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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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「スポーツクライミング、という競技からは引く。だから、引退っていえば引退」
「……チームには、残るのか?」
「いや、独立する。スポンサー背負って、これからはクライミングに専念するんだ」
「クライミング? いまやってるだろ?」
「ロッククライミング。競技には出ないけどね。ええとさ、スポーツクライミングってのは、競技なわけだから、ルールや、時間や、点数が決められてるじゃん」
 うん、と僕は頷く。綜真がワールドレコードを叩き出したときの試合映像はこの国のどこのテレビ局でも扱ったから、よく目にしていた。たった五秒かそこらで壁を駆け上がっていく、そのときの綜真の柔軟で精悍な競技姿が頭によみがえった。
「そういうのと離れる。ルールも時間も点数にも縛られないところで活動する。まあ、スポンサーついてる以上は結果は出さないといけないけど」
「……どう、なるんだ?」
「世界中の岩っていう岩に、ただ、登る。誰も登頂が成功してないようなところに最短ルートで登りたい。出来ればフリークライミングで。装備上難しいところもあるからリードクライミングもやるけどね。それが、これからの目標で、やろうとしていること」
「……」
「その前に緑哉には会って、どうしても確認しておきたいことがあった。だから同窓会があるって分かってすぐ帰国した。なくても帰国したけど、……石丸にさ、緑哉は来るのかってめちゃくちゃ確認したよ。ロクヤって誰みたいなこと平気で言うからさ。国際電話でおれ怒鳴っちゃった」
「……怒鳴るようなことするのか? 綜真が?」
「短気だもん、おれ。せっかちだし。そういう世界で勝負してきてるし。でもこれからは、それを改める」
 そこへ綜真の追加オーダーが運ばれてきた。ショコラの三点盛りは、この時間だと今日の売り残りをサービスで出すことがある。だから三点の他に、毛色の変わった青いチョコレートがひとつサービスされていた。
「へえ、青いチョコなんてはじめて食うな。でもこれもさ、高いんじゃねえの? ひと粒の値段。サービスで出していいもの?」
「それ、中身が半生だから。明日まで置いとけないんだ」
「それにしてもだよ」
「そういう売り方してるんだ。……それで、なにを改めるの、」
「ああ、そうそう。だからさ、最善の一手ってやつ」
 それを聞いて、思わず顔をあげた。
「おまえさ、将棋指すときも、指さないときも、いっつも言ってたじゃん。最善の一手を指せたらって。これから先最善手だけを指せたらって。おれ、あんまり言葉が得意じゃないから、それをずっと考えてたんだけど、……故障して時間ができて、気づいた。おれが競技でいつも狙ってたのは、自然と、最善手だったんだなって。頭で分かってなくても、身体で狙ってた」
「……」
「最短ルート、最短時間。コースを読んで、どこに手をかけて足を置くかを想像して、試して、それがはまれば、タイトルで、レコード。でも競技でやっていく以上は制約があるから。もう身体ひとつで動ける年齢でもない。これからは頭もつかっていかなきゃなんない。いままでずっと身体の声に耳をすませていた感覚だったんだけど、これからは身体と、脳と、精神の声も聴く。未踏の岩を、どこに手をかけて、足を乗せれば、登れるか。それには頭もつかう。脳の栄養は糖分だ。チョコレートはますます重要になってくるな。この店スポンサーやってくんないかな? ――はは、話それた」
 綜真は笑い、ホットチョコレートを口にしてから、僕の顔を見て「最善の一手を指したい」と言った。
「それを教えてくれたのはおまえだ。卒業式の日にさ、約束した場所におまえいなくて、めちゃくちゃ探した。あの日おれは、一緒に帰ったらなに話そう、どうしてやろうって式のあいだじゅう考えてたからさ。後期選抜で大学受かんなきゃ最善じゃないんだ、ってむつかしい顔して思い詰めてるおまえを、どうやってシフトさせようって。いや、どうやっておれのこと考えさせようかって思ってたんだけど」
「綜真、あの日、僕は」
「おれとじゃ最善じゃないって、怖くなったんだろ。それも分かるよ。あのときおまえは、自分の決めたルートから外れることをすごく怖がってた。あのさ、おれはね。おまえと将棋指してるときの、おまえが、筋を読み違えないように、ってめちゃくちゃ考えてるあの顔がすげー好きでさ。最善手を考えてるときの、静かで真剣で深い顔が」
「綜真、僕は」
「あの顔を覚えてたから、どの試合に出てもなんとかやってこれた。でもこれから先はおまえを確認しないと怖くて進めない。筋を読み違えることは、事故につながることになるから。緑哉、おれは卒業式の続きをちゃんとやり直したい。いま、これから、やり直したい」
 綜真の顔は、筋を読み違えないようにと、ルートを辿る、テレビの中で競技に向かうあれと全く同じだった。慎重に、丁寧に、迅速に、臨む。
 最善手を手繰って進む。僕の最愛は高校のころから全く変わらず僕を惹きつける。
「今夜さ、一緒に帰ろうよ」
 そう言われれば、観念するしかなかった。
「僕は、……本当は、カカオアレルギーなんかじゃなくて、」
 絞るように答えると、綜真はそっと笑って「知ってる」と言った。
「本当は、チョコレートがめちゃくちゃ好きで、でも、……高校のころのクリスマスかなんかで、きみが女の子からもらってたチョコレート菓子を僕に『食う?』とか言ってたのを、意地張って、アレルギーだとかって、誤魔化して、……」
「うん」
「卒業式も逃げちゃったけど、……一緒に帰ればよかったって、ずっと後悔していて。……綜真が、僕が年上でも、冴えなくても、なんでも、無条件に僕を信頼して肯定していてくれたことは、僕にとってすごく、……嬉しいことだったのに、って」
「そっか。よかった。おれも後悔してたから、おんなじ後悔だったんだって分かって、――うん、よかった」
 息をつき、綜真は力を抜いた。そしてテーブルの上にある青いチョコレートを指し、「食べなよ」と言う。
「……食べる、けど、ここじゃ食べない」
「おれと一緒に帰る?」
 僕はテーブルにほとんど沈みながらこくこくと頷く。
「帰る……そうま、と、一緒に、帰る、……」
「やべ、めちゃくちゃかわいいわ。じゃあこれは包んでもらおう」
 すいませーん、と綜真はスタッフに声をかける。これ持ち帰りたいんで包んでください。あと、お会計を。はい、かしこまりました。少々お待ちください。あ、チョコレートって他にも買えるんですか? はい、ご購入いただけますよ。あちらのショーケースよりお選びください。
 その会話を、僕はテーブルに突っ伏してふるえながら聞いていた。だってテーブルの下で綜真の手が僕の手を掴んでいる。手首をぐるっと、離さないように、逃げないように、しっかりと掴んでいる。
 僕の人生。高校は留年して、大学も卒業できなくて、憧れの先生にもなれなかったけれど、大好きなチョコレートの専門店に勤めている。テレビの向こうで笑っていた最愛の人が、いま僕の手をホールドして離さないでいる。
 だから僕は、僕が思うよりずっと最善の一手を指しているみたいだ。そう思って、必死で僕を掴む手を僕も掴み返す。

