かない。
しばらくしてきちんと箸を置いて顔を上げた。男のまっすぐな眼差しが暖に向けられた。
「僕は、肉でも魚でもあなたが作ってくれたものなら喜んで食べます。この料理、どれも本当に美味しいし」
「……うん」
「それであなたが『こっちの方が身体にいいから今日は湯豆腐にしよう』って言っても、食べると思います。それが三日続いても、一週間続いても、あなたが信じて作るなら、食べる。……だから三倉さんもいままでそうだったんですよね。自分の大事な人が信じているから、ひじきや豆も煮る」
「……」
「そういう愛情を間違っているとは思わないです。大事な人との時間を過ごしたいがためだから。でもあんたは苦しかったんですから、やっぱりそれは感情の方向として間違っていなくても、間違いだよって、根拠ないじゃんって、声をあげるべきだったのかもしれません」
鴇田は再び箸を取る。肉に手を伸ばした。
「だから僕はあんたが僕を思って作ってくれる料理でも、違うって思ったらちゃんとそう言いたいと思います。病気のときに無理して唐揚げ食べなくてもいいけど、健康で唐揚げ食べたいのにお粥食べさせられたらやっぱり納得いかないし。いくら僕のためだよって言われても」
その例えは暖を苦笑させた。けれどよく分かる。散々苦しんできたから、その教訓があるなら鴇田との関係の中で生かすべきなんだろう。
「うん、あなたは正しい。鴇田さんはいいね。そういうところ、本当にいい」
鴇田は肉を頬張り、「美味しいです」と答えた。
「唐揚げ好きなの?」と訊ねてみる。
「嫌いな人なかなかいないんじゃないですか? ハイボールと合わせてやりたい」
「ああ、それは間違いない組み合わせですね。今度は揚げるよ。おれの唐揚げはしょうがとにんにくががっつりきくよ」
「人と会えなくなるやつですね。好きですよ。三倉さんの得意料理は、やっぱり肉?」
「いや、意外と中華が上手いんですよ。中華鍋でとろみをつけるのが上手らしくて」
「はは。それもやってください」
「あとはカレーも得意。前妻の前では薬膳カレーをよく作りました。旬の食材とスパイスをふんだんに使った、身体によさそうなやつですね。でも本当は市販ルー使った牛すじカレーとかいうこだわってんだかないんだかわけわかんない方が上手に作れる」
「牛すじなんか飲み屋でしか食べたことないです。家庭でできるもの?」
「いい鍋があると簡単に」
「道具って大事ですよね。うちは母方の祖父母の家に南部鉄器があって、それでお湯沸かすんです。不思議と白湯でも不満ないんですよね」
「分かるな。鋳物はいいよ。手入れが大変だけど、その手間もなんかいいんだよね」
「さっき肉焼いてたフライパン……って言わないのか、も、鋳鉄?」
「スキレットね。そう。安かったわりにものが良くて、あれは前の家で使ってたものだけどさらってきた。彼女の方は重たいから嫌だって言って、使ってなかったし」
「僕がひとり暮らしをはじめて母親に持たされたのはテフロン加工のフライパンだったんですけど、そのうち焦げてひっつくようになっちゃって。使いにくくて、嫌になって、おかげでほとんど料理をしない人間になってしまいました」
「ありがちな話だよね。テフロンはくっつかないって言っていいんだけど、加工が剥げちゃうとだめなんだ。結局のところステンレスだからね。ステンレスは熱伝導率が極端だからすぐ焦げる。でも加工してあればくっつかないし、安く出回ってるし、みんな使いますね」
「うちの母親は猛烈なテフロン信者でしたよ。だからってわけじゃないけど、料理はあんまり上手じゃなかった。ピアノは猛烈に弾けるくせに」
「お母さんはどんなピアノを弾いてたの?」
夜はとめどなく長い。
← 5
→ 7
「……なに、」
「知らないうちにあなたは熱心な信者を作ってたみたいだから、安心したのと妬けたのと半分ずつです」
「信者? 誰が?」
「日瀧くん」
「僕に?」
真剣に首を捻っている。
「しきりにあなたのことを心配していたし、憧れている風だった」
「憧れるほどのものは僕にはないんですけどね。いつも日瀧とセットで西川っていう新入社員がいて、そいつといるから余計に変な憧れを抱くみたいで」
「西川くん? さん?」
「男です。大卒入社なんで日瀧より年上なんですけど、気が合うようで休憩のときは大体一緒です。でもあれであいつらが信者かと言われると、そういうもんじゃないと思うんですけど」
「あなたに懐きたくなる気持ちはおれも分かるけどね」
食事の支度でキッチンに向かいつつ鴇田に答える。準備のあいだにゆっくり風呂にでも入ってくればいいと言ったのだが、手元を見ていたいと言って、鴇田はシャワーだけ浴びてさっさと出てきてしまった。
前妻と暮らしたマンションは食事にこだわりを持つ暖のことを考えてアイランド型のキッチンだった。ひとりとなったいまそんなこだわりはいらないと思って壁に据え付けのキッチンの部屋を選んでしまったが、鴇田がこんなに興味を持つならもう少しこだわってもよかったな、と後悔している。
暖の手元にあるスキレット・パンの中で、じゅわじゅわとダークブラウンのソースが煮詰まっていく。先ほどまでここで肉を焼いていた。肉汁をそのまま利用したソースは絶対に美味いと請け負える。肉に特製のソースをかけて、あとは仕込んでおいた野菜のたくさん入ったスープと合わせて出す。パンもライスも準備があるので、主食はお好みで。軽い食べ合わせでタコとサーモンのカルパッチョも冷やして準備している。
「冷蔵庫に酒があるんです。好きなの出して」
そう言うと鴇田は暖の傍から離れ、冷蔵庫を探る。
「あ、スパークリングがある。これいいですか?」
「いいですね。今日は昼間暑かったから冷やしておいて正解だったな。栓抜けますか?」
「やったことはないんですけど、店で伊丹さんやスタッフが抜いているところは見たことがあるので、やり方は知っています」
その言い分が面白かった。鴇田はスパークリングワインを取り出し、コルクを留めている針金を外す。暖が煮詰まったソースを肉に垂らしていると、背後で「ポン」と軽い音がした。
「あ、グラスありますか?」
「あります。買ったんですよ。そこの引き出し」
「買ったんですか?」
「うん。一脚だけね」
暖が示したキッチンの引き出しからグラスを取り出し、鴇田は「きれい」と呟く。
「スパークリングワインなら本当はフルートなんだろうけど、タンブラーでごめんね」
「いえ、きれいです。模様が細かくてきれい」
鴇田はしげしげとグラスを眺める。取材で訪れた骨董市で買い求めたもので、古いものだが値が張ったわけではなかった。よくあるタンブラーの形だが、底から上部三分の一までに模様の入る切り子で、骨董さながらの薄い琥珀色と、ガラスの薄さがいいなと思って買った。
「前に使ってたのはあらかた売ったり処分したりで、この家の食器ってひとり分しかなかったからさ。これを機にあなたと長く使えますようにっていう願掛けの気持ちで買ったんですよ。気に入ってもらえたなら嬉しい。さて、用意出来たよ」
スクエアのちいさなダイニングにこれだけの皿が並ぶのはこの部屋でははじめてのことだった。鴇田が向かいに腰かけ、切り子のタンブラーにアルコールを注ぐ。
「いただきます」
「どうぞ」
冷えた辛口のアルコールが胃に染みて美味かった。鴇田はスープを口にして、ほっと息をつく。「美味い」
「去年店で食べたスープの感じで作ってみたんです。あのころの鴇田さんって全然食事をしないイメージだったけど、いまは?」
「食ったり食わなかったりですかね。もともとそんなに規則正しく食べる方じゃなかったので。でもこれは食べます。美味しい」
「よかった」
暖は微笑み、自身もスープから食べはじめる。肉の焼き加減がちょうどよく、二重丸だなと思いながら食べる。つい苦笑してしまったのは、蒼生子との食事を思い出したからだった。
「……なに?」と向かいの鴇田が首を傾げる。
「いやあ……前の奥さんとの話になるから、せっかくの食事なのに気をわるくしたら申し訳ない」
「気にしないです。聞きたい」
「……おれがよく作ったのは、さっぱりした和食だったんですよ。ひじきの煮付けとか、五目ごはんとか、いんげんの白和えとかね。あんまりにも作りすぎてもうどっかの寺の坊主みたいに胡麻豆腐とか自分で作れるんじゃないかと思うぐらい。だから誰かとの食事でこんな風に肉焼いたの久しぶりだなあって思ったらつい表情に出てしまいました。ごめんね」
「……それは、蒼生子さんが和食が好きだったから、ですか?」
「どうかな? 彼女も好きだったのかは怪しいな。美味しいって食べてくれましたがね。……不妊治療してたんですね、おれたちは。彼女が読んでたハウツー本に、肉料理はなんとかっていう満腹を促すホルモンが分泌されてそれに満足しちゃって性欲が減退するからセックスの前は軽い食事程度に留めましょう、みたいなこと書いてあったんだ。それを信じてね。こういう、満腹になる食事っていう食事を作らなかった。精進料理みたいなさ……いま考えれば本当かよって疑う話です。肉食わないでどうやって力出すんだよって。ベジタリアンかって思うぐらいに食事制限してました。まあおかげで健康診断に引っかかったこともなかったんですけどね」
