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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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『あ、遠海? いまいい?』
 バーでの演奏を終えた頃に電話があった。紗羽からで、遠海の出番終了を見計ってかけてくれたのだろう。バックヤードで帰る支度をしつつ「いいよ」と答えた。
『新南が所属してる合唱団のクリスマス公演があるのよ。いいホールでやるし、趣向も凝るみたいだから面白いんじゃないかと思って。チケット買わない?』
「新南、合唱団に入ったんだっけ?」
『この夏前からね。オーディションで入団してるんだから褒めてあげて。ほら、K町で毎年夏に市民劇場で国際音楽祭があるじゃない。そこで子どもの合唱とか歌劇も毎年お披露目されてたんだけど、去年から国際音楽祭だけの出演目的で集まるんじゃなくて、児童合唱団として独立したの。そこの入団テスト受けたのよ』
「それで受かったならすごいね」
『ね。レベル高いんだわ、これが。あの子にとっていい刺激になってると思う。新南ははじめての演奏会になるから、遠海にぜひ来て欲しいって手紙まで書いてるわ』
「それは行かないとな」
 笑うと紗羽も笑った。
「いつ? いくら?」
『十二月はじめの週の土曜日。チケットも団員割引でそんなに高くないよ。千円で二枚買えちゃうから。――それぐらいあたしたちで招待してもいいんだけど、新南のはじめてのオフィシャル公演だからさ。なんていうか、お金払ってちゃんとジャッジして欲しいと思ったの。これは聴くに値するかどうか。お金を払って聴こうって気になるか』
「厳しいお母さんだな」
「その上で音楽でやっていくか、あたしたちみたいに趣味に留めるかは、新南の判断の材料になるから」
 教育ママになるだろうとは思っていたが、想像より遥かに教育ママに成長していたようだ。
「――うん、行くよ。買うよ、チケット」
 バックヤードに吊るしてあるカレンダーで日付を確認する。電話の向こうから『じゃあ取っとく』とはきはきした口調の声が届く。
『何枚いる?』
 訊ねられ、つい返答に詰まった。三倉の顔が過ぎる。もうずっと連絡を取っていないけれど、誘っていいのだろうか。ああ、きっかけ、だ。
「――二枚、」
『毎度ありぃ。そのうち新南からの手紙と一緒に送るわ。お金は都合いいときでいいから』
 用件だけさっと済ませ、電話は切れた。


『コンサートのお誘いです』
『僕ではなく新南の』
『彼女の所属する児童合唱団のクリスマスコンサート 
 十二月×日十八時開演 
 A区文化会館中ホール』
『ホールの喫茶室で待っています』