 ◇

 卒業式の朝早く、図書館へ行くと綜真が窓辺の席に突っ伏していた。
 春はじめの日差しを受けて、そこだけ光っているみたいだった。そうま、と僕は呼ぶ。綜真はふっと顔を上げる。寝てた? と訊くと、本当はずっと起きてた、緑哉が来るのを耳すませて待ってたんだ、とてらいなく答えた。
 ――将棋、今日でもう指せなくなっちゃうな。
 ――いや、指せるよ、多分。
 ――多分ってなんだよ。
 ――えーとさ、だから、なんていうかさ。
 そう言って綜真は僕の手首を取り、そこを支点にしてするりと身体を寄せた。鼻が当たり、息が触れ、短くキスをする。
 ――緑哉、いまの嫌じゃなかっただろ。
 心臓がもたない。すごく痛い。痛い、と思いながら僕は頷いた。
 綜真はものすごく嬉しそうに笑った。
 ――そうだろ、な。今日、一緒に帰ろうよ。
 とても幼い顔で、これ以上の喜びはないという顔で、笑ってそう言った。

end.

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短編は久しぶりでした。楽しかったです。
次回はおそらく冬頃に。


拍手[10回]

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 抜け出すのは簡単だった。僕に話しかける人はほとんどいなかったからだ。それに僕自身もかつてのクラスメイトの顔や名前をほとんど思い出せていなかった。十五年は、それぐらいに長い。ホテルを出て駅前へ向かう途中、まだ繁華の情を残している町のショーウインドウで自分の姿を見た。元が痩せ型だが、ここへ来てますます痩せたな、と思った。秋風を寒く感じたので、カーディガンを羽織って駅の南口へと向かうも、足は重い。
 綜真が僕に気づき、あろうことか特別扱いかのように耳打ちしてきたことは、信じがたい幸運、と思う自分。けれどもうひとりの僕が、うぬぼれるんじゃねえよと僕を蹴りとばす。こんなに冴えない一般人の僕が、人気のスポーツ選手とこれからどうこうなれるわけがない。あれ、そもそもどうこうなることが僕の最善手なのか? 綜真にだっていい人のひとりやふたりは当たり前にいるだろう。あれだけ魅力を備えた人なのだから、周囲が放っておくはずもない。だったら僕が駅に向かう目的ってなんなんだろう。また嫌な気分になるだけなんじゃないのか? 自問自答でぐるぐるしているうちに、大通りに構えた僕の勤め先の明るい暖色の光の前へ来ていた。この店は夜間遅くまで営業していることもまた、売りのひとつなのだ。今日いちにちで疲れた身体へのご褒美に、どうぞ甘いものを。店内はカフェも併設されていて、イートインも出来るようになっている。繁盛するわけだ、とぼんやりする。
 僕に気づいたスタッフはいない。ずっと事務室で電卓をたたく僕のことを、ちゃんと店のスタッフだと認識できる人間が果たしているのかどうか。あの地味な経理の人、ぐらいだろう。こうやって店を正面から眺めていても誰も気づかないもんな、と自嘲気味になってクラシカルにまとめた店内を外から眺めていると、二の腕を後ろからぐっと掴まれてびっくりした。
「南口にいないから逃げられたかと思って探した。……めっちゃくちゃ探した。卒業式の日を思い出したな」
「……綜真、」
「ここが緑哉の勤め先?」
 上田先生から聞いた、と綜真はひっそりと笑った。
「こんな時間までやってるんだ? 遅くまで大変じゃない?」
「僕は経理だから、六時には上がるし、……似合わないだろ、こんな店」
「あのチョコすげー美味かったよ。おれ、チョコレート好きだし。寄ってっていい?」
「あ」
 腕を掴まれたまま綜真に引きずられて店内を正面から堂々とくぐる。僕に気づくスタッフもおらず、だが綜真に気づいたスタッフはいたのか、ほんのりと色を含んだ目配せをしながらショーケースの内側で笑みを浮かべていた。「いらっしゃいませ」