「……」
「小麦は身体を冷やすから良くないとか、五穀米のお粥がいいとか。突き詰めてもなんの根拠も得られない情報にばっかり左右されてたなって。こうすれば確実に子どもが出来ますっていうものはなかったから、余計に。そういう結果でいまがあって後悔しているわけじゃないけど、あの食事も苦しかったりはしたなって」
「……」
「ごめん、しょうもない話で冷めちゃうね。食べてください」
ボトルを取り、鴇田のグラスにアルコールを注いだ。けれど鴇田は黙ったまま手が動かない。
しばらくしてきちんと箸を置いて顔を上げた。男のまっすぐな眼差しが暖に向けられた。
「僕は、肉でも魚でもあなたが作ってくれたものなら喜んで食べます。この料理、どれも本当に美味しいし」
「……うん」
「それであなたが『こっちの方が身体にいいから今日は湯豆腐にしよう』って言っても、食べると思います。それが三日続いても、一週間続いても、あなたが信じて作るなら、食べる。……だから三倉さんもいままでそうだったんですよね。自分の大事な人が信じているから、ひじきや豆も煮る」
「……」
「そういう愛情を間違っているとは思わないです。大事な人との時間を過ごしたいがためだから。でもあんたは苦しかったんですから、やっぱりそれは感情の方向として間違っていなくても、間違いだよって、根拠ないじゃんって、声をあげるべきだったのかもしれません」
鴇田は再び箸を取る。肉に手を伸ばした。
「だから僕はあんたが僕を思って作ってくれる料理でも、違うって思ったらちゃんとそう言いたいと思います。病気のときに無理して唐揚げ食べなくてもいいけど、健康で唐揚げ食べたいのにお粥食べさせられたらやっぱり納得いかないし。いくら僕のためだよって言われても」
その例えは暖を苦笑させた。けれどよく分かる。散々苦しんできたから、その教訓があるなら鴇田との関係の中で生かすべきなんだろう。
「うん、あなたは正しい。鴇田さんはいいね。そういうところ、本当にいい」
鴇田は肉を頬張り、「美味しいです」と答えた。
「唐揚げ好きなの?」と訊ねてみる。
「嫌いな人なかなかいないんじゃないですか? ハイボールと合わせてやりたい」
「ああ、それは間違いない組み合わせですね。今度は揚げるよ。おれの唐揚げはしょうがとにんにくががっつりきくよ」
「人と会えなくなるやつですね。好きですよ。三倉さんの得意料理は、やっぱり肉?」
「いや、意外と中華が上手いんですよ。中華鍋でとろみをつけるのが上手らしくて」
「はは。それもやってください」
「あとはカレーも得意。前妻の前では薬膳カレーをよく作りました。旬の食材とスパイスをふんだんに使った、身体によさそうなやつですね。でも本当は市販ルー使った牛すじカレーとかいうこだわってんだかないんだかわけわかんない方が上手に作れる」
「牛すじなんか飲み屋でしか食べたことないです。家庭でできるもの?」
「いい鍋があると簡単に」
「道具って大事ですよね。うちは母方の祖父母の家に南部鉄器があって、それでお湯沸かすんです。不思議と白湯でも不満ないんですよね」
「分かるな。鋳物はいいよ。手入れが大変だけど、その手間もなんかいいんだよね」
「さっき肉焼いてたフライパン……って言わないのか、も、鋳鉄?」
「スキレットね。そう。安かったわりにものが良くて、あれは前の家で使ってたものだけどさらってきた。彼女の方は重たいから嫌だって言って、使ってなかったし」
「僕がひとり暮らしをはじめて母親に持たされたのはテフロン加工のフライパンだったんですけど、そのうち焦げてひっつくようになっちゃって。使いにくくて、嫌になって、おかげでほとんど料理をしない人間になってしまいました」
「ありがちな話だよね。テフロンはくっつかないって言っていいんだけど、加工が剥げちゃうとだめなんだ。結局のところステンレスだからね。ステンレスは熱伝導率が極端だからすぐ焦げる。でも加工してあればくっつかないし、安く出回ってるし、みんな使いますね」
「うちの母親は猛烈なテフロン信者でしたよ。だからってわけじゃないけど、料理はあんまり上手じゃなかった。ピアノは猛烈に弾けるくせに」
「お母さんはどんなピアノを弾いてたの?」
夜はとめどなく長い。
← 5
→ 7
PR
「そうですね。あなたが渡してくれなかったら、鴇田さんとこんなふうにまた飲んでるっていう夜はなかったと思います」
「なんか、すごいすね」
「そうかな?」苦笑してしまう。
「あの、それで……国交が回復したのは分かったんですけど、また頷いて笑ったりするわけですか?」
今度は意味がよく分からない。
「いやあ、……鴇田さんの気持ちをご存知なんでしょうから、そのー、それでも鴇田さんの気持ちに応えられない、けどこうやってふたりでいる、っていうのは、鴇田さんにとってもあなたにとってもどうなのかなー、と。ひょっとして繋げちゃいけない縁を繋ぐようなものを手渡してしまったのかなーと思っていて、」
「ああ、おれが結婚してる前提の話だね。いえ、おれはこの通り」左手を見せる。「離婚しまして」
「えっ?」
「だからという訳ではないんですけど、彼とはきちんとしたいと思うし、するための努力は惜しまないつもりです」
「……」
「なに頼みますか? 酒はまだ飲めないんでしたっけ。フードメニューもらいましょうか」
伊丹に頼んでメニューをもらった。だが日瀧はさして目も通さず速攻で「サーロインステーキにパンつけてください」とオーダーすると、椅子を回転させて暖に向き合った。
「――鴇田さんとお付き合いしてる、ってこと、っすか」
茶化す様子もなく、いたく真面目にそう訊かれた。誰かにそうと告げたことはなかったし、鴇田とも特に確認した訳ではなかった。だが言葉にしてみて決まる事柄もある。暖は頷いた。
「少なくとも彼はおれが好きで、おれも彼のことを大切に思っています。大事にしたい関係です」
「――」
日瀧は噛みしめるように顔をくしゃくしゃにして、「うわ」とまた最初と同じ苦悶を漏らした。心臓を押さえている。
「すげーです」と言った。「おれ全然コドモだ。すげーな。刺激が強くてなんか、震えます」
あまりにも真剣に悶えているので、暖は笑った。
「鴇田さんは、あなたに親しいんだね」
「あ、いや、おれがってか、おれたちが勝手になついているだけで、鴇田さんは迷惑に思っているかもしれません。でもおれがあの店に出入りしてたって話をしたら、再オープンでピアノを弾くからって声をかけてくれました。そういうところがまたなんていうか、いいんですよね。そうかあ。鴇田さん、そっかあ」
腕を組んでしきりに頷く。それから「大人ってすげえっすね」と言って前を向いた。
「鴇田さんって、自分のことを自分から進んでは話さない人じゃないですか」と言った。
「そうかもしれないですね」初対面で喋った時のことを思い出す。暖の質問に痞え戸惑いながらも真摯に答えてくれた、という印象だった。
「それと、人と距離を遠くに取りがちっていうか」
「ああ、そうだね」
「それが、おれが見ていた三倉さんと鴇田さんだと印象が違うんです。いっつもふたりで肩並べて、なに話してんだかとにかく近い距離で酒飲んだりめし食ったりしてた。ひとりの時は存在感消すぐらい分からないのに、三倉さんと一緒だとなんていうのか、えーと、存在が生々しくなるっていうか、人間に戻るっていうか」
「へえ」面白い表現が出たな、と思って相槌を打った。日瀧にもじっくりと話を聞いてみたら面白そうだという記者としての好奇心がくすぐられて、自身に苦笑する。
「三倉さんと一緒にいる鴇田さんは、この人は音楽の神様の使者とかそういう超越的な存在じゃなくて、眠りもするし、食べるし、きっときちんと欲求のある人間なんだなって思うんです。会社に入って鴇田さんがいたのは偶然でしたけど、仕事はこなしてもそれ以上の関わりはやっぱりない人だったので、どういう人だろうってずっと考えていて、……飲み会のときに好きな人がいてしんどいっていう話をぽろっと聞いて、そっかあって思ってました。この人このまんまじゃやっぱり人間から離れそうな雰囲気だったんで、どうにか人間に戻らないかなって。心配だったんです。だからなんていうのか、安心しました。またあなたと一緒で、それもうまくいってて」
「……あなたが一端を担ってくれたんですよ」
暖はもはやそう言うしかなかった。こんなに後輩から慕われていて、鴇田をひとりにしない人がいてくれてよかったと思う。ピアノをころころと鳴らし続けている男の方を見る。背を丸めて熱心に鍵盤に触れている男の振る舞いが愛おしい。音楽の神様の使者――でも暖といるときは人間。
いい表現を使うなあと思って隣を改めて見ると、オーダーがやって来て若者は肉にかぶりついていた。
暖はそれを微笑ましく思いながら音楽に耳を傾け、時折酒を飲む。目を閉じて音に浸り、鴇田を見たくて目を開ける。空腹を満たそうと食事に目一杯夢中になっていた若者は、ある程度腹がくちてふと顔を上げ、暖に「食わないんすか?」と訊いた。
