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成人女性を対象とした自作小説を置いています。
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 布団はいつも通り、ベッドとベッド下に用意する。透馬が上で瑛佑が下。室内灯を消しても、枕元にスタンドを用意してしばらく本を読んでいた。秀実の失恋会の際に高坂から借りたミステリーをまだ読み切っていない。こういうものは途切れ途切れで読んではだめだと分かっていて細切れに読んでしまい、時間がいつまでもかかっている。
 さすがに眠くなって電気を消そうとすると、透馬が瑛佑の名前を呼んだ。先に寝たと思っていた。ベッド上を見ると、透馬が寝そべったままこちらを見ているのが暖色の明かりの下で分かった。
「……眠れないか」
「……いや、」
「……一緒に寝たい?」
 キスも出来ないままの淡いつきあいだが、始めてみて分かったのは、透馬は睡眠までの導入が長いようだ、ということ。それから要望を口にすることをためらう。くっついて寝たい、とでも言えばいいのに、一歩引く。
 もう一度言い聞かせるように「一緒に寝よう」と言い、布団から離れる。ちょっとそっち詰めて、とベッドに潜れば透馬は窓際へ身体をずらし、声をあげて笑った。
 もうひとつ分かったことがある。体温がちょっと低い。身体がいつも冷たい。
 瑛佑の体温が高いのか、と思ったが、透馬の平熱が三十六度を下回ると聞いて、あ、そりゃ寒い、と思った。そういえば、指先はいつも冷たい。先程風呂に入って温まったと思った手足は、ひんやりとつめたかった。
「こんなんじゃ眠れないだろう」
 広めのものをつかっているとは言え、シングルベッドに二人は狭い。横向きで向き合いながら指に触れると、透馬は「瑛佑さんが熱いんですよ」と反論した。
「運動して筋力つけて代謝あげると、平熱も上がって来るものらしいよ」
「ええー……」透馬は運動が苦手、だという。「やっぱ鍛えないとだめすかね。ヒデくんとこ?」
「別に秀実のところじゃなくても。職場にサークルとか、ないの?」
「バレーボールぐらいはあるみたいですけど、あんまり職場の人間でつるんだりしないですよ」
 息のかかる距離でぼそぼそと会話をする。触っているうちに透馬の体温がじわじわと上がって来るのが分かって、安心する。
 喋っているうちに眠くなってきた。目の前に横たわっている透馬が、大きくなったり小さくなったりする。単純に身体と身体が足し算されているから、足先からぬくい。透馬が「瑛佑さん」と呼んだのも、夢の中なのか現実なのか判別がつかなかった。
 くちびるにひどくやわらかいものが当たった。キスだった。
 驚いて目を見開くと、もう少し、という風にくちびるを押し付けてきて、離れた。すぐさま照れてあっちの方向へ向くので、毛布を巻き込んで持って行かれて瑛佑の足がはみ出てしまった。「おい」と声をかけると、「おやすみ」と返ってくる。「透馬」と呼んでも応えない。
 毛布を引っ張った際に触れた透馬の頬は火照って熱く、また照れてんのか、と思うと瑛佑も急に恥ずかしくなった。
 身動き取れないまま固まっていると、透馬が身じろいで、くるりとこちらを向いた。額と額が触れて吐息と吐息が混ざったので、もう一度、かるくキスをした。久々の、夢中になる感触だ。飼い猫と分かち合う体温もいいが、しっかりと頼りあるものに触れて発する熱もいい。
 手をつないで眠った。夜半、透馬のしっかりと深い寝息を眠りと眠りの合間に聞いた。吐息までちゃんと温かかった。