「喫茶室カノン」の看板を見て、ここか、と外観を眺める。小雨の降る日で、吐く息は白く肌寒かった。傘をたたみ、ドアをくぐる。そう広くはない店内には数名の人影程度で済んでおり、その中に鴇田の姿はなかった。
 もっとも暖が早く来すぎてしまっただけだ。早めに退社して、取材用の手帳とノートパソコンを片手にここへまっすぐ来た。まだ午後三時半。ここで仕事でもしながら鴇田を待てばいいと思ったのだ。
 窓際のテーブルを選び、コーヒーだけ頼む。手帳とカメラからパソコンへ移した画像を見比べながら文字起こしの作業に没頭する。雨が一際大きな音を立てて窓ガラスを鳴らし、外を見た。もうだいぶ日が暮れていて、青灰色の水の中に傘をさして歩く男を見た。
 男は足早に雨の中を抜け、喫茶室の入り口に潜り込む。それで暖の視界からは消えた。すぐに扉についたベルが鳴り、客の入店が分かる。コツコツと足音が近づき、その足音は暖の正面の椅子の際で止まった。椅子が引かれる。
 暖は顔をあげた。いつもの普段着よりちゃんとしたよそ行きのジャケット姿。その上から暖のウインドブレーカーを羽織っている。鴇田は「早かったんですね」と細い目をさらに細くした。
「仕事しようと思ってだいぶ先に来てた」
「はかどりました?」
「うん。あとすこしで終わる。コーヒーも美味いし、穴場スポットかもしれない」
「混むときは混むんですけどね。大きな公演とぶつからなければわりと空いています。――僕もコーヒーをお願いします」
 椅子に腰掛けて、やって来た店員にオーダーを告げた。暖もお代わりを頼む。それからちょっと笑って「その上着」と指をさした。
「そう、夏の終わりにあなたが僕の部屋に忘れていったやつ。返さなきゃと思っていてそのままだったのを――着ていけば忘れないかなと思って。今日みたいな日には活躍するから僕は助かったけど、三倉さんはなくてこの秋は困りましたよね」
「いいよ、着てくれた人がいるんだから」
「ここに来るまで濡らしてしまいました」
「風と雨除けになっただろ。防風性と撥水の良さで選んでるから、それ」
 そのまま間が出来た。鴇田の言葉を待ちつつ、暖はキリのよいところまで仕事を進める。あらかたまとめあげてノートを片付ける頃には鴇田は上着を脱いでいたし、コーヒーも残りわずかになっていた。
「終わりました?」と遠慮のない深い目が暖を捉える。
「うん。おしまい」
「じゃあ、これ」
「なん?」
 鴇田が差し出したのはこっくりと深いブラウンに金字のロゴの入った紙袋だった。ネイビーブルーのリボンがアクセントになっている。これを見たことがある。鴇田は「日瀧の提案です」と言った。
「ん? 日瀧くんから?」
「いえ、僕から。仲直りのきっかけというか、国交回復の記念の品っていうか。――これ選ぶのに日瀧と西川の三人で店に乗り込んだんです。店内のテイスティングだけじゃ埒があかなかったので、端から買ってって会社の事務室であれがいいこれが好みとか言い合って。結局社内の人間を巻き込んでチョコレート試食会に発展して。遅くまで色々」
 眠い、と鴇田はあくびを噛み殺した。なにを言いたいのか本人もうまく説明にならないようで、だが名店「フラウ」のショコラを暖と鴇田の時間のために選んでくれたのは分かった。
「これに合うコーヒーを淹れてくれると嬉しいです」と言われ、国交回復の意味を理解した。
「――いいよ」
「話したいことがいっぱいあって、……あなたの話もたくさん聞きたくて。その、僕はまだ完全に『発作』から脱したわけではないみたいなんですけど、でも共通で日本語っていう言語を持ってるんだから交流をしたいと思うんです。心を交わす、って言うのか」
「――うん」
 暖は微笑んだ。
「おれも土産と土産話があるんだ」
「どこか行ったんですか?」
「取材旅行でね。あなたにはグリーンフラッシュの話をしたいとずっと思ってた。写真もあるんだ。見せたくてうずうずしてたけど、鴇田さんなかなか連絡くれないから。嫌になってしまったんじゃないかと気が気じゃなかった」
「それは……本当にすみませんでした」
「いいよ。連絡もらうまでは忍耐だったけど、こうやって会って話が出来るから。……演奏会終わったらコーヒー入れに行くよ。ショコラを摘みながらさ、ゆっくり話そうか」
 そう言うと鴇田はほっとした顔で、やがて面映そうにはにかんで「ありがとう」と答えた。
「開場の時間になるね。そろそろ行こうか」
 喫茶室を出てホールへの階段を上がる。全席自由席で、後方に席を取って並んで座った。
「樋口夫妻も来ているんだろう?」
「娘の一大イベントですからね。でも遠海たちは好きなところで自由に聴いて、と言われてしまいました。演奏が終わったらちょっと顔見てきましょう。ーーそうだ、これ新南からの招待状」
 そう言って鴇田はポケットから可愛らしいキャラクターの描かれた便箋を取り出した。受け取って中身を改める。『ダンもよんでね。ぜったい来てね』と拙い字で一生懸命に綴られていた。
 開演となり、演奏が始まった。団員がステージに上がり、アカペラでいきなり美声を響かせるので驚いた。子どもにしか出せない無垢な声が高くホールに響き渡る。新南は髪色が違うのですぐに分かった。彼女はソプラノのパートにいるようで、他のメンバーと声を揃えて朗らかに歌っていた。これが初舞台とは思えぬ堂々とした歌い方だったが緊張感もあるらしく、ひな壇から降りる際にちょっとよろけてはにかんでいた。
 メンバーを変えて重唱に移ったり、ピアノやバイオリンとの演奏があったりと、客を飽きさせないようにプログラムの練られたコンサートだった。ちょっとした振り付けのある曲もあり、クリスマスソングの王道もうたう。たどたどしい動きが愛らしい。やがて公演もクライマックスという頃、隣の鴇田の頭が暖の方へと傾いだ。響きの良い上質な音楽に合わせて彼は眠りに引きずり込まれていた。
 膝が、と思った。暖の左膝と鴇田の右膝が触れている。鴇田の髪が暖の肩先に微かに当たる。触れていることをこんなにはっきりと意識する。
 またアカペラの合唱曲が始まった。隣り合った音の重なりの美しい、天へと突き抜けるような歌声に圧倒される。鳥肌が一気に立つ。ふと隣を見ると、鴇田の着ている黒のセーターの袖から見える腕にもふつふつと鳥肌が立っていた。
 言語は聞き取れない。何語なんだろう、英語ではなかった。けれど眠っていると思っていた隣から「salve regina」とひそやかな囁き声がした。
「サルベレジーナ?」暖も声をひそめて訊ね返す。
「聖母マリアへの祈祷文。ラテン語のミサ曲です。あわれみの母、道を照らしてくださいみたいな意味」
 それだけ言って鴇田は暖の肩にそっと頭を載せた。
「――福音だ」
「福音か」
「神様の声とか、銀の鈴って、こんな音色なんだよ、きっと……」
 響きが響きを呼んで、ホール全体に音色が満ちる。聖なる導きの歌詞、重なり合う音と音。いくつもの波長の連なり。どこまでものぼっていけそうな、身体を浸してゆく発声。
 微かに触れている箇所から伝わる発熱。福音、と暖は台詞を反芻する。
 この距離で、触れ方で、でもちゃんと私たちは共有している。空間を、時間を、音楽を、感情を、身体を。
 そしてそれらをいま祝福されている。神様の子どもたちから。
 そう思った。


『Aへ取材で訪れた際に地元の方の案内で海辺を歩いた。晴れ渡って空気は澄み、ドラマチックな夕焼けを見ることが出来た。水平線に沈みかける太陽の上部が緑色に見えた。グリーンフラッシュ(緑閃光)という珍しい現象なのだと教えて頂いた▼光には様々な色の波長が含まれている。人間の目に見える範囲で遠くまで届く色は赤だ。夕日が赤いのは沈んで遠くなった太陽光のうちの短波長の青系は空気中の塵などで散乱されてしまい、赤だけが残るからだ。だが空気が恐ろしく澄んでいると本来ならば散乱される緑の波長も稀に届く。それがグリーンフラッシュの正体だ▼ポリネシアの島々ではこれを見られると幸福になれるとされている。それだけ稀有な現象だということだ。地元の方は「たまにある発作みたいなものだ」と言う。気象とはそう言うもので、過去の統計から未来をどれだけ予測しようとこれが確実に起こるとは言えない。条件が揃ったからと言って見られる訳ではない▼心臓発作、パニック発作、てんかん発作など、発作とつけば良いイメージは湧かない。辞書を紐解けば「激しい症状が急激に現れる様」、続いて「短時間で治まる」とある。近年の唐突で激しい気象を確かに連想する▼起こっている最中は辛いだろう。だが適切な対処を知っていれば慌てずに済む。冷静な見極めが大事だ。それにはやはり日頃の観察と考察の積み重ねなのだろう。分からないと決めつけず、新しく知を得て考え続ける事だ。〈暖〉』