「ここってイートイン出来るんですか?」
「はい、そちらがカフェスペースになっておりますので。オーダーはお席でいただいております」
「こんな時間でも?」
「当店は十時閉店となっております。カフェのラストオーダーは九時半です」
「じゃあ大丈夫か。ふたりね」
「かしこまりました。あいたお席へどうぞ。ただいまメニューお持ちします」
 綜真は席に着くまで僕の二の腕を離してくれなかった。というか、痩せ型とはいえ成人男性の腕をぐるっと掴めてしまう大きなてのひらと長い手指。指や腕にはテーピングテープが巻き、よく使い込んでいることが分かる。さすがワールドクラス、と感心すると同時に、ものすごくドキドキしている僕がいた。心臓が痛くてたまらない。
 綜真は窓際の席を選んだ。道ゆく人が見えるし、道ゆく人も僕らが見えるだろう。そういう、逃げも隠れもできない席を選んだ。世界王者ってのはそういう自信でできているのかもしれない。
「あ」メニューを見ながら綜真は僕を見た。「でもいま思い出した。緑哉ってチョコ食えなかったよね」
「……コーヒー頼むから大丈夫。好きなの頼んで。僕なら社割がきく」
「まじ? じゃあこのショコラ三点盛りってやつと、せっかくだからホットチョコレートにしようかな。すいませーん」
 と声をかけたが、カウンターの辺りでテイクアウトの客相手にソフトクリームを販売しているところに目を留めた。
「あれなに?」と訊く。
「ああ、チョコレートのソフトクリームだよ。夏にチョコレートが売れるように販売してるやつ。素材もリッチに作ってて、ナッツをまぶして、ああやって目の前でチョコレートソースをかけて見せるパフォーマンスもする。人気だよ」
「へえ、美味そうだな」
 やって来たスタッフに「あれもイートインできるんですか?」と訊ね、できますよ、と答えをもらうと「じゃあそれにします」とオーダーした。
「寒くない?」
「寒くないよ、全然。緑哉は寒そうだな」
 笑って綜真は僕のカーディガンをそっと引っ張った。僕はうつむく。
「……日本代表、残念だったな」
 そう言うと、綜真は「知ってんの?」と問いを返した。
「……綜真の情報は、簡単に拾えるだろ」
「あー、うちのチームSNSとかやってるしな。まあ、そうなんだよ。代表入り確実って言われてたけど、故障でだめになった。でもその代わりにうちのチームの若いやつが代表入っていい成績残したし。おれ、あんまり気にしてない」
 さっぱりとした言い口だった。
「年齢的に、最初で最後のオリンピックだろうって騒がれてただろ? これで現役引退か、とかさ」
「そのニュース、僕も読んだ。ネット記事だったけど、……引退、するのか?」
「うん、する」
 あんまりにもすらりと答えるので、こっちが面食らった。その合間を縫うようにオーダーが運ばれてきた。カフェでソフトクリームを頼むと、ソフトクリームは陶製の器に盛られて出てくる。ウエハースとナッツが添えられていて、チョコレートソースは自分でたっぷりとかけられるようになっている。
「おおー、すげ。うまそ」
「美味しいよ」
「え?」
「……と、思うよ」
「先食っていい?」
 どうぞ、と目だけで合図する。綜真はチョコレートソースを上からかける。冷気でたちまちチョコレートは固まる。それが面白さで、売りのひとつなのだ。
 パリパリとチョコレートを口にして、「ん、すごい濃厚」と言った。
 ぱくぱくとあっという間にたいらげて、口の周りを拭う。それから綜真はさきほど頼まなかったショコラ三点盛りとホットチョコレートを追加オーダーした。
 コーヒーをずるずるとすする僕に、綜真は「引退ってか、趣向替え」と答えた。