「酒とオリーブだけで足ります? 腹」
「この後約束をしてるから、そんなにはいいんだ」
今夜の演奏が済んだら鴇田が暖の部屋に来ることになっている。はじめて暖が手料理を振る舞う日だ。部屋に戻ってすぐに食べられるよう、あらかたの仕込みはしてきた。
「約束?」日瀧は怪訝な顔をした。
「約束の中身までは申し上げません。ご想像でどうぞ」
そう答えると日瀧は察したか想像したか、落ち着かない様子を見せた。
「やっぱ大人っすね」と言う。なにか激しく勘違いをされているような気がしなくもないが、「そのうちあなたもね」と言うにとどめる。
「そーいえば鴇田さん明日の仕事休みだ」とグラスの水を飲み干して呟く。
「あー、そうか。いや、なんかまあ、大人っていいすね」
「日瀧くんに恋人はいないの?」
「いないです。いたこともないので、遅いんですかね、おれは」
「いや、こういうのは人それぞれです。あなたの場合はこれからなんです、きっと」
「欲しいと思ったこともないんですけど、なんかいま無性に恋をしてみたいです。出会いたいなあ」
「出会える出会える。まだこれから充分」
「説得力が違いますよね。とりあえず早く飲酒年齢に達したいです。それでこの店で飲んでみたい」
「いい目標だと思うよ」
「そのときは付きあってくださいよ。鴇田さんと」
「そのときはあなたのいい人と一緒がいいんじゃないかな」
やがてピアノが止まり、店内でぱらぱらと拍手が湧いた。
← 4
→ 6
「なんか、すごいすね」
「そうかな?」苦笑してしまう。
「あの、それで……国交が回復したのは分かったんですけど、また頷いて笑ったりするわけですか?」
今度は意味がよく分からない。
「いやあ、……鴇田さんの気持ちをご存知なんでしょうから、そのー、それでも鴇田さんの気持ちに応えられない、けどこうやってふたりでいる、っていうのは、鴇田さんにとってもあなたにとってもどうなのかなー、と。ひょっとして繋げちゃいけない縁を繋ぐようなものを手渡してしまったのかなーと思っていて、」
「ああ、おれが結婚してる前提の話だね。いえ、おれはこの通り」左手を見せる。「離婚しまして」
「えっ?」
「だからという訳ではないんですけど、彼とはきちんとしたいと思うし、するための努力は惜しまないつもりです」
「……」
「なに頼みますか? 酒はまだ飲めないんでしたっけ。フードメニューもらいましょうか」
伊丹に頼んでメニューをもらった。だが日瀧はさして目も通さず速攻で「サーロインステーキにパンつけてください」とオーダーすると、椅子を回転させて暖に向き合った。
「――鴇田さんとお付き合いしてる、ってこと、っすか」
茶化す様子もなく、いたく真面目にそう訊かれた。誰かにそうと告げたことはなかったし、鴇田とも特に確認した訳ではなかった。だが言葉にしてみて決まる事柄もある。暖は頷いた。
「少なくとも彼はおれが好きで、おれも彼のことを大切に思っています。大事にしたい関係です」
「――」
日瀧は噛みしめるように顔をくしゃくしゃにして、「うわ」とまた最初と同じ苦悶を漏らした。心臓を押さえている。
「すげーです」と言った。「おれ全然コドモだ。すげーな。刺激が強くてなんか、震えます」
あまりにも真剣に悶えているので、暖は笑った。
「鴇田さんは、あなたに親しいんだね」
「あ、いや、おれがってか、おれたちが勝手になついているだけで、鴇田さんは迷惑に思っているかもしれません。でもおれがあの店に出入りしてたって話をしたら、再オープンでピアノを弾くからって声をかけてくれました。そういうところがまたなんていうか、いいんですよね。そうかあ。鴇田さん、そっかあ」
腕を組んでしきりに頷く。それから「大人ってすげえっすね」と言って前を向いた。
「鴇田さんって、自分のことを自分から進んでは話さない人じゃないですか」と言った。
「そうかもしれないですね」初対面で喋った時のことを思い出す。暖の質問に痞え戸惑いながらも真摯に答えてくれた、という印象だった。
「それと、人と距離を遠くに取りがちっていうか」
「ああ、そうだね」
「それが、おれが見ていた三倉さんと鴇田さんだと印象が違うんです。いっつもふたりで肩並べて、なに話してんだかとにかく近い距離で酒飲んだりめし食ったりしてた。ひとりの時は存在感消すぐらい分からないのに、三倉さんと一緒だとなんていうのか、えーと、存在が生々しくなるっていうか、人間に戻るっていうか」
「へえ」面白い表現が出たな、と思って相槌を打った。日瀧にもじっくりと話を聞いてみたら面白そうだという記者としての好奇心がくすぐられて、自身に苦笑する。
「三倉さんと一緒にいる鴇田さんは、この人は音楽の神様の使者とかそういう超越的な存在じゃなくて、眠りもするし、食べるし、きっときちんと欲求のある人間なんだなって思うんです。会社に入って鴇田さんがいたのは偶然でしたけど、仕事はこなしてもそれ以上の関わりはやっぱりない人だったので、どういう人だろうってずっと考えていて、……飲み会のときに好きな人がいてしんどいっていう話をぽろっと聞いて、そっかあって思ってました。この人このまんまじゃやっぱり人間から離れそうな雰囲気だったんで、どうにか人間に戻らないかなって。心配だったんです。だからなんていうのか、安心しました。またあなたと一緒で、それもうまくいってて」
「……あなたが一端を担ってくれたんですよ」
暖はもはやそう言うしかなかった。こんなに後輩から慕われていて、鴇田をひとりにしない人がいてくれてよかったと思う。ピアノをころころと鳴らし続けている男の方を見る。背を丸めて熱心に鍵盤に触れている男の振る舞いが愛おしい。音楽の神様の使者――でも暖といるときは人間。
いい表現を使うなあと思って隣を改めて見ると、オーダーがやって来て若者は肉にかぶりついていた。
暖はそれを微笑ましく思いながら音楽に耳を傾け、時折酒を飲む。目を閉じて音に浸り、鴇田を見たくて目を開ける。空腹を満たそうと食事に目一杯夢中になっていた若者は、ある程度腹がくちてふと顔を上げ、暖に「食わないんすか?」と訊いた。
「酒とオリーブだけで足ります? 腹」
「この後約束をしてるから、そんなにはいいんだ」
今夜の演奏が済んだら鴇田が暖の部屋に来ることになっている。はじめて暖が手料理を振る舞う日だ。部屋に戻ってすぐに食べられるよう、あらかたの仕込みはしてきた。
「約束?」日瀧は怪訝な顔をした。
「約束の中身までは申し上げません。ご想像でどうぞ」
そう答えると日瀧は察したか想像したか、落ち着かない様子を見せた。
「やっぱ大人っすね」と言う。なにか激しく勘違いをされているような気がしなくもないが、「そのうちあなたもね」と言うにとどめる。
「そーいえば鴇田さん明日の仕事休みだ」とグラスの水を飲み干して呟く。
「あー、そうか。いや、なんかまあ、大人っていいすね」
「日瀧くんに恋人はいないの?」
「いないです。いたこともないので、遅いんですかね、おれは」
「いや、こういうのは人それぞれです。あなたの場合はこれからなんです、きっと」
「欲しいと思ったこともないんですけど、なんかいま無性に恋をしてみたいです。出会いたいなあ」
「出会える出会える。まだこれから充分」
「説得力が違いますよね。とりあえず早く飲酒年齢に達したいです。それでこの店で飲んでみたい」
「いい目標だと思うよ」
「そのときは付きあってくださいよ。鴇田さんと」
「そのときはあなたのいい人と一緒がいいんじゃないかな」
やがてピアノが止まり、店内でぱらぱらと拍手が湧いた。
← 4
→ 6
次に目を開けたとき、部屋は明るく眩しかった。朝日どころではない光がだいぶ高くのぼっている。昨夜の雨雲はすっかり流されてしまったようだ。
フローリングにじかに敷いた布団の上でしばらくぼんやりして頭を掻く。スマートフォンで時刻を確認すると、正午に近かった。
そのスマートフォンにメッセージが入っていた。ここにいない鴇田からだ。「仕事なので行きます」とある。鴇田の仕事は朝が早いことを知っている。昨夜あんな演奏をして、あれから暖の部屋へ連れ込んで、話をして、眠ったのは何時だっただろうか。ろくに寝ていないんじゃないかと思い、無理をして身体を動かしていそうな男の元へメッセージを送り返した。
『仕事が終わったら電話をください』
暖は伸びをして、シャワーを浴びる。今日が休日でよかった。鴇田は出かけて行ったが、若いから無理もきくのだろうかと思った。洗濯機をまわしながら遅い朝食兼昼食を取り、新聞やネットニュースをくまなくチェックして洗濯物を干し終えるころ、電話が鳴った。
「――終わりましたか?」と訊ねる。電話の向こうで男は「はい」と答えた。
『三倉さんは起きましたか』
「起きた起きた。あのさ、今夜。まあ今夜じゃなくてもいいんだけど、めし食いに来ません?」
『三倉さんのところに?』
「鴇田さんのとこに作りに行ってもいいけど」
『食いに出掛けるんじゃなくて?』