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 その週末、透馬が部屋にやって来た。瑛佑は仕事だったが、「トーフ撫でたい」と言う。早朝、瑛佑の出勤間際にやって来て、今日いちにち部屋にいていいかと訊かれた。構わない、と答えるととても嬉しそうな顔をして、夕飯は任せといてよと言って送り出される。あれか、夏人の言っていた「気合いれためし」が出てくるのか。楽しみでもあり、やっぱりちょっと恥ずかしかった。
 透馬がそうであろうとしているのか、言ってしまえば「便利」だった。瑛佑のいない週末でも飼い猫と留守番をしてくれていて、洗濯も掃除もやらんでいいと言うのに「楽しいから」と言ってやってくれる。帰宅すると風呂が沸いていてめしが炊けている。ありがたい、よりは便利。無理しているんじゃないかと申し訳なさが先立ち、帰宅後、せめて夕食の食器洗いは引き受けて、風呂から上がった透馬に訊いた。「がんばりすぎてないか?」
「いやだって、頑張るしかないんですよ、おれは」髪をがしがしと拭きながら、透馬はあっさりと言った。
「瑛佑さん、おれと付き合ってくれてるけど、好きだーって気持ちよりは同情? の方が大きそうだから。なんとか頑張って、おれの魅力に惚れていただかないと」
 そこには少々の気後れがあることは確かだ。だが「恋愛」と「便利」はイコールにならない。特にいまの状況では。
「……でもさ、それと、おれの生活のあれこれを透馬が引き受けるのとでは違うよ」
「んん、……瑛佑さんが気にするなら、やめます……けど、がんばる、ってところとは別でさ。楽しくてやってんですよ」
「……その楽しいってのさ、なにが楽しい?」
 瑛佑の問いに、透馬は「ん?」と微笑んだ。
「瑛佑さん、この服よく着てるよなーって思いながら洗濯すんのも、ふかふかになるまで布団干すのも、合間に瑛佑さんが読んでる雑誌や新聞めくってうわこの人英字読んでるよ、ってびびんのも、全部たのしい」
 そう言われると、それでいいのか、と思えた。
「なら、いい。でもあんまり便利になって当たり前になるの嫌だから、ほどほどに手ぇ抜いて」
「はは、了解した。あ、でもめしは手抜きしないで頑張ってていいすか?」
「それは全然。というか、それ一番うれしい」
 いよっしゃ、と透馬は笑った。それからふと真顔になり、なったかと思いきや表情をくしゃりと歪め、「おれ、すげー必死で恥ずかしい」とタオルをかぶったまま椅子に沈み込んだ。
 傍に寄ると、手を取られた。入浴後なのでしっとりと熱い。
「瑛佑さん、」
「なに」
「好きだよ」
 夏人から話を聞いた後だからだろうか、高坂の台詞がわんわんとしているせいだろうか。当人を前に言われるせいだろうか。電話の終わりの「好き」よりもずしりと重たく感じた。
 手を取ったまま、瑛佑の腹に頭をぽすっとくっつける。ちょうどいい位置に頭が来たので、透馬の髪をタオルで拭いた。
 うう、と透馬が唸った。髪を拭われながら悩ましく唸っているので、なに、と笑ったら「キスがしたい」と言われ、手が止まった。即座に「すいません」と言われ慌てて顔を上げさせた。
「あのさ、だから謝るなよ、それは違うからな」
「……ありがとう」
「うん。いいよ、キス。しよう」
「……うえっ!!?」
「うえっ、て」変な声で呻かれたので、さすがに渋い心持ちになった。
「いや、びっくりしたんで…して、いいんですか」
「ああ、……うん、」
 位置からして、瑛佑から顔を下げるしかない。屈み込むように透馬に顔を近付ける。あまりためらいはなかったが、目が開かれたままでやりにくい。吐息が触れ合う距離まで来ると、透馬がびくっと肩をひきつらせた。
 みるみる耳まで赤くして、火照りが瑛佑にも感じられるぐらい発熱した。うつったかのように瑛佑も照れた。寸前で二人で顔を赤くして、片や不倫までも経験し終えた大人の男がやるにはあまりにもうぶで、それ以上が出来なくなった。
 瑛佑の顔の下で、透馬が「うわっ」と叫んで手で顔を覆い隠してしまった。瑛佑も天井を仰ぐように背中を逸らせ、透馬から一歩引く。一体なんだ、これ。初恋の時だってこんなに照れたりはしなかった。
 腹の奥が妙にじくじくとあまく、むず痒い。
 心臓を鳴らせながら透馬を見下ろすと、透馬は顔を覆い隠したまま震えている。よく観察すれば笑っていた。やがて声をあげ、「うーわもう、もだえ死ぬ」と言う。
「瑛佑さん、男前すぎてやりにくい」
「ええ? そんな理由か?」透馬が恥ずかしがったポイントがよく理解できないまま、発熱で赤くなった頬を瑛佑も自分で擦った。
「潔すぎ」
「そうか?」
「そうすよ。結論決まると一直線ですよね。こないだだって靴買う時にさ、どっちの色にするか迷って、うわーおれだったらこの場で決めらんないなーと思ったのに、すぱっと『両方ください』ですもん。あれ、すげえなこの人、と思った」
「別にすごかないよ」
「優柔不断のおれには信じられない潔さ」
 キスはしないままだったけれど、透馬が楽しそうに笑って話すからこれでよかった、と思った。