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 真夏みたいに暑い日で、着て行こうと考えていた秋物のニットは取りやめにして、夏のあいだじゅう着た長そでの薄手のシャツを着た。一応、カーディガンも鞄に突っ込む。年齢を経るにしたがって、昔みたいにアレルギーがひどくなった。主には紫外線で、肌がかゆくなる。女子みたいに日光の対策をしなければならなくなったのは非常に煩わしい。男性用の日傘というものを早々と導入している。
 ホテルの宴会場は、旧友やその家族(女子連中にこぞってくっついているのはおそらく彼女らの子どもなんだろう)の姿で賑わっていた。極力気配を消し、奥の席でちんまりと座っている老年の男性に近づいた。
「上田先生、」
 声をかけると、小柄な先生は「誰や?」と懐かしい方言で訊ねた。大学で関西からこちらへ進学して、そのままこの町で教職を取った先生は、土地の女性と結婚して所帯を持っても一貫して関西弁だった。
「荻原です。あまり覚えてもいらっしゃらないかとは思いますが」
「嘘や嘘、よぉ覚えとるで。忘れるはずないやないか。元気しとるか?」
 先生はからからと笑った。
「なんとか。ご退職おめでとうございます。これ、お祝いになるかどうか」
「おお、くれるんか? 嬉しいなあ。荻原はそやって気遣いの細い子やったな。ほら、黒川のこともな。おおきに」
 職場で贈答用にチョコレートが欲しいんだけど、と言うと、従業員から「荻原さんが?」「なんで?」「彼女か?」「詫びでも入れるの?」と総突っ込みを食らった。
「洒落とるなあ。なんやこれ。チョコ?」
「うわーっ! フラウのショコラじゃん!」
 そう叫んだのは学級長を務めていた石丸、今回の幹事だった。彼は声がでかい。一斉に視線がこちらへ向くのが分かり、嫌になった。
「え、フラウ?」
「あの高級チョコレート店の?」
「まじ? 嘘、あれ持って来たの誰?」
 場がざわつく。だからこそこそしていたのに、と後悔する。先生は「なんや人気なん?」とほがらかに石丸に訊ねる。
「人気ですよー。地元じゃ知らんやついないですよ。値段もいいけど味も超一流。なんだっけ、パティシエがフランスのどっかっていう有名な店で修行してたって言っててー」
「先生! あたし食べたいです!」
「私も!」
「分かった分かった、ほならみんなで分けよか」
 包装を解き、自分の分をひと粒取って先生は箱を石丸に渡す。皆があっという間にそこへ群がった。こういうところの団結力はやたらいいクラスだったことを思い出す。大箱で購入したがすぐになくなってしまいそうだった。
 先生は、「はは、よっぽど人気や」と笑う。
「先生のご家族で、と思って大きな箱で買って来たんですけど、もうひと箱別に買ってくればよかったですね」
「ええのや。みんなが明るい顔して食べとったら菓子も嬉しいやろ。ほんまに美味いチョコやな。フラウいうのは有名なん分かるな」
「僕のいまの勤務先なんです」
「ほお?」
 先生は、のんびりと僕を見た。
「あれだけ教職取りたいって言って入った大学を、僕は卒業できなくて。いまはその、経理をやってます」
「そうかぁ」
「僕が、……病気して一年留年してこのクラスに入ったときも、先生は本当に進路に心を砕いてくださったのに、なんていうか、情けないですね」
「荻原はいまの生活に不満なん?」
「……理想と現実がどんどん乖離していくのに、諦めがつくのが、嫌ですね」
「若い証拠や。これからなんやで」
「……」
「まだ指しとるか?」
 先生の問いをかき消すように、「あーっ、綜真(そうま)―っ!」という声で、心臓がばくっと唸った。血が身体中を駆け巡って痛い。
「遅いっ」
「ニッポン代表を逃した男!」
「ワールドレコード!」
「うるっさいなぁ」
 ちょうど僕と先生のいる場所から対角に、群れが出来た。中心にはひと際背の高い男がいて、皆に囲まれている。ああ、本当に遠くなった。すごく遠い。僕は帰りたい気分になり、その考えを真剣に検討しはじめる。そっと抜ければ誰にも気づかれない。そっと。
 先生に挨拶だけして。ここをそっと。段取りを組みながらも輪の中心から目を離せなかった。昔よりはるかに逞しくなった筋骨を備え、すっきりとした短髪は相変わらずのまま、勧められてチョコレートを口にしている。うまいな、誰が持って来たの? え、誰だっけ。石丸じゃないの? 違うよ、上田先生のとこにいるさあ。上田先生、どこ? あっち。
 顔がこちらを向いて、目が合った。――逃げたい。
 きみの目にいまの僕を写してほしくない。
「――上田先生」
 輪の中心を外れて男は軽い身体でやって来た。先生と挨拶をかわし、こっそり下がろうとする僕を「緑哉も」と逃さなかった。
「久しぶり。元気だった?」
「……なんとか、」
「そっか。今日はさ、おれ」
「綜真―っ! 話を聞かせろよーっ!」
「遠征だったんでしょー?」
「ああもう、うっせぇ!」
 綜真は群れの中心に進む間際、「八時半に駅南口」とそっと僕に耳打ちした。