男の台詞に思わず笑みがこぼれた。そうだよなと納得してしまう。いままで暖と鴇田が過ごして来た日々は、そういう時間が多かった。
「おれが料理上手なの、知らないでしょう」
『……知らないですね』
「そういう話をさ、しないで昨夜は寝ちゃったことが惜しかった。全部話そうと思ったら夜が明けても足りないだろうから無理ない話なんですけどね。でも考えてみればいまゴールデンウィーク真っ最中なのに、連休の予定すら知らないなあって」
連休中はなにかとイベントが多いので、取材に出掛けることが増える。だから暖は通常通りだ。鴇田はどうなのだろうと訊ねると、やはり通常通りだと答えた。そりゃそうだ。遊んでいても働いていてもごみは出る。
『でも、祝日出勤扱いにはなるんです。特別手当がつきます。その分あとで休みも取れるし』
「そうなんだ。じゃあおれもそのころに合わせて休暇申請してみようかな」
『一緒に休みを取る?』どうして? という疑問が付加されている。
「どっか行ってもいいし、行かなくてもいいけど、一緒にいられるからですね」
そう言うと電話はしばらく沈黙した。ややあって絶句した男が慌てて息を吸う音が聞こえた。
『いや、なんか、その』
「どうしたの?」
『僕はいままで散々ひとりでいたので、……誰か特定の人と予定をすり合わせて一緒の時間を作るとか、お互いの部屋に行き来をするとかの、発想がなくて』
「ああ。鴇田さんに抵抗があるなら、外飲みぐらいからじわじわやりますか? 急いても仕方ないですしね」
『……じわじわ、の先になにがあるんですか?』
「わかんないけど、気持ちがよくて楽しいことだといいですよねえ」
電話の向こうはまた絶句していた。沈黙の中でどんな考えが巡っているんだろうなと想像するのは楽しかった。
『――再来週、またピアノを弾きに行くんです』と男は答えた。
『そのあとで、あなたの部屋に行きたい。――って、言っていいんですよね』
「ええ、もちろん」と暖は笑って答えた。
「店にはおれも行こうかな。仕事だろうから、片づき次第だけど」
『じゃあセットリストはとっておきにします』
「じゃあおれもその晩は腕によりをかけた料理にします」
『あ、でも再来週まで会えないって意味じゃないですよ』
「分かるよ」
暖は笑い、名残惜しみながら通話を切る。こういう感覚はひょっとしたら学生時代以来だろうか。鴇田の言うように、特定の誰かと予定をすり合わせて一緒にいる時間を作ること。その人とはまだ、当たり前に傍にいられる距離感ではなくて。
もちろんここに至るまでの経緯はある。全てがよかったわけではなかった。経験を積んだ分もっとうまくやれる部分もあるし、そうは行かないこともあるのも充分承知だ。
鴇田と足並みを揃えて歩こうとしているんだ、と思った。
フローリングにじかに敷いた布団の上でしばらくぼんやりして頭を掻く。スマートフォンで時刻を確認すると、正午に近かった。
そのスマートフォンにメッセージが入っていた。ここにいない鴇田からだ。「仕事なので行きます」とある。鴇田の仕事は朝が早いことを知っている。昨夜あんな演奏をして、あれから暖の部屋へ連れ込んで、話をして、眠ったのは何時だっただろうか。ろくに寝ていないんじゃないかと思い、無理をして身体を動かしていそうな男の元へメッセージを送り返した。
『仕事が終わったら電話をください』
暖は伸びをして、シャワーを浴びる。今日が休日でよかった。鴇田は出かけて行ったが、若いから無理もきくのだろうかと思った。洗濯機をまわしながら遅い朝食兼昼食を取り、新聞やネットニュースをくまなくチェックして洗濯物を干し終えるころ、電話が鳴った。
「――終わりましたか?」と訊ねる。電話の向こうで男は「はい」と答えた。
『三倉さんは起きましたか』
「起きた起きた。あのさ、今夜。まあ今夜じゃなくてもいいんだけど、めし食いに来ません?」
『三倉さんのところに?』
「鴇田さんのとこに作りに行ってもいいけど」
『食いに出掛けるんじゃなくて?』
男の台詞に思わず笑みがこぼれた。そうだよなと納得してしまう。いままで暖と鴇田が過ごして来た日々は、そういう時間が多かった。
「おれが料理上手なの、知らないでしょう」
『……知らないですね』
「そういう話をさ、しないで昨夜は寝ちゃったことが惜しかった。全部話そうと思ったら夜が明けても足りないだろうから無理ない話なんですけどね。でも考えてみればいまゴールデンウィーク真っ最中なのに、連休の予定すら知らないなあって」
連休中はなにかとイベントが多いので、取材に出掛けることが増える。だから暖は通常通りだ。鴇田はどうなのだろうと訊ねると、やはり通常通りだと答えた。そりゃそうだ。遊んでいても働いていてもごみは出る。
『でも、祝日出勤扱いにはなるんです。特別手当がつきます。その分あとで休みも取れるし』
「そうなんだ。じゃあおれもそのころに合わせて休暇申請してみようかな」
『一緒に休みを取る?』どうして? という疑問が付加されている。
「どっか行ってもいいし、行かなくてもいいけど、一緒にいられるからですね」
そう言うと電話はしばらく沈黙した。ややあって絶句した男が慌てて息を吸う音が聞こえた。
『いや、なんか、その』
「どうしたの?」
『僕はいままで散々ひとりでいたので、……誰か特定の人と予定をすり合わせて一緒の時間を作るとか、お互いの部屋に行き来をするとかの、発想がなくて』
「ああ。鴇田さんに抵抗があるなら、外飲みぐらいからじわじわやりますか? 急いても仕方ないですしね」
『……じわじわ、の先になにがあるんですか?』
「わかんないけど、気持ちがよくて楽しいことだといいですよねえ」
電話の向こうはまた絶句していた。沈黙の中でどんな考えが巡っているんだろうなと想像するのは楽しかった。
『――再来週、またピアノを弾きに行くんです』と男は答えた。
『そのあとで、あなたの部屋に行きたい。――って、言っていいんですよね』
「ええ、もちろん」と暖は笑って答えた。
「店にはおれも行こうかな。仕事だろうから、片づき次第だけど」
『じゃあセットリストはとっておきにします』
「じゃあおれもその晩は腕によりをかけた料理にします」
『あ、でも再来週まで会えないって意味じゃないですよ』
「分かるよ」
暖は笑い、名残惜しみながら通話を切る。こういう感覚はひょっとしたら学生時代以来だろうか。鴇田の言うように、特定の誰かと予定をすり合わせて一緒にいる時間を作ること。その人とはまだ、当たり前に傍にいられる距離感ではなくて。
もちろんここに至るまでの経緯はある。全てがよかったわけではなかった。経験を積んだ分もっとうまくやれる部分もあるし、そうは行かないこともあるのも充分承知だ。
鴇田と足並みを揃えて歩こうとしているんだ、と思った。
「うわ」と背後から声がした。鴇田とともにバーのカウンターで軽く飲んでいたさなかだったので、ふたり揃って後ろを振り返る。いつかの夜、暖が伝言を託した若者がなんともいえない顔で立っていた。あの晩ははっきりと見なかったからそうと思わなかったが、こうして改めて見ると、格好も、肌の感じも、若いなと思った。鴇田も暖からすれば充分に若いのだけど。もっと世慣れずいきがった雰囲気を感じる、とでも言うのか。青臭さ、とでも言うのか。
名前を思い出す前に、鴇田が「日瀧」と若者を呼んだ。声が普段よりやや低いことで若者を歓迎していないことが分かる。面倒くさそうだ。
「あ、すみません。お邪魔するつもりはないです。おれはあっちのテーブル行きますんで」
「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ。というか、自己紹介と先日のお礼をしないといけませんから、よければこちらどうぞ」
そう言って隣の席を勧めると、日瀧と呼ばれた若者は申し訳なさそうに「でも」と言う。ちらりと鴇田を窺ったが、彼はそれ以上なにもリアクションしなかった。ただジントニックを飲んでいる。
「ピアノ聴きに来たんですか?」と椅子を引いて訊ねる。戸惑いながらも日瀧は「そうです、ピアノ」とやはり鴇田を窺う。
「西川なんかに喋ったりしてないよね」と鴇田はカウンターの正面から目を離さないまま言った。
「言わないです。やつに知れたらおそろしいことですよ。誰にもここのことを喋ったりはしていません」
「ならいいよ。僕はそろそろ出番だから、よければ座ってなにか頼んで」
日瀧にはそう言い、暖にはちらりと目配せだけして鴇田は席を立った。カウンター内にいた伊丹が空になったタンブラーを下げ、さっとテーブルを拭いて席を準備してくれる。当惑しつつ日瀧は鴇田が座っていた席に腰を据えた。
「ご挨拶が遅くなってしまいました。三倉、と申します。新聞記者をしています」
「あ、日瀧です」日瀧はやけに硬い調子を崩さない。
「改めまして、先日はありがとうございました。鴇田さんに渡していただいて」
「はい、えーと……おれが渡したことで、こうなってる、んすか」
ピアノに再び向かい、音を鳴らしはじめた鴇田と暖を交互に見て言う。なにを言わんとするのか、はっきりと口にされずとも分かった。