 新聞を畳み、譜面台に立てかけた。三倉が焼いてくれたAでのグリーンフラッシュの写真を眺め、遠海はふっと息をつく。「なにを見ているんですか?」と背後から声がした。スタンバイ前のケントが立っている。
「ああこれはすごい。グリーンフラッシュですね」
「ケント、見たことある?」
「見えやすい、と言われている島に旅行に行ったことはあります。でも僕は見られなかったです」
「そっか」
「トーミの写真ですか?」
「いや、三倉さんの。取材先で見たんだって」
 写真を渡すと、ケントは「幸せになれますねえ」とはにかんだ。
「なんかこれも福音っぽい」
「グリーンフラッシュですか?」
「うん。神がかって神々しい。このあいだの合唱曲みたいな」
 ポーン、とピアノを鳴らした。いくつか鍵を弾き、そのまま新南の歌ったあのメロディーを奏でる。合唱の部分まで音を重ねる。隣り合った音は不協を忘れ、不思議と心地よい。
「今夜はフクインにしますか?」とケントは笑う。「グレゴリアンチャントでも演奏します?」
「いや、ジャズやろうよ。ちょっと合わせる?」
「ハイ」
 写真を返し、ケントはドラムセットの元へ向かった。ドラムの合図でピアノを鳴らす。ケントがそっと口ずさんでいる。
 発作、福音、チョコレート、お土産の馬、そっと触れること、緑色の閃光。
 理解され続けている、と確かに思った。三倉は遠海への理解を放棄しない。喜びで指が踊る。音の波が打ち寄せては引き、新たなる波を呼ぶ。
 だったら、と考える。だったら僕もちゃんと分かりたい。あの人のことを知っていたい。僅かにふるえる指先にぽっと熱が灯った気がした。爪の先でいつか掻いた三倉の皮膚の、肉の感覚を思い出す。
 鳴らすピアノは三倉であるような気分のまま数曲弾いた。もうすぐ年が明ける。新しい年もあの人と一緒がいい。今夜この演奏が終わったら真っ先に電話をして予定を訊こう、と決める。


グリーンフラッシュ End.

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今日の一曲(別窓)