 高校二年に進学して、幼少期にしか現れていなかったアトピーが酷くなった。とにかくいろんなものを刺激と受け取り、全身が真っ赤に腫れ、それは呼吸器へも及んだ。入院治療を余儀なくされ、ようやく学校へ戻れたころ、級友たちは卒業していき、僕は留年が決定した。
 ひとつ上の学年だったことは、クラスメイトたちにとっては戸惑う存在であったらしい。僕自身も戸惑った。どう接していいのかお互いにつかめず、たまの会話は敬語で「荻原さん」と呼ばれた。教室にいるのが苦痛で、僕はよく図書館で過ごした。図書館の司書教諭を上田先生が務めてらしたので、先生が誘ってくれたのだ。
 僕と先生は、よく将棋を指した。司書室に将棋盤を持ち込んだのは前任者だと聞いたが、先生と盤に向かいながらぽつぽつと話すことは、居心地の悪い場所から僕を解き放った。そして上田先生が司書室にいるからと、級友たちは先生に用があるときだけ図書館へやって来た。将棋を指していく生徒はいなかったが、その中に綜真はもちろんいた。
 黒川綜真。いまのように「スポーツクライミング」とか「オリンピック競技」とされる前からずっと、彼はその世界にいた。小学生でボルダリングをはじめ、中学生のころにはジュニアの世界大会で優勝し、シニアの大会にも出場するようになったほどだ。好成績は国内ではとどまらず、遠征だ、世界大会だと言ってよく授業を休んでいた。出席が危うい彼を上田先生は当然ながら面倒を見ていたので、図書館へ来る回数は時間が許せば他の生徒よりも多かった。
 レポートを手伝ってやってくれ、と言われたのがはじまりだった。綜真は五教科全般に苦労していたので(出席が足りていなければ無理もない話だった)、学年上位にいた僕は彼に与えられた特別課題を彼と一緒にこなすようになった。綜真はひとつ年上の僕にも敬語をつかわなかった。世界大会だのなんだのでクラスの状況を構っていられる場合じゃなかったのだろうとは思う。でも僕を当たり前に「緑哉」と名前で呼んで慕ってくれることが、僕には本当に嬉しかったし、救われたようにも思っていた。
 上田先生がいなくても、僕がいれば、綜真は図書館で長居するようになった。将棋もたまに指した。綜真も僕も初心者は同じで、でもこんなにお互いの立場や状況も異なるのに、盤の前では平等に立てるんだと思えることは、僕に安心感をもたらした。
 最善の一手を尽くしたい、と僕は思っていたし、よく言っていた。留年したからこそここから先はなにひとつ取りこぼすことなくやりたいと思っていたのだ。そうでないと道を踏み誤る。これから先、僕は大学進学を果たし、教職を取って、この町で教員になる。もしくは公務員でやっていく。そう決めきっていたし、だから綜真に惹かれていく自分自身のことを見ないふりをしていたし、とてもじゃないけど直視できなかった。
 綜真は、僕といるときはあんまり言葉を発しない人で、雰囲気としては時代劇に出てくるような、物静かで腕の立つ侍、という印象を与えた。僕はおしゃべりが得意ではなかったから、綜真と言葉を交わさずとも将棋を指せることや、レポートに向かえることは、心地よかった。そしてその若い侍は、僕にとって非常に魅力的だった。否、学校じゅうの誰にとっても魅力的だっただろう。大きくて長い手足が。必要な筋肉だけを備えた身体が。精悍に引き締まり、日に焼けた顔が。それでも話しかけると、ほろっと表情を崩して十八歳の少年に戻る、それへの愛着が。
 どんどん惹かれていった。綜真目当てでクラスメイトどころか他のクラスの女子まで図書館へやって来ると、すごく嫌な気持ちになった。自分の性別を呪い、性癖を呪った。こんなはずじゃない、と心を否定した。思春期特有の。ちょっとぶれているだけで。綜真はただのクラスメイト。僕は女性を愛せるはずだ。
 最善の一手を尽くすためには、この感情を認めてはいけない。
 卒業が迫るころ、僕は大学の前期選抜に落ちて、後期選抜でなんとしても受からねば、というプレッシャーで必死に勉強していた。綜真は体育系の大学にスポーツ推薦で受かっていて、海外遠征などに出掛けていた。帰国して会ったのは、卒業式の日だった。
 ――今日、一緒に帰ろうよ。
 あの日の綜真に、僕はやっぱり応えることは出来ない、と思う。綜真、僕はさ、大学すら卒業できなかったんだよ、と。
 世界大会でワールドレコードを記録して日本中を沸かせた綜真に、合わせる顔なんてとてもじゃないけど持たない。