← 3
→ 5
名前を思い出す前に、鴇田が「日瀧」と若者を呼んだ。声が普段よりやや低いことで若者を歓迎していないことが分かる。面倒くさそうだ。
「あ、すみません。お邪魔するつもりはないです。おれはあっちのテーブル行きますんで」
「ああ、そんな気を遣わなくて大丈夫ですよ。というか、自己紹介と先日のお礼をしないといけませんから、よければこちらどうぞ」
そう言って隣の席を勧めると、日瀧と呼ばれた若者は申し訳なさそうに「でも」と言う。ちらりと鴇田を窺ったが、彼はそれ以上なにもリアクションしなかった。ただジントニックを飲んでいる。
「ピアノ聴きに来たんですか?」と椅子を引いて訊ねる。戸惑いながらも日瀧は「そうです、ピアノ」とやはり鴇田を窺う。
「西川なんかに喋ったりしてないよね」と鴇田はカウンターの正面から目を離さないまま言った。
「言わないです。やつに知れたらおそろしいことですよ。誰にもここのことを喋ったりはしていません」
「ならいいよ。僕はそろそろ出番だから、よければ座ってなにか頼んで」
日瀧にはそう言い、暖にはちらりと目配せだけして鴇田は席を立った。カウンター内にいた伊丹が空になったタンブラーを下げ、さっとテーブルを拭いて席を準備してくれる。当惑しつつ日瀧は鴇田が座っていた席に腰を据えた。
「ご挨拶が遅くなってしまいました。三倉、と申します。新聞記者をしています」
「あ、日瀧です」日瀧はやけに硬い調子を崩さない。
「改めまして、先日はありがとうございました。鴇田さんに渡していただいて」
「はい、えーと……おれが渡したことで、こうなってる、んすか」
ピアノに再び向かい、音を鳴らしはじめた鴇田と暖を交互に見て言う。なにを言わんとするのか、はっきりと口にされずとも分かった。
← 3
→ 5
「ん?」
「この封筒の中身」
「ああ」先ほど若者に渡してもらった殴り書きの草稿だった。
「テナガザルとかいろんなメモが書いてありましたけど、僕にはよく意味が分からないんです。あなたがなにか……いろんな思考をして、いろんなことを考えているってことは分かります。そしてそれは僕に関することだってことも伝わりました。ただ……やっぱり僕には分からなくて、」
「そうですよね」
暖は息を吐く。
「取材でこの近くの動物園に行ったんです」
「はい」
「いろんな動物の中にテナガザルがいてね。解説文を読んで知ったんですけど、一夫一妻制の動物だとありました。基本的には家族で行動します。核家族です。雄がハーレムを作るような一夫多妻の群れにはならないそうで」
「はい」
「歌で群れを分けます。歌でテリトリーを守りあっている、と言うんでしょうか。歌う動物は他にもたくさんいますけどね。なんだかあなたがピアノを弾いている姿を、というか、あなたはずっとひとつの音を飽きずに鳴らし続けているときがあって、あれを連想したんです」
「……僕は縄張りを主張したくて鳴らしている訳ではないです。あの音が好きなだけで、」
「分かりますよ。そういうことじゃないんですけど……気になって、なんとなく調べてみたんです。図書館とか会社のデータベース使って。そしたら仮説を立てている作家に行き着きました。その作家は発達障害があって、電車にも乗れないぐらい怖がりで臆病で敏感。でも奥さんと子どもがいます。ある一定のテリトリーから出られず、けれどテリトリーの中で核家族を築く。僕はチンパンジーの類人ではなくてテナガザルから進化した、とありました」
その本を読んだとき、鴇田もそうではないかと思った。
「生涯ただひとりに出会うためにあなたは誰にも触れられなかったんじゃないかと。別にあなたが発達障害である、と言いたいわけではないです。むしろ触れられない点を除けば、あなたはきちんと社会生活を営める自立した大人ですから。ただ、全く誰にも触れられないわけではなかったことはおれが証明しました。たったひとりのためにいままで触れて来られなかったのだとすれば、それはどれだけの愛情を持ち得る人なのだろうか、と」
「……」
「というようなことをコラムに書こうかと思考をはじめたのはいいんですけど、つまり結局のところ、どれだけあなたがおれに距離を許せたことがすごいことだったかを自らで立証するような結論になってしまって。つまり、どれだけあなたはおれが好きだったかっていう、その、……」
暖は言い詰まる。本人を目の前に話すとなんとも音声にし辛い。
「通常では考えられないようなとてつもない愛情をもって好かれたかみたいなことを……書くことになるなって。こんなのコラムになんか出来るわけないと、」
「それで大きく『ボツ』って」
「……おれなりにあなたのことを考えた結果なんですけどね。載せられないし、照れ臭くて文章にすらしていません」
終わりです、と宣言する。ローテーブルの上に載ったコーヒーを口にしようとすると、鴇田の指がそっと伸びた。
「……僕の気持ちは、伝わりましたか?」と、真摯な瞳で訊かれた。
「……伝わりました。ものすごく、」
「思い知りましたか」
「骨身までどっぷりと染みこみました」
言いながら鴇田の指はまだ戸惑っている。それでも暖に触れようとする。伸びた指は暖の左手を確かめ、するりと薬指を撫でた。なにも嵌まらなくなった指はいま、なんの引っかかりもない。鴇田が目を細めた。
「……またあなたに、好きだって言っていいんですよね」
「……まだ好きでいてくれてるんなら」
「好きです。それでもう、……誰にも言い訳や嘘をつかずに、内緒にせず、傷つけずに、あなたに触れていいんですよね」
「……うん」
鴇田の手を取って指を絡ませる。そのまま自分の頬に当てると、心地よさに身体が湧いた。
鴇田のために離婚したわけではなかった。夫婦としてすれ違い、道を分けたから縁を解いたのだ。けれどこうして鴇田のことだけに向き合っていられる時間が出来たから、よかったのだと思う。妻に対しても鴇田に対して誠実になりたいと思っていた。いままでたくさんの喜びを与えられた分、返したいと思っていた。
「好きなだけ言って、好きなだけ触っていいんです。あなたが平気なら」
そう言うと、頬に当てていた手で下から舐めるように撫でられてくすぐったさに笑いが洩れた。
「おれも好きな時に言いますし、あなたが大丈夫なら触ります」
「三倉さんが?」
「え?」
「僕を好きだって言ってくれるんですか?」
鴇田が目をまるくした。暖は口元を緩める。
「おれの気持ちは伝わっていると思ったんだけど」
「『情』のことですか? それはやっぱり僕にはうまく理解しがたいんですけど、……ああそういえばそれは僕に対して誠実に受け止めたからだよって田代さんに言われました。その人なりの価値観で大切で、情ってのは慕う気持ちで心が動くことだって、……あれ? 言ったの田代さんじゃなかったかな? でもなんか、田代さん含めその辺りの人に」
「え?」驚いて身体をのけぞらせる。頬から手が離れた。「田代?」
「あ、いえ、あなたの名前は出してません。ただ僕が、パートナーのいる人を好きになってしまったという告白をしてしまったから、」
「意外だな……」そういうことを上司らにすらりと言うタイプには思えなかった。
「なんていうのか、飲みの席でほろっと」
「あなたが酔うまで飲むところは見たことがないけど」
いつどれだけ飲んでもけろっとしていて、平常のままピアノを弾いていた。
「飲んでないんです」と言われる。
「え? 素面で?」
「だからとにかく……あんたのことになると僕はおかしくて……僕じゃなくなる感覚が嫌だったんですけど、」
鴇田は自身の髪をくしゃくしゃに掻く。せっかく上げた前髪は、中途半端に収まりどころを失ってしまった。
その髪に触れる。撫で、漉くように髪を引っ張ると、鴇田は猫のように目を細めた。
「……いまでも嫌だと思う?」
「出来ればあなたを好きな自分のことも好きになりたい」
その意思は暖に好意的に映る。鴇田が自分を責めてばかりいたら嫌だったと思う。苦しみながらも自分を肯定しているところが、この人の強いところだ。
そこに至るまでにはどんな苦しみがあっただろうか。どれだけ悩み、自問して、そのたびに答えを出してきたのだろう。その工程のことを考えると暖は嬉しさと同時に淋しさも思う。ひとりでそんな境地になんか行ってほしくなかった。それは触れられない人生を歩んできた鴇田なりの処世術なのだと思うと、ますます淋しい。
「じゃあ」と気を取り直して鴇田の頬に触れる。
「おれはとにかくあなたをたくさん肯定して、限度額いっぱいまで触ることにします。本当はね、離婚してもうしばらく恋愛とかどーでもいいやって思ってた。あなたとは音信不通になってしまっていたし。けれど手紙をもらって、演奏を見て、あなたを大事に思う気持ちでいっぱいになった。田代のいう『心が動く』です。鴇田さんには最初からそうだった。だから自分も含めてあなたを大事にします」
そう告げると鴇田はうっすらと目を細めた。
「気持ちのいい関係になりたいと思います」