これにて「ぬるい遠浅の海」はおしまいです。
セットリストを作りましたので良ければそちらの記事もどうぞ。



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 昼食を取っていると隣の席を指して「ここいーですかあ?」と訊ねられた。西川が弁当を手に立って笑っている。ただなんとなく傍に寄られることに抵抗があり、「僕はもう行くから広く使って」と弁当のごみを手に立ち上がる。
「えー、鴇田さんまだいいでしょう? お喋りしましょうよー」
「西川さんいい加減にしろよな。鴇田さん嫌がってるんだよ」
 会話に割って入ったのは日瀧だった。気遣われていると分かって情けなくなったが、それでも日瀧の助け舟はありがたかった。
「あんたはこっち来な」と西川に自分の隣を示す。日瀧はそのまま遠海の向かいに腰掛け、「チョコ食います?」と菓子のパッケージを取り出す。
「おー、フラウのチョコじゃん。どしたの?」
「買い物に付き合ったらお礼だって買ってくれたんだよ。いまハマってんだって」
「ああ、みかげちゃん?」
「いや、姉貴」
「チョコレートにはコーヒーだよねー。鴇田さんはブラックですか? ミルク入り?」
「……ブラックで」
「はーい」
 明るく答えて西川はコーヒーサーバーの方へ向かった。騒がしさが治まり、向かいの日瀧は弁当を広げ始める。
「……本当はみかげさんなんだろ」
 そう訊ねると、日瀧は照れ臭そうでも正直に「はい」と答えた。
「いや、別に隠すことでもないんですけどね。西川さん、やかましいから」
「デート?」
「に、分類されんですかね? 待ち合わせて日用雑貨の買い物して、荷運び手伝って、彼女の部屋でお互いの話してました。夜あの店行くのもいいけど、やっぱり向こうは学生だから金ないってことで。おれ働いてるしって言ったんですけど、男が奢ればいいって時代、古いよって言われたんす。いまはワリカンだよって」
「でもこのチョコレートはワリカンじゃないだろう?」
「……はい」
「いい子だね。いい時間を過ごしたんだって分かる」
 箱の中のチョコレートは小粒でも造作の凝ったものだった。甘味は出来るだけビターを好む日瀧を考えて、カカオの含有率が高いものが選ばれている。日瀧は距離感云々を言っていたが、ゆっくりと信頼関係を築いている様子が窺えて微笑ましい。
「この店、駅前大通りの人気店だよね」チョコレートのパッケージを手に取る。
「ああ、そうです。最近二号店が国道沿いに出来て、そっちで買ったって言ってました」
 以前、三倉がこの店について言及したことがあって覚えていた。遠海の思考をトレースしたかのように日瀧が「三倉さん」と言うので、ドキリとする。
「会ってますか?」
「……どうしてそんなこと訊くの、」
「思い出したからです。前に『フラウ』のビターなら甘いものが苦手でもおすすめだと言われたことがあって」
「元気だと思うよ」
「やっぱり会ってないんすね。この間聞いたときもふわっとした返事だったんでおかしいと思ったんです。喧嘩しました?」
「……してない、と思う」
「なんすかそれ」
「自分でも理解不能なんだ」
「鴇田さんが原因ってこと?」
「そう、百パーセント僕だ。やましいことも悪いこともなにもないけれど、」
 それ以上がうまく出ず、そのまま黙る。じきに西川が三人分のコーヒーをトレイに載せて戻ってきた。「一回ひっくり返しちゃったー」と言いながら紙コップを渡してくれた。
「なんだ、チョコ減ってないじゃん。コーヒー待ちだった?」
「そう。おせーなって」日瀧が白米をかきこんで答える。
「あらー、そりゃお待たせしました。鴇田さん、どうぞどうぞ」
「おれが持ってきたチョコだからな」
 目の前のやり取りにうっすらと笑って、ありがたく一粒もらう。ビターチョコレートのくちどけは滑らかで、たとえそれを流すのが安いコーヒーであったとしても至福の味がした。
「美味しいね」と西川も笑顔を見せた。「でももっと甘い方が好みだなー」
「テイスティングできるらしいから店行って好みの買えば?」
「でもさあ。チョコレートってやっぱり贈ってもらう方が嬉しくない? こういう高級店のチョコレートだったらなおさら」
「バレンタインに欲しいって事務のおスズさんに言えば? ひとりひと粒とかでも買ってくれそうじゃん。おスズ姐さんなら」
「えー、ひと箱欲しい。あとバレンタインまで待てない」
 やいやい言っているふたりを前に、いつの間にか遠海は三つ目のチョコレートを口にしていた。食べすぎを自覚してコーヒーを口にする。
「あとやっぱり本格派のコーヒーで食べたいよね。会社のサーバーも新しくなって前よりは豆の香りがするけどさ。これよりは、たとえば? 自家焙煎のとっておきのお店の豆用意して、彼氏が休日の朝だけ淹れてくれるコーヒーで一緒にとろける時間。どうだ!」
「どうだ! って言われてもね。そこまで言うなら新しい彼氏にやってもらえば?」
「うるさいなあ。やってもらえるならこんな夢みたいなこと言いません。別れたんだよ」
 チッと西川は舌打ちをした。
「リリースが早いな」
「売れ筋のアーティスト評みたいに言わないでよ」
「なんで別れたの?」
 訊くつもりもなかったはずがつい口にしていた。西川がキョトンとした顔でこちらを見て、すぐにつまらなそうな顔で「喧嘩しました」と言った。