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 最善の人生を、と思って生きているのに、僕は間違ってばっかりだ。性別も、嗜好も、生活も。少年のころに夢見ていたなにごとも果たせず、後悔の連続で生きている。
 僕ほど僕のことを嫌いな人間はいない。
 ――緑哉(ろくや)、いまの、嫌じゃなかっただろ。
 ある日突然思いだす記憶、というものはある。フラッシュバック、というものだろうか。そのふたつ折りのはがきの往信部を見たとき、あの日あのままのあの声が、僕の耳元を掠めた。ひと際長い手足、確かな筋力を備えた身体と、ちょっと掠れた低い声で、僕にそう言ったあの少年。
 高校三年生の最後の春だった。あのとき、そっと頷いた僕に、彼は笑って「そうだろ」と言ってみせた。
 ――今日、一緒に帰ろうよ。
 そう言われたのに、怖くて、むずがゆくて、恥ずかしくて、やっぱり怖くて、僕はひっそりとひとりで帰った。あのとき一緒に帰っていれば最善手は手に出来たのかと、いまでも不意に考えてしまう。
 本来ならばこんなのは丸をしない。でも思い出してしまった。これは最善の一手になるのだろうか。そう疑問に思いながら、返信部分を切り取り、出席に丸をして近所のポストに投函した。