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 付き合いはじめの一か月は無難に、というか今まで通りに日が過ぎた。透馬が瑛佑の部屋へやって来て、夕飯を作ってくれたり、DVDを見たりゲームをしたり、泊まっていったりする。だがそれはそれまでと同じ範疇で、会う頻度が特別多くなったわけでもなかった。
 メールはたくさんした。時間が許せば、電話もした。これも今までと変わらず、主に透馬が一方的に喋り瑛佑が聞いている図式だ。ただ、電話の最後に透馬の言う「好きだよ」にはなんとも答え難く、「うん」としか頷けないでいるのが現状だ。
 誰かに報告するほどのことでもないと思っていたが、高坂には話した。ちょうど時間が合ってどこか飲みに行くかという話になり、どうせならうちに来いよと言われ、高坂の自宅で飲んだ。夏人は仕事でいなかった。「いい人できたか」の裏のない聞き方にそこで首を横に振るのも不自然な気がして、話した。
 透馬と付き合っている、と言うと、高坂は面食らっていた。「そりゃおまえ」で一度絶句し、手元に残っていたアイルランドビールを一気に飲み干して、「良かった、な?」と疑問形で瑛佑を覗き込んだ。
「驚かせましたね」
「だっておまえ、そっちもいける人間だと思わなかったから……ってまあ、そっか。そうだよな、その辺りなんていうか、リベラルだったな」
「おれもこうなるとは思いませんでした」
「好きなの?」
「……好きか、と訊かれるとまだ、」
 瑛佑の歯切れ悪い答えに、高坂は「押し切られたか」と天井を仰いだ。
「そういうわけではないですよ」
「あんまり……勧めないけどな。おれだったら、おまえを好きになった時点で絶対に辛い、から諦める」
「どうしてです?」
「そりゃ女いけるからだよ。毎日どこの女にかっさらわれるか分かんないのに想い続けてるなんて、発狂して死ぬ方が先だよ」
 そこまで言うだろうか、と驚いた。恋など、何年もしていないから感覚が鈍くなっているのかもしれなかった。男が女が、というよりも透馬と、なんだと思っている。透馬個人のことを嫌とは思わない。傍にいてくつろいで笑うならそれがいい。
「夏人がヘテロだったら、諦めました?」
 その質問にも高坂は「諦める」と答えた。きっぱりとした口調がやけに痛々しい。高坂と夏人の経緯をよくは知らないが、高坂も後ろ向きな人間なんだな、とビールを舐めながら思った。
「――てか、男同士でなにをどうやんのか、わかってる?」
「なにをどう、とは」
「まさか青井透馬だって、お手て繋いで寝るだけでしあわせです、とは思っちゃいないだろ」
 高坂の台詞に、思わずグラスを口元に運ぶ手が止まった。実のところあまり考えていなかった。透馬をどう笑わせるかに腐心しすぎていて。
 高坂に言われると急に現実味を帯びる。男同士のやり方、セオリーがあるかどうか知らないが、知識としてはぼんやりと知っている。聞いた話で、ぐらいだ。それを透馬と自分が実践するのだと思うとつい考え込んでしまう。嫌悪感はないのだけど、戸惑いやためらいはきっとある。
 高坂が「悪い、いじめすぎた」と黙考を続けている瑛佑に笑った。
「ま、カップルの数だけかたちややり方があるんだし。しあわせにやっといてよ」
 そう結んで、ふと玄関先に目をやる。ほぼ同時に夏人が帰宅した。腕時計を確認すると、いつの間にか午前一時をまわっていた。
「夏、夏、」高坂が途端に意地悪い顔で夏人を呼び寄せた。「瑛佑、いい人出来たらしいぞ。しかも相手がさ。聞いてやれよ」
「うん、本人から聞いた」至って静かに夏人が答えた。思わず瑛佑も顔を上げる。
「あれ、そうなのか。本人って、」
「透馬くん」
「ほんとだ、本人だ」高坂が頷く。そう言われると、恥ずかしい。
「この間、夜だったな。店に来たんだ。客の少ない夜で余裕があったから、話をした」
「いつの間に」高坂が答えたが、心の中で瑛佑も同じ相槌を打っていた。
「手料理で意中の人を落とすのはアリですか、って真面目な顔で訊かれて、うちでやってる料理教室の案内をしたよ。彼、料理するんだよな。面白かったよ」
「面白かった、って?」
「こんな気合いれてめし作ろう、ってのははじめてだって。浮かれてんだか悲しいんだか分かんなくて、ここ痛い、もたないですって顔しかめてた。その様子がさ、微笑ましかったっていうか」
 夏人は胸の真ん中をとんと突いて瑛佑を見た。他人の目から見た透馬を聞かされると、ゆらゆらと心許ない気持ちになった。高坂が「ふうん」とにやけた顔を瑛佑に向ける。