「テナガザルみたいな?」
「うん。まあ、おれは歌えない上に、何度目かで申し訳ないんだけど」
「いいです。僕はそういう過程を踏んできたあなたが好きです」
鴇田は笑った。裏表のない素直な言葉が嬉しかった。嬉しい、と口に出来ることすら嬉しかった。
「この封筒の中身」
「ああ」先ほど若者に渡してもらった殴り書きの草稿だった。
「テナガザルとかいろんなメモが書いてありましたけど、僕にはよく意味が分からないんです。あなたがなにか……いろんな思考をして、いろんなことを考えているってことは分かります。そしてそれは僕に関することだってことも伝わりました。ただ……やっぱり僕には分からなくて、」
「そうですよね」
暖は息を吐く。
「取材でこの近くの動物園に行ったんです」
「はい」
「いろんな動物の中にテナガザルがいてね。解説文を読んで知ったんですけど、一夫一妻制の動物だとありました。基本的には家族で行動します。核家族です。雄がハーレムを作るような一夫多妻の群れにはならないそうで」
「はい」
「歌で群れを分けます。歌でテリトリーを守りあっている、と言うんでしょうか。歌う動物は他にもたくさんいますけどね。なんだかあなたがピアノを弾いている姿を、というか、あなたはずっとひとつの音を飽きずに鳴らし続けているときがあって、あれを連想したんです」
「……僕は縄張りを主張したくて鳴らしている訳ではないです。あの音が好きなだけで、」
「分かりますよ。そういうことじゃないんですけど……気になって、なんとなく調べてみたんです。図書館とか会社のデータベース使って。そしたら仮説を立てている作家に行き着きました。その作家は発達障害があって、電車にも乗れないぐらい怖がりで臆病で敏感。でも奥さんと子どもがいます。ある一定のテリトリーから出られず、けれどテリトリーの中で核家族を築く。僕はチンパンジーの類人ではなくてテナガザルから進化した、とありました」
その本を読んだとき、鴇田もそうではないかと思った。
「生涯ただひとりに出会うためにあなたは誰にも触れられなかったんじゃないかと。別にあなたが発達障害である、と言いたいわけではないです。むしろ触れられない点を除けば、あなたはきちんと社会生活を営める自立した大人ですから。ただ、全く誰にも触れられないわけではなかったことはおれが証明しました。たったひとりのためにいままで触れて来られなかったのだとすれば、それはどれだけの愛情を持ち得る人なのだろうか、と」
「……」
「というようなことをコラムに書こうかと思考をはじめたのはいいんですけど、つまり結局のところ、どれだけあなたがおれに距離を許せたことがすごいことだったかを自らで立証するような結論になってしまって。つまり、どれだけあなたはおれが好きだったかっていう、その、……」
暖は言い詰まる。本人を目の前に話すとなんとも音声にし辛い。
「通常では考えられないようなとてつもない愛情をもって好かれたかみたいなことを……書くことになるなって。こんなのコラムになんか出来るわけないと、」
「それで大きく『ボツ』って」
「……おれなりにあなたのことを考えた結果なんですけどね。載せられないし、照れ臭くて文章にすらしていません」
終わりです、と宣言する。ローテーブルの上に載ったコーヒーを口にしようとすると、鴇田の指がそっと伸びた。
「……僕の気持ちは、伝わりましたか?」と、真摯な瞳で訊かれた。
「……伝わりました。ものすごく、」
「思い知りましたか」
「骨身までどっぷりと染みこみました」
言いながら鴇田の指はまだ戸惑っている。それでも暖に触れようとする。伸びた指は暖の左手を確かめ、するりと薬指を撫でた。なにも嵌まらなくなった指はいま、なんの引っかかりもない。鴇田が目を細めた。
「……またあなたに、好きだって言っていいんですよね」
「……まだ好きでいてくれてるんなら」
「好きです。それでもう、……誰にも言い訳や嘘をつかずに、内緒にせず、傷つけずに、あなたに触れていいんですよね」
「……うん」
鴇田の手を取って指を絡ませる。そのまま自分の頬に当てると、心地よさに身体が湧いた。
鴇田のために離婚したわけではなかった。夫婦としてすれ違い、道を分けたから縁を解いたのだ。けれどこうして鴇田のことだけに向き合っていられる時間が出来たから、よかったのだと思う。妻に対しても鴇田に対して誠実になりたいと思っていた。いままでたくさんの喜びを与えられた分、返したいと思っていた。
「好きなだけ言って、好きなだけ触っていいんです。あなたが平気なら」
そう言うと、頬に当てていた手で下から舐めるように撫でられてくすぐったさに笑いが洩れた。
「おれも好きな時に言いますし、あなたが大丈夫なら触ります」
「三倉さんが?」
「え?」
「僕を好きだって言ってくれるんですか?」
鴇田が目をまるくした。暖は口元を緩める。
「おれの気持ちは伝わっていると思ったんだけど」
「『情』のことですか? それはやっぱり僕にはうまく理解しがたいんですけど、……ああそういえばそれは僕に対して誠実に受け止めたからだよって田代さんに言われました。その人なりの価値観で大切で、情ってのは慕う気持ちで心が動くことだって、……あれ? 言ったの田代さんじゃなかったかな? でもなんか、田代さん含めその辺りの人に」
「え?」驚いて身体をのけぞらせる。頬から手が離れた。「田代?」
「あ、いえ、あなたの名前は出してません。ただ僕が、パートナーのいる人を好きになってしまったという告白をしてしまったから、」
「意外だな……」そういうことを上司らにすらりと言うタイプには思えなかった。
「なんていうのか、飲みの席でほろっと」
「あなたが酔うまで飲むところは見たことがないけど」
いつどれだけ飲んでもけろっとしていて、平常のままピアノを弾いていた。
「飲んでないんです」と言われる。
「え? 素面で?」
「だからとにかく……あんたのことになると僕はおかしくて……僕じゃなくなる感覚が嫌だったんですけど、」
鴇田は自身の髪をくしゃくしゃに掻く。せっかく上げた前髪は、中途半端に収まりどころを失ってしまった。
その髪に触れる。撫で、漉くように髪を引っ張ると、鴇田は猫のように目を細めた。
「……いまでも嫌だと思う?」
「出来ればあなたを好きな自分のことも好きになりたい」
その意思は暖に好意的に映る。鴇田が自分を責めてばかりいたら嫌だったと思う。苦しみながらも自分を肯定しているところが、この人の強いところだ。
そこに至るまでにはどんな苦しみがあっただろうか。どれだけ悩み、自問して、そのたびに答えを出してきたのだろう。その工程のことを考えると暖は嬉しさと同時に淋しさも思う。ひとりでそんな境地になんか行ってほしくなかった。それは触れられない人生を歩んできた鴇田なりの処世術なのだと思うと、ますます淋しい。
「じゃあ」と気を取り直して鴇田の頬に触れる。
「おれはとにかくあなたをたくさん肯定して、限度額いっぱいまで触ることにします。本当はね、離婚してもうしばらく恋愛とかどーでもいいやって思ってた。あなたとは音信不通になってしまっていたし。けれど手紙をもらって、演奏を見て、あなたを大事に思う気持ちでいっぱいになった。田代のいう『心が動く』です。鴇田さんには最初からそうだった。だから自分も含めてあなたを大事にします」
そう告げると鴇田はうっすらと目を細めた。
「気持ちのいい関係になりたいと思います」
「テナガザルみたいな?」
「うん。まあ、おれは歌えない上に、何度目かで申し訳ないんだけど」
「いいです。僕はそういう過程を踏んできたあなたが好きです」
鴇田は笑った。裏表のない素直な言葉が嬉しかった。嬉しい、と口に出来ることすら嬉しかった。
「――そういうわけで、離婚したのは本当に最近なんです」
長い話を、鴇田は黙って聞いてくれた。暖が新しく借りた部屋で、鴇田はステージ衣装の黒ずくめでいたし、暖も昼間に着ていた服をまだ着ていた。暖の淹れたコーヒーはお互いろくに手がつけられず、冷め切っている。それでもアルコールを出さなかったのは、酔いに紛らわせて話したくなかったからだ。
急ごしらえで借りた部屋で家具の類は統一されていなかった。やたらと大きくて立派なカウチはあるのに、ベッドはない。洗濯機は最新型でも冷蔵庫は型の古い中古品だったりする。パソコンはあるが、電子レンジとテレビはない。
しばらくして鴇田は頷き、「離婚されたとは思っていませんでした」と言った。
「というか、子どもが出来たかもしれないと思っていたし」
「事実がないから出来ようがないですよ。どうしてそう思ったの?」
「前に書いてたコラム読んでそう思いました」
鴇田が語ったのは、宇宙の果ては何色であるか? の疑問ではじまった、時間軸としては秋に書いたコラムだった。
「あー、あれはそう取れるのか。おれとしては、存在したことっていうのはなかったことにはならないってことが言いたくて。いつか経験を忘れる日が来ても、それはあったことなんだっていう」
「でも生命云々と書いていたから。子どもが出来てそう思ったのかな、と」