『青葉西高等学校四十期生A組 同窓会のお知らせ
 暑さ厳しい折、皆さまにおかれましてはさぞやご健康にお過ごしのことと存じます。
 さてこのたび我々青葉西高等学校四十期生A組の卒業十五年を記念しまして、同窓会を開催いたします。改めて交流を深め、友好を築きましょう。なお、この同窓会は我々の担任だった上田先生のご退職記念も兼ねております。皆さまの参加をお待ちしております。
 参加・不参加のご意向を、八月十五日までにご返信くださいますようお願いいたします。
 期日 九月十五日 十七時~
 場所 ブルーリーフホテル 小宴会場「梅の間」(ご宿泊も可能です。幹事までお問い合わせを!)
 
お問い合わせ
幹事:A組元学級長・石丸/副学級長・戸田(旧姓・野口)
Mail:×××-ishimaru@×××.co.jp
Phone:080-××××-××××』


「荻原さーん、この領収書もお願いしまーす」
 そう言って顔を出したのは、この春出来た二号店のフロア勤務になった後輩だった。
 僕が勤めているのは、菓子店だ。元は裏通りの一角のビルに入るちいさな菓子店だったのが、フランス帰りの息子の手腕でチョコレートが美味しいと評判になり、そちらへ主軸を移したのが十年前。規模が大きくなり、店舗を大通りの大きなフロアに移してチョコレート専門店として再オープンし、とどまることを知らない勢いで、二号店が国道沿いにもオープンした。
 チョコレート専門店、とは言っても、僕はチョコレートのことをほとんどなにも知らない。僕は一号店の移転の際に、経理スタッフとして雇われた。店の事務所で毎日電卓とエクセルを叩いている。二号店には経理スタッフを置いていない。だからこうして、二号店の従業員が日に一度、領収書と売り上げ伝票の束を持ってやって来る。
 オーナーには二号店にも経理を置くように頼んでいるが、「オギハラの処理能力がいいもんで」となかなか取り合ってもらえない。
 大学を卒業する予定だった。本当は。けれど実家の商売が立ちゆかなくなり、一家は離散、大学に通っていられなくなった。教員になりたかった僕の夢はついえ、大学を辞めてアルバイトに次ぐアルバイトの日々を送った。その中で職業訓練校に通い、経理関連の資格をいくつか取った。その訓練校の斡旋でいまの職に就いている。はじめは菓子店の経理なんて大したもんじゃないと思っていたが、正社員で雇ってもらえて、社会保障もきちんとしていた。ボーナスも出る。だからチョコレートに詳しくなくても、これはこれで一手だったのだと思っている。思い描いていた最善ではなかったけれど、ひとまず、いまは、これで。
 真夏はチョコレートの販売業績が落ちる。それを補うためにチョコレートのソフトクリーム販売を去年からはじめた。ちょっと高級感を出して、いいお値段で。リッチな見た目と味で、これがけっこう売れる。ソフトクリーム目当ての客がつまむようにチョコレートも買っていくので、店はますます繁盛している。
 領収書を持って来た後輩はそのまま戻る気はないようで、調理場へ行ったかと思うと手にチョコレートをいくつか乗った皿を持って戻って来た。
「秋に向けての新作の試作、だそうですよ。マロンとくるみ」
「……僕は結構ですので」
「え、美味しいのに」
「田仲ぁ」
 事務室へやって来たのはオーナーだった。
「オギハラはチョコレート食わねんだよ」
「嘘でしょ? こんなとこ勤めてて?」
「経理には関係ないからいいんだと。カカオアレルギーだって」
「ええー、よくこんなとこ就職先に選びましたね」
 後輩はへらりと笑った。
「おれチョコレート超好きでこの店のバイト募集の貼り紙で大興奮したのにさあ」
「しょうがねえだろ、体質なんだから。それにこの店にオギハラの能力はなくてはならない存在なんですー。オギハラ、早いとこ次のシフトの希望休出せよ。って店長からことづて」
 後輩とオーナーは新作をつまみながら事務室を去った。僕はふう、と息をつく。希望休なんていつも取らない。別にいままで通り勝手気ままにシフトを組んでもらえば問題ない。調理スタッフでもなければ、フロアスタッフでもないし。
 ――緑哉。
「――あ、」
 そういえば同窓会っていつだっけ。なんかもう面倒くさくなってきている。あのときどうして僕ははがきに丸をしたんだっけ。会えると期待でもしたのだろうか。あの子、あの人に、会えるなんて限らないし、会えたとして、本当に遠くへ行ってしまった存在なのだし。
 鞄を探って同窓会のお知らせはがきを取り出す。日付を確認した。最善の一手を。でも僕は間違えてばかりいる。