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三鷹


 祖父母に関する忌引きだと三日認められるらしかった。それを丸々つかって、三鷹は実家に顔を出している。葬式は終えて、今日は家の片付けをしている。祖父の遺品を母と分け、重たい荷を運ぶ役目を引き受ける。
 その母親はいま夕飯の買い物に出かけて留守だ。留守中に来客があった。「遠野」と名乗る五十代半ばと見える男は背が高く痩せ形で、喪服には埃ひとつない。「先生が亡くなったと新聞で見まして、お線香だけでも」と言うので家に引き入れた。生前の祖父は書道教室をひらいており、祖父を「先生」と慕う人間は多かったので不信はなかった。
 遠野、という音の響きがルームメイトの名前とよく似ていて、不覚にも思い出してせつなくなった。
 シェアメイトのコウノのことが三鷹は好きだった。三鷹にとっては初めて本気で好きになった人だった。初めてが男かよ。しかも彼女持ちでさ――恋の喜びと苦みは同時に訪れた。恋を自覚した当初はこれは気のせいだと信じて他に恋人をつくろうと試みたが、どれもうまくゆかなかった。いつだって三鷹の心を占めているのはコウノの存在で、それに気付いた相手はだれもかれも三鷹の元からいなくなった。
 コウノのどこが好きかと言えば、生意気を叩くくちびるが魅力的だ。性根が曲がっていて、いつも意地悪いことを考えていそうな目つきとか。思いがけず素直になる瞬間があって、人恋しくなると傍に近寄ってきて三鷹の髪を触りたがる癖も可愛かった。寝起きの掠れた声も、細い腰つきも、人を小ばかにする時の「は」という乾いた笑い方もあるいは真面目に答えようとして不機嫌にしか返せないものの言い方も、全部。
 コウノのことを思い出してぼうっとしていると、焼香を終えた遠野が「ありがとうございました」と三鷹に声をかけて、はっとした。そういえばずいぶんと長く手を合わせていた。祭壇の前に用意した小盆に乗せられた、遠野が持参した菓子と香典をとっさに確かめる。香典をくれた人には帰り際に返礼品を渡しなさい、ときつく言い含められていたからだ。
 「御仏前 遠野誓日」と香典に書かれていた。なんと読んでいいのか分からず、訝しげな視線の先を読んだ遠野が「ああ、ちかひ、と読みます」と答えた。
「偽名でもなんでもないんですが、ちょっとためらいのある名前で」
「いえ、素敵な名前だと思います。……あの、祖父とはどのような繋がりで?」
「書を教わっていました。私は、先生が教室を開くようになって、かなり初期の生徒だったんです」
「ということは、祖父が会社を辞めた頃だから、……四十年以上も前でしょうか、」
「ええ、あの頃は当然ですが先生も若く、溌剌とされていて、大きな筆で豪胆な字をお書きになった。まだ少年だった私には、それが魅力的に映りまして。祖母に頼んで、教室に通わせてもらって、夢中で。社会人になっても教室には通いました。結婚と同時にここを離れたので、それきりなんですが」
 それからふと遠野は三鷹を見て、「似てらっしゃいますね」と懐かしそうに言った。
「眉や目元がそっくりですね」
「よく言われます」
「そうでしょう。あなたと同じようにはっきりとした顔立ちをされていた。勢いのある性格で、快活に笑って、その通りの字を書く方で…着物の袖を紐でくるりと括って墨を擦る、あの右手がとても…なんというか、」
 憧れでした、と言葉に詰まりながら遠野が言う。単純な師弟関係だけでは築けない強固な絆を、そこで見た。絆? 違う、もっと湿ってうすら暗いなにか。
 遠野の言葉や様子から、三鷹はある手記を思い出していた。