「まあ、不妊治療をずっとしていたからね。『ある』ことにならない場合はどういうことだろうってのも考えた。考えている、だな。まだ答えが見つからない。……あれ、あのコラム。かなりいろんな反応があったのは知ってるんです。難しすぎるだろうとか、意味が分かりにくいとか、社内でも掲載するかどうかすごく議論になったし」
「……」
「でも掲載を強く推してくれた人が何人もいて、結果的に載りました。掲載してもらえてよかったと思ってますよ」
カウチに沈んで、鴇田は膝を抱えて暖を見た。黙って黒い目をこちらに向けている。ようやく会えた人は突然の展開に戸惑っているようだった。静かな分だけ、彼の困惑が突き刺さる。
困惑したまま、鴇田の方から「離婚って」と切り出された。
「簡単に出来るものですか?」
「んー」返答を考える。反射で答えるような、生半可な言葉では伝えられない。
「大学時代から十四・五年連れ添った仲だというのは田代さんから聞きました。そんなに長いあいだ傍にいた人と、そんなに簡単に離れられるものですか?」
「簡単ではないです。それは、……もちろん」
暖は目を閉じた。これまでの日々を思い返す。
「彼女に対する愛情はあるし、だからこそあの人が抱いていた理想像を叶えたかったという後悔もあります。未だに考えてしまう。けれどそれを追い求めて結果的におれは苦しくなってしまった。彼女自身も苦しかった。だから長いこと連れ添った仲でも、離れるべき縁もあるんだと思う。なんていうかな、時期とでもいうのかな」
「時期?」
「潮時。彼女との時間はおしまい、という意味です。ひとりの人と一生を添い遂げられる人ばかりではないのは世間が証明している。理想はやっぱり一生ひとりの傍にいたいけれど、現実的ではなかった。無理をしてでも彼女といる道もあったけれど、やっぱりそれは、無理をする道だったから」
「……」
鴇田はますます身体を固くし、うつむく。それでも時折、確認するかのように顔を上げ、暖を見て、また顔を隠した。
離婚しても鴇田と会うかどうかは別の話だった。もうそんなに恋だの愛だのに身を置かなくてもいいような気さえしていた。それだけ重たい荷物をおろした気分だったのだ。指輪を外して心から息をついた自分がいた。
鴇田に会いたくないわけではなく、むしろどうしているかを焦げ付くほど考えてはいたが、いままで散々連絡を取りあっていた連絡先はことごとく不通になっている事実を考えると、ためらった。鴇田はもうそういう覚悟でいるのだと思った。だから離婚しましたと言って不用意に会いに行けるわけもない。会社もアパートも知ってはいたけれど、そうまでして会いに行っても本人に望まぬ再会である可能性が高かった。
離婚して数日経ったころに、会社に封書が届いた。「ご意見をお寄せください」のコーナーへの投書だったらしい。開封した内勤社員が「これは三倉さん宛てのファンレターですね」と言って封書を渡してくれた。きっちりした字で書かれたそっけない文章に、それでも暖の心は動いた。この人に伝え続けたいと思った。伝わってほしいという強い気持ちは信心に近かった。
ほぼ同時に店の再オープンを知り、行くべきだと直感した。会えなくてもいいし話さなくてもいいから、鴇田の姿を見たいと思ったのだ。ピアノを聴きたい。否、鴇田がピアノを弾いている姿をひと目見たい。鴇田がピアノを弾くとは限らなかったので、そのときは伝言を頼むことも考え、考えた末に封筒にコラムの原案を入れて店に向かった。向かいながらずっと迷っていた。だが足は進む。
雨天の屋外と違って店内はずいぶんと盛況で、かろうじて見つけた席にようやく座った。
会いたかった人は店のステージで一心にピアノを鳴らしていた。こちらを一度見たけれど気づいてはいないようで、すぐにピアノに没頭してしまう。ボーカリストと目配せをして、音に音を重ねて音楽を奏でていた。あんなに背を丸めて、あんなに縋るように。けれど前と違うと思ったのは、音に喜びを感じる点だった。BGMでいいと言っていた彼のスタイルは変わらないだろう。けれどしがみつくように必死であるのにどこか投げやりにも聴こえていた音は、ピアノと遊ぶ喜びにあふれていた。
もっと言うなら、情熱がほとばしっていた。あの場で演奏を聴いていた人たちは皆、焦燥に駆られたのではないかと思う。恋しくてたまらなくなる音。とても近しい相手に触れたくなる音。そのようにして店を出て行くカップルを何組も見た。近くにラブホテルがあったら繁盛してしまうと思ったぐらい、鴇田たちの音楽はなまめかしく、親密に秘めいて、すっきりと純粋な愛情を掻き立てた。
たまらず名刺を取り出し、ペンで連絡先とメッセージを記す。それでもまだ、渡すかどうかに迷いがあった。店の前で待ち伏せするにも勇気が足りない。雨でくじけかかる。鴇田の音が鳴りやみ、割れる拍手で興奮する店の中から無理に出た。膝から震えが来るほど音に圧倒され、指先に痺れが残っていた。
声をかけてきたのは少年ともとれるような年齢の男だった。鴇田の会社の後輩だと名乗る。彼も興奮していたが、「前にあなたと鴇田さんが一緒にいるところを何度も見ています」と真っ直ぐに伝えられ、暖はこの若者に託してみる気になった。
彼は鴇田と暖との交流を見ていた。ふたりだけの記憶だと思っていた夢みたいにおぼろげな日々に、客観的な目が加えられる。どう映っていたかは分からない。けれどやはり自分の主張は正しいのだの立証された。
あったことは、なかったことにはならない。鴇田と過ごしたたくさんの時間も、その中に触れあった夜が存在したことも。
「あなたに託します」と封筒を渡した。若者は戸惑う表情を見せる。
「鴇田さんに渡してください。あなたのタイミングで構いません。でもどうか、渡してください」
「渡せばいいんですか」
「渡せばきっと伝わるから」
それだけ言って店に背を向けて歩き出した。あとは神頼みだな、と思った。神様だけがこのあとの展開を知っている。運を傾けてくれれば鴇田にはつながるだろう。つながらなかったらそれまで。妻との時間が終わったように、鴇田との時間も終わったのだ。
そして神様は即座に鴇田を結びつけてくれた。電話がかかって来たとき、自分の幸運が信じられなくてやっぱり迷った。知らないナンバーだったが鴇田だと分かり、応答に時間を要した。勇気を出してボタンを押し、声を聞いて震えた。その結果こうして鴇田が暖のアパートにいる。こんなに早く展開するとは暖も想像しなかった。だから鴇田の動揺はその通りだなと思う。
「あの子」と言うと、鴇田は僅かに顔を上げた。
「あなたの後輩だと言ってた子。去年取材に行ったときには見かけなかった。もっとも、見かけなかった人の方が多いんだろうけど」
「ああ……日瀧って言います。今年度の新入社員ですよ」
「まだ若いですよね」
「高卒採用です。いちばん若い」
「高卒採用なら、あなたと同じか」
境遇が同じなら話もしやすいかもしれないな、と思った。親しい雰囲気があった。鴇田はいままで変えなかった表情をようやく緩めた。
「去年までまだ高校生なのにあの店行ってたらしいです。校則で禁止されてたのにって言ってました。音楽と酒をたしなむ大人に憧れがあるみたいで」
「ああ、ありますね。大人になればどうして? って思うようなことに無性に掻き立てられて感化される時期が」
それだけ店や鴇田の存在を羨んでいたのではないか。健全な青少年とは言わないが、そんな彼にさっきまでの演奏と周囲の様子はどう映っただろう。酷ではなかったかな、と思わず苦笑した。暖が親ならちょっと堂々とは子どもに晒せないような、ほの暗い官能が透けて見える夜だった。
どこであんな演奏を覚えたんだか、と黒く透き通る目をした目の前の男を疑う。こんな見た目で、中身に関して言えばおそらく暖以外の人との経験もないだろうに。もしくは暖以降で覚えたぬくもりがあったか。
それは激しく妬ける想像だった。だが暖が考えてもどうしようもないことだ。
ぽつぽつと交わす言葉の中、鴇田の口から「あの原稿」と発せられた。
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長い話を、鴇田は黙って聞いてくれた。暖が新しく借りた部屋で、鴇田はステージ衣装の黒ずくめでいたし、暖も昼間に着ていた服をまだ着ていた。暖の淹れたコーヒーはお互いろくに手がつけられず、冷め切っている。それでもアルコールを出さなかったのは、酔いに紛らわせて話したくなかったからだ。
急ごしらえで借りた部屋で家具の類は統一されていなかった。やたらと大きくて立派なカウチはあるのに、ベッドはない。洗濯機は最新型でも冷蔵庫は型の古い中古品だったりする。パソコンはあるが、電子レンジとテレビはない。
しばらくして鴇田は頷き、「離婚されたとは思っていませんでした」と言った。
「というか、子どもが出来たかもしれないと思っていたし」
「事実がないから出来ようがないですよ。どうしてそう思ったの?」
「前に書いてたコラム読んでそう思いました」