「僕、喧嘩の納め方が下手って言いますか。すぐカッとなって『もういい、別れよ』に持ち込んじゃうんですよ。それで後悔するんですけど。自分から謝る勇気もなくて。――鴇田さんはどうしますか? 大事な人と喧嘩した時」
「……ええと、」
「自分から行きます? 放り投げます? 相手を待ちます?」
「……」
 考えてしまった。完全一致するわけではないけれどいまの状況にどこか重なる。いや、遠海から距離を置きたいと言ったから、三倉は「連絡して」と言ったから、……でもそれって三倉にまるっきり甘えている。自分の言い分ばかり一方的に告げて距離を取ったけれど、三倉の考えも聞くべきだった。
「……きっかけを、作る」
 そう言うと、日瀧も顔をあげた。
「さっきの話じゃないけど、ちょっといい手土産持って、謝りに行って向こうの話を聞く――勇気を持ちたい」
「自分から行くってことですか」
「理想は。その上で自分の思いや主張もやっぱりあるから。なんだろう、……理解や歩み寄り、かな」
 黙って弁当をかき込んでいた日瀧はそこで水筒の茶を飲み、息をついた。
「じゃあ決まりっすね。フラウ、行ったら?」
「えー? より戻そうって?」
「西川さん、未練たらたらじゃん」
 日瀧もチョコレートに手を伸ばした。
「よく分かんねえけど、人との関係ってどんなに親しくても変わってくもんじゃん。物理的にも心理的にもさ。それを維持してこうって思うなら相応の努力ってのがいるんじゃねえの? 自分も相手も、お互いに」
 西川は黙った。遠海も黙った。束の間の沈黙の後に西川はふうっと息をついた。
「日瀧のくせに生意気」
 図らずも感心してしまった、というところだろうか。遠海にも充分分かる話だった。

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「Aの出張許可」
「そう。先方は明後日なら都合がいいそうだ。早い時間の方がいいというから前乗りを許す。明日出発で」
「いえ、僕明日も取材詰め込んでるわけですけど」
「ならギリギリまで取材して、行けない分は高岡に引き継げ。で、明後日のうちに戻って来いよ。とにかく締め切りが焦げついてるからな」
「それ僕に休みのないコースじゃないですか」
「企画発案者がいまさらあだこだ言うなよ。発行になったらいくらでも休ませてやるさ」
 と言って笑うが、目は笑っていない。上司の言葉に暖は「はあ」と頷く他ない。いや、わりと願ったりなのか?
 あおばタイムス創立六十五周年記念になにかやろう、と言い出したのは社長だった。役員はこれと言った案を思いつかぬまま「なにか」の中身の発案を下へスライドさせた。なんで六十五周年っていうタイミングで? もう三十五年待つのが難しかったとして、でも五年ぐらいは待とうよ、と誰もが思った。思ったが紙面を盛り上げよとのお達しで会議をした結果、暖がやけくそで出した「六十五年前のあおば地区を振りかえろう」案が無難に通ってしまった。
 六十五年前の地図と現在を比べる。変わっている地区名はその変遷を振り返る。六十五年前を知る人へのインタビュー。六十五年前の世相や世間を賑わせたニュース。その頃流行っていたもの。ありとあらゆるものを調べる中出て来たのが当時の地区名で「御鈴」出身の若手ダンサーの地元凱旋公演の記事だった。野田真角(のだますみ)、当時十五歳。国内に創立された極めて実験的で前衛的なモダンバレエ学校で才覚を現すも、ダンサーとして食べられる時代ではなく、活動期間はわずか五年という短さだった。二十歳で結婚した際に就職し、その後の活動は記録にない。
 たった五年であれど、若い貴重な時間と身体を舞台に捧げたのだから話を聞いてみたいと思った。存命か故人か分からぬ中でせめて親族にでも話を当たれないかと下調べを続けた結果、本人はまだ生きていることが分かった。取材も可能だという。ただし住まいを移しており、それがAだったのだ。さすがにそこまで実際に行く許可は下りないだろうと思っていたが、ほろっと叶ってしまった。仕事をこなしつつAまでの経路を調べる。新幹線が早いが新幹線を降りた先が長い。結局「安い・自由」を優先して社用車をすっ飛ばしてAまでの弾丸ツアーと相成った。
 大慌てで荷物を準備しながら鴇田に連絡を取るかどうかを考えた。通常の距離感であれば「出張行ってくる」ぐらいは伝えてもいいように思うのだが、連絡を取り合っていないいま、それさえもしていいのか躊躇う。
 鴇田の「触れられない」は、暖には分からない。散々触れて来て、内臓の内側まで舐めるようなえげつないこともしていて、唐突に「嫌悪感がある」と言う。このまま鴇田は暖を拒んで終わるのだろうか。いや、そんなこと絶対にさせないけど。絶対に足掻くけど。
 まさに「経験が太刀打ちできない」。全く別の思考と身体なのだと実感する。だからと言って諦めて引く理由はない。愛想を尽かされたのならともかく、苦しみながら「時間が欲しい」と言われたのだ。
 ……いや、もし「触れられない」に「嫌いになった」が含まれていたらどうしたらいいのかな。嫌いな相手には触れられたくないだろうし。むしろ会いたくないし。すると自身を省みて改善する必要があって――思春期ならともかく、いまさら自己否定の沼になんか足突っ込みたくないけれど。
 頭を打ち振って考えるのをやめた。一泊の取材旅行の準備をしてアパートを出る。