 私とCとの事を書いておこうと思う。書いておかねば、私のこころが落ち着かないからだ。こころの整理が出来ないからだ。この先、嘘無く正直に生きてゆくためにここにCとの事を書く。ここに書くことは一生誰にも告げない事とする。
 Cと私には何もなかったのだし、決定的な何かがあった。
 Cは初め私の生徒の一人であった。出会った頃はまだ、十三・四だったと思う。先生、と屈託ない声で私を呼び、私が褒めると大袈裟でなく頬を染めて喜び、私が修正を入れると、手をじっと見詰めてくるのだ。穴が開いてしまうよと冗談で言った事がある。Cは私に「私の視線で先生に穴が開くのであれば、先生はとうに穴だらけです」と真面目に答えた。
 それで恋に気付いた。Cは細く白く、長い指を持っていて、私はそれに年甲斐もなく胸を高鳴らせていた。もっとあけすけに言うのであれば欲望を感じていた。二十も歳の離れた、子供とも言えるCに対して。あの指を穢してみたいと思っていた。墨で汚れるのではなく、私の乱暴で汚れればいいと思っていた。
 その様を夢にまで見た時は、隣に眠る妻を裏切ったのだとはっきりと自覚できた。
 Cが大人になるにつれて、私の願望は切実なものになっていった。そしてCからの情熱もまた、烈しく感じられた。私達は展覧会だコンクール出品の準備だと言って敢えて遅くまで教室に残る事が多くなった。示し合わせたのではないが、私の願望をCは知っていた様に思う。その頃にはもうCに教える事柄はなく、私の教室を手伝って貰っていた。
 夜遅くまでかかって過ごすCとの時間が、私達には至福だった。好きなだけ好きな事を語らい、目を見合って、書に没頭する。Cとの時間を思い出す時、私は必ず墨の匂いを感じる。Cが纏わせていたのか私が纏わせていたのか、両方だったのか。
 或る日のCはおかしかった。どことなく気鬱に瞳を伏せ、溜息を吐きかけてははっと顔を上げ私を見る。何かあったのか、と昼間の教室で聞くのも躊躇われ、二人きりになるまで私は何も声を掛けられなかった。夜、Cの方から私に近寄って来た。「腕に触れていいですか」と震える声で言った。あまりの切羽詰った様子に私が思わず肯くと、私の右腕にそっと触れ、弱々しいながらもはっきりと「結婚が決まりました」と言った。
 私は息を飲んだ。
 ついては私に席次表の字をお願いしたい、とCは言った。その間もずっと震えていた。右腕から伝わるCの体温の低さが憐れでならなかった。私の腕を掴んで震えるCの手を、私は上から握った。
 おめでとう、と私は祝いの言葉を述べた。Cの震えは止まらない。教室の、書道用の下敷きを一面に敷いた床が視界の端に映った時、私はCを押し倒し獣の行為に耽る己を想像した。そうしてしまわなかったのは、やはりCが震えていたからだった。私は臆病で、Cを想う以上に罪悪に心を占められていた。
 Cが私の右腕を掴む力が、強くなる。後で見ればそこはみみず腫れになっていた。震えているCの頭を掴んで、私はCを抱き寄せた。子をあやすようにCの髪を撫でた。
「幸せな家庭を築いてください、間違っても、道を外さぬように」
 私は言った。Cはほとんど泣きながら頷いていた。
 あれは私自身への言葉であった。本当にCに伝えたいのは、「君を愛す」の言葉であった。
 あれ以来Cは教室に来なかった。席次表は書いていない。
 未だ夢に見ると言うのだから、Cは呆れるだろうか。


 