鴇田が語ったのは、宇宙の果ては何色であるか? の疑問ではじまった、時間軸としては秋に書いたコラムだった。
「あー、あれはそう取れるのか。おれとしては、存在したことっていうのはなかったことにはならないってことが言いたくて。いつか経験を忘れる日が来ても、それはあったことなんだっていう」
「でも生命云々と書いていたから。子どもが出来てそう思ったのかな、と」
「まあ、不妊治療をずっとしていたからね。『ある』ことにならない場合はどういうことだろうってのも考えた。考えている、だな。まだ答えが見つからない。……あれ、あのコラム。かなりいろんな反応があったのは知ってるんです。難しすぎるだろうとか、意味が分かりにくいとか、社内でも掲載するかどうかすごく議論になったし」
「……」
「でも掲載を強く推してくれた人が何人もいて、結果的に載りました。掲載してもらえてよかったと思ってますよ」
カウチに沈んで、鴇田は膝を抱えて暖を見た。黙って黒い目をこちらに向けている。ようやく会えた人は突然の展開に戸惑っているようだった。静かな分だけ、彼の困惑が突き刺さる。
困惑したまま、鴇田の方から「離婚って」と切り出された。
「簡単に出来るものですか?」
「んー」返答を考える。反射で答えるような、生半可な言葉では伝えられない。
「大学時代から十四・五年連れ添った仲だというのは田代さんから聞きました。そんなに長いあいだ傍にいた人と、そんなに簡単に離れられるものですか?」
「簡単ではないです。それは、……もちろん」
暖は目を閉じた。これまでの日々を思い返す。
「彼女に対する愛情はあるし、だからこそあの人が抱いていた理想像を叶えたかったという後悔もあります。未だに考えてしまう。けれどそれを追い求めて結果的におれは苦しくなってしまった。彼女自身も苦しかった。だから長いこと連れ添った仲でも、離れるべき縁もあるんだと思う。なんていうかな、時期とでもいうのかな」
「時期?」
「潮時。彼女との時間はおしまい、という意味です。ひとりの人と一生を添い遂げられる人ばかりではないのは世間が証明している。理想はやっぱり一生ひとりの傍にいたいけれど、現実的ではなかった。無理をしてでも彼女といる道もあったけれど、やっぱりそれは、無理をする道だったから」
「……」
鴇田はますます身体を固くし、うつむく。それでも時折、確認するかのように顔を上げ、暖を見て、また顔を隠した。
離婚しても鴇田と会うかどうかは別の話だった。もうそんなに恋だの愛だのに身を置かなくてもいいような気さえしていた。それだけ重たい荷物をおろした気分だったのだ。指輪を外して心から息をついた自分がいた。
鴇田に会いたくないわけではなく、むしろどうしているかを焦げ付くほど考えてはいたが、いままで散々連絡を取りあっていた連絡先はことごとく不通になっている事実を考えると、ためらった。鴇田はもうそういう覚悟でいるのだと思った。だから離婚しましたと言って不用意に会いに行けるわけもない。会社もアパートも知ってはいたけれど、そうまでして会いに行っても本人に望まぬ再会である可能性が高かった。
離婚して数日経ったころに、会社に封書が届いた。「ご意見をお寄せください」のコーナーへの投書だったらしい。開封した内勤社員が「これは三倉さん宛てのファンレターですね」と言って封書を渡してくれた。きっちりした字で書かれたそっけない文章に、それでも暖の心は動いた。この人に伝え続けたいと思った。伝わってほしいという強い気持ちは信心に近かった。
ほぼ同時に店の再オープンを知り、行くべきだと直感した。会えなくてもいいし話さなくてもいいから、鴇田の姿を見たいと思ったのだ。ピアノを聴きたい。否、鴇田がピアノを弾いている姿をひと目見たい。鴇田がピアノを弾くとは限らなかったので、そのときは伝言を頼むことも考え、考えた末に封筒にコラムの原案を入れて店に向かった。向かいながらずっと迷っていた。だが足は進む。
雨天の屋外と違って店内はずいぶんと盛況で、かろうじて見つけた席にようやく座った。
会いたかった人は店のステージで一心にピアノを鳴らしていた。こちらを一度見たけれど気づいてはいないようで、すぐにピアノに没頭してしまう。ボーカリストと目配せをして、音に音を重ねて音楽を奏でていた。あんなに背を丸めて、あんなに縋るように。けれど前と違うと思ったのは、音に喜びを感じる点だった。BGMでいいと言っていた彼のスタイルは変わらないだろう。けれどしがみつくように必死であるのにどこか投げやりにも聴こえていた音は、ピアノと遊ぶ喜びにあふれていた。
もっと言うなら、情熱がほとばしっていた。あの場で演奏を聴いていた人たちは皆、焦燥に駆られたのではないかと思う。恋しくてたまらなくなる音。とても近しい相手に触れたくなる音。そのようにして店を出て行くカップルを何組も見た。近くにラブホテルがあったら繁盛してしまうと思ったぐらい、鴇田たちの音楽はなまめかしく、親密に秘めいて、すっきりと純粋な愛情を掻き立てた。
たまらず名刺を取り出し、ペンで連絡先とメッセージを記す。それでもまだ、渡すかどうかに迷いがあった。店の前で待ち伏せするにも勇気が足りない。雨でくじけかかる。鴇田の音が鳴りやみ、割れる拍手で興奮する店の中から無理に出た。膝から震えが来るほど音に圧倒され、指先に痺れが残っていた。
声をかけてきたのは少年ともとれるような年齢の男だった。鴇田の会社の後輩だと名乗る。彼も興奮していたが、「前にあなたと鴇田さんが一緒にいるところを何度も見ています」と真っ直ぐに伝えられ、暖はこの若者に託してみる気になった。
彼は鴇田と暖との交流を見ていた。ふたりだけの記憶だと思っていた夢みたいにおぼろげな日々に、客観的な目が加えられる。どう映っていたかは分からない。けれどやはり自分の主張は正しいのだの立証された。
あったことは、なかったことにはならない。鴇田と過ごしたたくさんの時間も、その中に触れあった夜が存在したことも。
「あなたに託します」と封筒を渡した。若者は戸惑う表情を見せる。
「鴇田さんに渡してください。あなたのタイミングで構いません。でもどうか、渡してください」
「渡せばいいんですか」
「渡せばきっと伝わるから」
それだけ言って店に背を向けて歩き出した。あとは神頼みだな、と思った。神様だけがこのあとの展開を知っている。運を傾けてくれれば鴇田にはつながるだろう。つながらなかったらそれまで。妻との時間が終わったように、鴇田との時間も終わったのだ。
そして神様は即座に鴇田を結びつけてくれた。電話がかかって来たとき、自分の幸運が信じられなくてやっぱり迷った。知らないナンバーだったが鴇田だと分かり、応答に時間を要した。勇気を出してボタンを押し、声を聞いて震えた。その結果こうして鴇田が暖のアパートにいる。こんなに早く展開するとは暖も想像しなかった。だから鴇田の動揺はその通りだなと思う。
「あの子」と言うと、鴇田は僅かに顔を上げた。
「あなたの後輩だと言ってた子。去年取材に行ったときには見かけなかった。もっとも、見かけなかった人の方が多いんだろうけど」
「ああ……日瀧って言います。今年度の新入社員ですよ」
「まだ若いですよね」
「高卒採用です。いちばん若い」
「高卒採用なら、あなたと同じか」
境遇が同じなら話もしやすいかもしれないな、と思った。親しい雰囲気があった。鴇田はいままで変えなかった表情をようやく緩めた。
「去年までまだ高校生なのにあの店行ってたらしいです。校則で禁止されてたのにって言ってました。音楽と酒をたしなむ大人に憧れがあるみたいで」
「ああ、ありますね。大人になればどうして? って思うようなことに無性に掻き立てられて感化される時期が」
それだけ店や鴇田の存在を羨んでいたのではないか。健全な青少年とは言わないが、そんな彼にさっきまでの演奏と周囲の様子はどう映っただろう。酷ではなかったかな、と思わず苦笑した。暖が親ならちょっと堂々とは子どもに晒せないような、ほの暗い官能が透けて見える夜だった。
どこであんな演奏を覚えたんだか、と黒く透き通る目をした目の前の男を疑う。こんな見た目で、中身に関して言えばおそらく暖以外の人との経験もないだろうに。もしくは暖以降で覚えたぬくもりがあったか。
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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
****
2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。
2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」
2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。
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