 前乗りでA市街のビジネスホテルへ車を突っ込んだのが夜七時。本来ならば旅先ぐらい地元の名産と酒とでやりたいところだが、調べる暇もなくて駅前のうどん店で腹を満たした。部屋に戻って明日の取材の手順を確認する。市街からは離れる海沿いに住宅があるといい、早めにホテルのチェックアウトを済ます必要がある。取材は朝八時半からだ。
 普段暮らす街より北に位置するこの街は、夜になればやはり気温が違う。部屋の窓を開けると冷たい夜風が部屋に吹き込んできた。痛みを感じるほどの気温の風だ。遠くで救急車のサイレンが聞こえた。中の人は無事かな。なんとなく部屋の空調を消し、しばらく夜風に当たった。くしゃみをして窓を閉め、眠りにつく。
 早朝、チェックアウトの支度をしていると電話が鳴った。社用で使っている方だ。知らない番号からだったが対応した。取材を予定していた野田老人本人からで、自宅の固定電話からではなく孫のスマートフォンを借りてかけていると言った。
『妻が庭で転んでしまいまして、いま病院なんです。取材時間を遅くしていただきたいのですが』
「それは一大事ですね。こちらのことは気になさらないでください。奥様のお加減はいかがですか?」
『骨折まではいかなかったと思うのですが、もう歳ですのでね。念のために精密検査をしとります。私もずっとついていなければならないわけではなく、むしろそういうことは息子や孫たちに任せた方がいいですので、昼までには家に戻る予定です。時間、そこらでよろしいかな?』
「ああ、お構いなく――では一応十三時にお伺いします。ですが無理なら無理で仰ってください」
 淡々と電話は切れた。午前中に取材を済ませて車をすっ飛ばして帰る予定がまるきり変わる。まあいいか。観光でもしようと考え、ひとまずホテル内で無料の朝食を取る。
 せっかく車があるのだからとドライブをしてみる。地図を見てルートを見て、暖が選んだのは海岸線のドライブだった。鴇田とIに行ったの何年前だっけ。あの時は最悪で最高の最西端ドライブだった。それを思い出しながら車を走らせた。途中あちこちで車を停めて写真を撮ったのは記事になるかもしれない予感であり、鴇田に見せたらどんな反応があるだろうかという期待だった。道の駅で土産を買ってみる。渡せるかどうかも怪しいので生鮮はやめる。持ち運びと軽さで選んだら馬をかたどった小さな工芸品になった。かばんに仕舞い込む。
 時間を見てドライブをやめ、軽食を済ませて野田の家に向かった。出迎えてくれたのは少年で、彼は野田の孫だと言った。高校生で、古い記事に載っていた野田によく似た、どちらかと言えば野暮ったい顔立ちだった。馴染みやすいというか、田舎臭いというか。嫌いになれない面立ちだ。
「祖父はもう戻ってます。遠いところをわざわざだったのに、さらにお待たせしてすみません。おじいちゃーん、あおばさん来たよー」
 玄関先で大きな声を出しながら廊下の先を促された。通された客間は庭に面していた。部屋の隅にレースのカバーのかけられた茶色いオルガンが置いてあった。
「どうも、お待たせいたしました」
 縁側に面した廊下から野田は現れた。小柄ではあるけれど背筋のしゃんとした人で、とても八十歳には思えぬ若さがあった。顔は相応にしわがあるが、それでも若いと感じた。
「改めまして、あおばタイムスの三倉と申します。奥様のご様子はいかがですか?」
「心配と面倒をおかけしましたねえ。まだ病院で結果待ちです。息子の嫁がついててくれておるので心配はしとりません。ちょっと打ち身程度で済んだでしょう」
「庭で転んだというのは、そこで?」縁側の向こうに見える庭を指した。
「ええ。庭木に水をやってから、縁側に上がろうとして足が上がらなかったんでしょう、落っこちましてね。頭、というより顔を打ったのです。それで思いがけず大ごとに」
「いえ、大事なところですよ。下手に出血でもしていれば脳は危険です。お顔というのも、女性には辛い話ですね」
「この歳になれば顔はシミとしわでくちゃくちゃが当たり前です。若い人よりは気にすることはない」
 野田の家は古い日本家屋で、庭の向こうには海が見えるような立地だった。地震で津波でもあれば一発ですね、と野田は豪快に笑った。海からの潮風を潮に強い庭木を植えることで防ぎ、また家の屋根や建材も琺瑯引きや焼き物で錆びぬように工夫がされていた。聞けば結婚の際にこの家に婿に入ったとかで、野田の本姓は「沖」と言った。
「――まあ、あの時代にダンサーで食える人間なんぞおらなかったのでね。しかもミュージカルでもなく、クラシックバレエでもなく、モダンバレエでした。アカデミーに通いながら劇団に所属して踊りましたが、経済的にはずっと苦しかった。妻の父親のつてで漁業組合に就職しまして、ようやく落ち着いたわけです」
「それで活動期間が短かったわけですね」
「華のない顔立ちだ、とよく言われます。体格に恵まれたわけでもなかった。けれどそれを超えて純粋な身体能力だけでやっていける強さというか、目新しさがモダンにはあったのです。私はこの通り小柄で手足も短いですが、体幹には優れていましてね。腕を広げて身体を大きく見せる方法もありますが、重心を確実に丁寧に動かして身体の隅々まで表現に活かせたのです。これを高く評価してくださったのがアカデミーの創立に携わった小平先生という方で。小平先生は戦前には日本舞踊の先進者だったわけですが――」
 一度話し始めれば暖が訊ねるまでもなく野田はすらすらと語り出した。孫にせがまれて何度もしてきた話なのだという。地味で華のない顔立ちだと言うが、語る仕草は洗練された人のものだった。暖は仕事を忘れて話に聞き入る。取材でなければメモさえ取らず、ただ脳に刻み込むのに徹して表情を窺っていたかった。
 やがて玄関先が騒がしくなった。野田の妻と息子の嫁が帰宅したのだ。孫が「おばあちゃん大丈夫?」と訊ねているのが聞こえた。そのうちに足音がして、野田の妻が顔を覗かせた。頬にテープが貼られていたが、他に目立つ傷は見えなかった。
「美津子、どうだい?」
「おかげさまで顔はこんなですけどね。腫れるでしょうとは言われましたけど検査結果は大丈夫ですって。ごめんなさいね、三倉さん。こんなところまでわざわざいらしてくださったのにばたばたしてしまって」
「いえ、ご無事でなによりですよ。ドライブの時間ができましたので私としては貴重な時間をいただきました」
「もう夕飯の支度になるのですけど三倉さんは今日中にお戻りですか? よろしければご一緒にいかが?」
 時計を確認すると、確かに夕食の支度に取り掛かるような時間だった。これから会社まで車をすっ飛ばしたとして深夜着は間違いない。取材が押したのだからもういっそ帰るのは明日にしてやろうか、という気になる。
「お言葉に甘えてしまいますよ」
「ええ、もちろんどうぞ。お酒は召し上がる? 地酒があるのですけど」
「ああ、そうしたいですけどねえ。車で来ていますし、宿も探さないといけませんので」
「あら。お嫌でなければ泊まってらしたらいいわ。ねえ、真角さん」
「うちは全く構いませんよ。家族が多いのでやかましいですけれど、布団と部屋はありますし」
 ならば、ということで遠慮せずに早速会社に電話した。電話口で上司は渋ったが、「取材の予定が変更になった」を繰り返し主張して、明日の戻りで渋々了解を得る。
「そうと決まれば張り切って支度いたしますね。ああ、あなた。海を案内して差し上げたら?」
「海?」
「ええ。すぐそこに見えている海です。今日はとても澄んでいるから、きっと夕日が綺麗なんじゃないかしら。沖までくっきりしているわ」
「そりゃ本当か?」
「ええ。早くご案内して差し上げた方がいいわ」
「見られるかもしれんな。行きましょうか、三倉さん」
「見られる?」
 なにを、と問う前に野田は立ち上がった。
「海、行きましょう。カメラをぜひ」