→ 


拍手[7回]

書いている間に聴いていたもの、
もしくは物語の中にも登場した音楽です。かなりたくさんの楽曲を聴き散らかしながら書いていました。作中で紹介できなかったものもひっくるめて一覧にいたしましたので、興味のある方はぜひ音源を探してみてください。

また、全編に渡って星野源さんの「Ain't nobody know」を聴いていました。
MVが素晴らしいのでリンクを貼っておきます。心からおすすめいたします。


Over the rainbow
Raindrops Keep Fallin’ On My Head(雨にぬれても)
あめのひとぼく/谷川賢作
水琴窟/東京スカパラダイスオーケストラ
Here`s That Rainy Day
Tea For Two
Danny Boy
Beauty and the beast
Ribbon in the sky/スティーヴィー・ワンダー
組曲「鏡」3.海原の小舟/ラヴェル
月の光/ドビュッシー
Kiss From A Rose/ Seal
Libertango/アストル・ピアソラ
亜麻色の髪の乙女/ドビュッシー
ハイヌミカゼ/元ちとせ
Human nature/マイケル・ジャクソン
ラプソディー・イン・ブルー
Tiger On San Pedro
ルパン三世のテーマ
アイネクライネナハトムジーク第一楽章・アレグロ/モーツァルト
きらきら星変奏曲
魔笛 夜の女王のアリア
The Snow/エドワード・エルガー
English man in New York/スティング
Christ Child Lullaby
Wonderful christmas time/ポール・マッカートニー
椰子の実
salve regina

Ain’t nobody know/星野源





この物語の構想自体はかなり以前よりあったのですが、何度も書き直し、なかなか公開には至りませんでした。
まとまって書く時間が取れたのは皮肉にもコロナ禍で私自身の仕事にも影響が出てしまった時でした。「触れること」をテーマのひとつに置きましたが、こんな状況になってますます躊躇われる他人との接触や、遠くなる距離感のことをとても考えました。
ひどい話を書いている自覚があり、これを書き上げたらもう文章は書かないかもしれない、と一時は思いました。けれど私の中にまだ種はあり、また自身の力不足も痛感しており、思うような表現に至らなかった後悔と「書きたい」衝動が、おそらく次へと私を進ませると思います。

お付き合いくださった皆様には心からの感謝しかありません。
そして気まぐれ更新ではありますが、これからもお付き合いくださると幸いです。

この災厄が治まることを願い、
また読んでくださったあなたが大切にしている人との距離感が狂ってしまうことのないように、
お祈りしております。
どうか健康にお過ごしください。またお会いしましょう。


2020年11月 粟津原栗子




拍手[11回]

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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