← 2

→ 4



拍手[6回]


 演奏を終えてステージを降りる。カウンター席へ向かい、スツールに腰掛けて伊丹からジントニックをもらった。つまむ程度にフードメニューももらう。ひとりで飲食を済ませていると背後から「鴇田さん」と声がかかった。
「お疲れ様です。間に合った」
「演奏聴いたの?」
「最後の方だけチラッと。今夜出番は?」
「今日はもう終わり。僕は前座だから。ここ来る?」
 席を促すと嬉しそうに頷き、日瀧は鴇田の隣のスツールに腰掛けた。カウンター内の伊丹に「いつものあれと、小腹が空いたのでジャーマンポテトを」と頼む。伊丹は寡黙に頷く。
 「いつものあれ」とは日瀧スペシャルのアルコールを指す。飲酒年齢に達した日瀧ははじめての飲酒で自分がアルコールに弱いことを知る。けれどお酒は飲んでみたい。それで伊丹に相談し、ほとんどジュースのようなやや甘めのすっきりとしたアルコール度数の弱いカクテルを作ってもらうようになった。使用する果物はその時のお好みで。柑橘系が多い。これを「日瀧スペシャル」とする。
 ステージでは別のグループによるセッションがはじまった。皆六十代から七十代に届こうかというオールド・マンのグループで、揃いのベスト姿がよく似合っていた。プロミュージシャンで、普段はスタジオミュージシャンやバンドのバックミュージシャンを務める人たちらしい。ピアノとサックスとベースとドラムという編成だ。伊丹がまたどこからか引っ張ってきた人たちで、熱心なファンのおかげで店は普段より混雑している。
 聴いていると、やはりプロなのだと実感する。演奏にブレがなく、触りが上質な毛布で包まれているような心地になる。ドラムの正確なリズム。派手な主張をせずとも骨格を組み上げるベース。技巧豊かなサックスと、全てを受け止め統一に導くピアノ。このピアノの演奏の仕方は真似できないなと思う。プロ相手にそんなことを思うのもおこがましいが。
 やってきた日瀧スペシャルとジャーマンポテトを、日瀧は表情を変えずに平らげた。遠海は飲んでいたジントニックが終わったので、たまにはと思い、モスコミュールをオーダーする。
「最近、三倉さんお見かけしませんけど、」と腹のくちた日瀧が口をひらいた。
「店に来てますか?」
「いや、来てないと思うよ」
「そうなんすね。お仕事忙しいのかな?」
 距離を置きたい、遠海から申し出たことは黙っておく。
「今日、あの子は?」と話題を変えた。
「日瀧と同級の、あの子」
「あー……みかげのことすか」
「そうそう。みかげさん。最近よく一緒にこの店で飲んでた風だったから」
 日瀧は照れ隠しに日瀧スペシャルを口にして、グラスが空だと気づく。同じものをオーダーし、「別にそういうんじゃないすよ」とぶっきらぼうに答えた。
「たまたま高校の頃の同級生に店で出くわしてしまって、いまどうしてるんだよって程度に話してたぐらいで」
「でも一度だけじゃなくて何度か会ってたんだから、ただの懐かしさだけじゃなかったんじゃないのかな」
「まあそりゃ……びっくりしたし、高校の頃とは印象の違うところもあったし、でもって話が弾んだってのはありますけど」
 日瀧が高校の同級生だったという「みかげ」さんとこの店で再会したのは夏の手前だった。専門学校で動物看護について勉強しているといい、夏らしくてっぺんで結んだお団子が愛らしい女性だった。傍から見た印象では仲の良い友人以上カップル未満、ぐらいには見えたのだが。
「なんか難しいすよね。人との距離感って」
 運ばれてきた日瀧スペシャルを口にして、彼はため息をついた。
「近けりゃいいってもんじゃねえし。適正な距離は難しい」
 それを聞いて三倉を思った。いま故意に遠ざけている距離感をどうしていいのか分からずいいる。
「そういえば最後に弾いた曲、なんでしたっけ?」と日瀧が訊ねた。
「昔の唱歌だったような。聞き覚え? 歌い覚えが」
「ああ、『椰子の実』かな」
「歌詞ありますよね。なんで唱歌のジャズアレンジを?」
「んー」
 寄せては返す波に打ち上げられた椰子の実を歌った歌だ。作詞は島崎藤村。
『これ聞くとおれの中では夏の終わりなんだ。遠い島から流れ着いたっていう由来の歌詞がそう思わせるのかも』
 前に会ったとき三倉がそう言っていた。だから弾いた。
 三倉はこの場にいないから聴けない。けれど弾いた。


 きっかけ、というほどのものはなかった。ただいつもの「触れられない、触れて欲しくない」とは明らかに度合いが違っていた。通勤で使うバスや電車内での密接がもう耐えられず、大家に借りて自転車通勤に変えた。仕事で収集車に乗り込む際に同僚らとの距離が近いようなら鳥肌が立ち、心臓が痛んで苦しかった。こんなに嫌悪でたまらない。それでもごまかしごまかしでアパートに帰り着くと三倉がいた。休みだったからと部屋に上がり込んでいた三倉の真剣に資料を読み漁る後ろ姿を見て、どうしようもない孤独と、恐怖がこみ上げた。
 こんな近くに人がいる。自分ではない他人がいる。
 話をするし、食事も共に取るし、共に眠る。キスをするし、セックスもする。たわむれに背に触れたり、手を握ったり肩を抱く夜も幾度と過ごしてきた。
 なぜ、今頃になってこんなにも――唐突に嫌悪感があるのだろう。
 全く不可解だった。三倉が部屋にいる事実は嬉しいのに、触れたいと思うどころか、触れられたら激しく拒んでしまう、底知れない拒絶が身体に巡っている。
「おかえり」と三倉はいつもの顔で振り返ったが、遠海の身体は凍りついていた。「ただいま」の声が震え、三倉が異変に気づいて首を傾げる。
「なにかあった?」
 冷たい麦茶でも、と冷蔵庫に向かう三倉に、帰ってくれと言いたい自分を自覚して、愕然とした。
 離れたい。身体の距離を離したい。話したいことは山ほどあるのに、触れて境界を失うことが、こんなにも恐ろしい。
「――今日は、ひとりになりたいです」
 言えたのはそんな台詞で、三倉はグラスに注いだ麦茶を片手に固まっていた。
「どうしよう、三倉さん。あなたが疎ましいわけじゃない。側にいたい。相反して触れて欲しくない気持ちで支配されている。触れられない僕が暴れ回っている」
 唐突な告白に面食らったのだろう。三倉は麦茶を置いて黙り込み、長考した。
「触れたくない?」
「……語弊を招くと承知でこんな言葉しか出てこない。……気持ち悪い」
「……ゆっくりでいいから、話が出来る?」
「……嫌悪感が、あなたにだけじゃなくて、誰にでも」
「そうか……」
「きっと、発作みたいなものなんです。治れば平気になる。――でも発作の最中が、辛い」
 三倉はなにを思っただろう。なにかを口にしかけ、手を伸ばしかけ、だが口にせず、伸ばした手も下ろして、そのまま資料をカバンに詰め込んだ。
「そういう日もあるよ。また連絡待ってる」
 そう言って当たり前のように脇をすり抜けて部屋を出ていく。遠海はしばらくぼうっとしていたが、部屋の隅に残された三倉の荷物――読みさしの文庫本と薄いウインドブレーカーだった――を見て、部屋の扉を覗き込むように振り返った。
 けれど足が動かない。返却には至らず、連絡にも至らず、あれからもう何週間も経過して、遠海はまだ迷っている。
 極端な発作は治まりつつあったが、触れたい、とは言えなかった。

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今日の一曲(別窓)



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salve regina



『発作みたいなもの。脳が間違った信号を出したり、ホルモンを過分泌したり、しなさすぎたり。異常が治れば通常に戻るんですけど、発作が出ているあいだが辛い。周りには迷惑をかけてしまうけどそういう性質だと分かって対処してもらうしかなくて……なんていうのか、うまい例えが見当たらないです。あえて言うなら、そういうもの』


 元気? と控えめに訊ねられた。明らかに戸惑いや気遣いが滲むのだが、そういう不器用さは確かにあったと思い出して懐かしくなる。「元気だよ。あなたは?」と訊ね返すと、彼女は少し躊躇って、ちいさな声で「恋人が出来た」と言った。
「――おお。そっか」
「……まだ付き合いはじめて日が浅いんだけど、」
「いちばん新鮮でワクワクする頃だよ。どんな人?」
 カフェのテラス席で向かい合っての会話だった。晩秋の風が頬を刺して通り過ぎていく。暖房がそろそろ欲しい頃だったがテラス席を選んだのは天気が良いからだった。暖は上着を着たままで、向かいの彼女は膝掛けを店員からもらっていた。
 元妻の蒼生子とはほぼ没交渉だが、全く交流がないわけではない。一年に一度レベルでこうして向かい合ってお茶をすする日がある。お互いの近況報告義務が課されているわけではないが、話題を持ち寄る。顔を見て姿形を見て、痩せた太った変わった変わらない、ちゃんとごはん食べてる? の確認をする。長年暮らした中での習性がまだすこし残っているようなものだろうか。
 蒼生子は「ハリウッドスター」と答えた。
「へえ?」 
「先生の甥っ子さんなの。高卒でいったん就職したけど、パターンナーになりたくてデザインの専門学校に通ってて」
「学生ってことか。いくつなの?」
「二十四歳。……いまどきの若者、って感じ」
「若いなー」びっくりした。びっくりしすぎてそれしか感想が出てこない。
「紹介された時は頭が金色だった。いまはミドリ。紹介された時にピンクのTシャツを着てたのにびっくりしちゃったの。三倉さんに、ていうか、男の人に、私が絶対に着せて来なかった色着てるって」
「それにやられちゃったんだ?」
 仕方なく、という風に彼女は頷いた。
「なに考えてるのかは伝えてくれるんだけど、あんまり表情にしないし諦めるのも早い。つまんないこととわかんないことがあるとすぐスマホ触るし。世代が違うんだなあって思う。私たちが二つ折りのケータイのアンテナ立てて電波探してたのとおんなじで、いつもWi-Fi探してる」
「はは。面白いこと言うね」
 カラン、とグラスの氷が音を立てた。屋外でもお冷やの氷がなかなかすぐには溶けなくなった。暖は冷めないうちにとホットコーヒーを口にする。
「派手な見た目のハリウッドスターなんてあなたの好みどんぴしゃじゃん。やるなあ」
「でもお付き合いを決めたのはそこじゃなくて。……結局、若さ目当てなの」
 蒼生子はルイボスティーのカップを手で包んだ。縁を覗き込むように俯く。
「先生が、子どもが欲しいなら旦那さんにも体力ないとね、体力はやっぱり若さよってあっけらかんに仰って紹介してくださったの。ばかみたいだと思うんだけど、それはそうだよなあって思っちゃって、」
「……その、金髪くんだかミドリくんだか桃色くんには言った? あなたは子どもを望んでいるんだっていう話を」
 蒼生子は首を振った。
「言えてない。……言うタイミングが分からなくて。その、私のこれまでの価値観をことごとく覆してくるから、経験で太刀打ちできない」
「あー、そういうの最近読んだな」
 暖はパラソルの外側に見える空を見上げた。青空が遠く上まで澄んでいる。
「パソコンやスマホの使えない団塊の世代の話。昔は老年者に知識があったから自然と敬う風潮があったんだけど、いまこの時代じゃ知識量でスマホに勝てる人はいないからね。そういう時代の変化についていけなくて不安になって、不安で常にいっぱいだから急にキレるっていうおじいちゃんの話のコラムをこの間なにかの雑誌で読んだよ。週刊誌だったかな?」
「……私、古いのかな」
「違うちがう。知識量ではスマホにかなわないけれど、実際に経験しているのとしていないのとじゃ全く違うはずなんだ。天気図ならちょっと勉強すれば読めるようになるけど、実際の雲や湿度や風や体感を知らないで気象予報士なんか務まらない。あなたに蓄積した技術や体験はあなたを助けるよ。いまを生きている人はみんな平等に最先端なんだ」
 そういうと蒼生子はようやく顔をあげ、眉根を寄せて目を細めた。
「新聞記者のお仕事は順調そうだね」と言う。
「いまのネタにコラム書けるね、暖。それとももうネタだった?」
「いや、いま喋りながら思いついた。ずっと考えてはいたけどね。ようやく言語化できました。ありがとう、いつか仕事に生かします」
「ぜひ。楽しみにしています」
 頭を下げ合い、しばらくして蒼生子はくつくつと笑い出した。
「どうしたの?」
「いやー暖も、……ごめんなさい、さっきから馴れ馴れしく呼んじゃってるね。三倉さんも、若い人相手に考えることがあるんだろうなって思ったから」
「会社の若いやつと上司と見てるとね」
「違うそっちじゃなくて。鴇田さん」
 不意打ちを喰らったようで言葉に詰まった。
「いや、……確かに若いけど、そうは言ってももうそれなりで」
「元気? まああの人の元気ってどこにあるのか、ちょっと読みづらいけど」
 蒼生子の笑みに暖は苦笑する。
「そうだなあ」
 鴇田の先日の言葉が蘇る。
「経験が太刀打ちできない感覚は、おれもあるな」
 鴇田とはこの秋まともに会っていない。向こうから時間をくれと言われたのは夏の終わりだった。



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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
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