 
 初め、祖父の遺したその手帳の中身を読んだとき、誰よりも早く発見したのが自分で良かったと三鷹は思った。それからCの正体を想像した。どんな女性だろうかと。家族に訊けば教室を手伝っていた女性の身元ぐらいすぐ判明しそうだったが、想像にとどめあえて訊ねはしなかった。
 そのCとは遠野のことだろう、と遠野の言動で想像した。女性であると思い込んでいたが、そうであるとすれば、祖父とCとがごくプラトニックであったことがうまくつながらない。歳が離れていたから? 妻子がすでにいたから? だが遠野をCとするならばことはすんなりと腑に落ちる。三鷹も同じく、同性を好きでいるからだ。
 あの手記は三鷹の鞄の中にある。とっさにそこに隠しこんだ。遠野にそれを告げるべきかどうか迷った。まだ遠野=Cであるという確証はない。
 それに亡くなった人間の遺した未練など貰って嬉しいものだろうか? 邂逅も意思の疎通も、会話さえももう絶対に叶わないと分かる。あのまま過ぎ去った思い出にさせておいた方がいいのではないか。
 だが三鷹はコウノを思い浮かべた。三鷹を置いて結婚してしまったコウノ。いまコウノが死んでしまったり、あるいはもう二度と会えなくなったとして、コウノが三鷹を想っていたという証拠が残されているのならば、どんな小さなものでもいいから三鷹は知りたいと思った。三鷹も男だ、受け止めるだけの度量なら、意地でも広げてやる。
 そろそろこれで、と靴を履いて出てゆこうとする遠野を呼び止めた。
「――祖父のことをどう思っていましたか?」
 三鷹の質問に遠野はとっさに顔を歪めた。それから表情と背筋を正し「素晴らしい方だったと思います」と答えた。孫の真意が見えないから、体裁を取り繕うような答えを。
 三鷹は慌てて「本心を教えてください」と付け足した。遠野はうつむいて考え込み、やがて細い、だがしっかりとした口調で「お慕いしておりました」と答えた。
 その答えで十分だと思った。三鷹は遠野を引き止め、家屋内に置いていた鞄から祖父の手帳を引っ張り出して遠野に押し付けた。
 ページをぱらぱらとめくっていた遠野は、ある部分にやがて気付いた。手を止めて、そこをしっかりと読んだ。家の軒先に立ったまま、真白い顔色のまま真剣に読みふける。
 その場に遠野はうずくまった。「先生、」と祈るような口調で言う。三鷹は思わず傍へ寄った。
「……手を握っても良いでしょうか。右手を」
 そう言って三鷹に手を伸ばす。くずおれたままの遠野の乾いた手を三鷹は取ってやった。
「――先生、」
 遠野は再び呟く。握られた手はすさまじい握力で、痺れて痛んだがそうとは言わなかった。遠野の気の済むまでそうしてやった、コウノを思い出しながら。


 結局、三鷹がしたことは祖父の恋の葬送なのか、あるいは前進だったのか、よく分からない。
 だが三鷹は、あれは必要なことだったのではないかと思っている。旅立ちには、誰かが手を振ってやらなければ。行き場のない淋しい思いをひとりで埋葬するのは可哀想すぎる。
 ではおれたちは、と三鷹は考える。誰かが手を振ってやらなければ、と考える前に、手を振る隙さえ与えていない。コウノには正面切ってきちんと好きだと告げたことがなかった。
 あんなに近くにいて。
 あんなに好きでいて。
 母親の帰宅を待たず、「用事を思い出したから帰る」とだけメールを打って家を飛び出した。コウノが引っ越すのは今度の日曜日だ。それまであと四日、コウノの待つ家に帰れる。コウノと暮らせる喜びがあと四日残されている。
 帰ったら目を見て「愛している」と伝えようと決めて、電車に乗り込んだ。
 その後になにがどうなったって。
 旅立つ準備をしてやらなければ。


 End.


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コウノ


 三鷹が白いカッターシャツに黒のタイをかける。普段は作業着ばかりを着ている職業だから、タイのかけ方が分からず苦労している。いくらでも苦労して葬儀に遅れればいいと思った。行かなきゃいい、陰鬱な行事など。
 そういう訳にもゆかないとは百も承知だ。別に三鷹が行かなくて済んだところで、今日コウノがここを出てゆく行事を一件済ませてくるのは変わらない。タイの絡まる三鷹の白い指を見てから、自分の左手を見下ろす。今はなにもない、でも直にここに銀の指輪が嵌る。
 三鷹の祖父が亡くなったのが三日前、火葬場の都合で葬儀が今日になったのは偶然だ。今日、コウノは結婚式を挙げる。中学の頃からずっと付き合っていた幼馴染と、それが当然であるかのように淡々とスケジュールをこなす。
 コウノと三鷹はルームメイトだ。バイト先が同じで仲良くなりルームシェアを始めて以降、社会人になっても続いているパターンだ。それも今日のイベントでほどなく終了する。コウノが結婚相手と借りた新しい部屋に引っ越すからだ。
 どうして結婚したら結婚した相手と一緒に暮らさなきゃならないんだろうな、とコウノは思っている。コウノは三鷹と暮らしていたかった。もうずっと長いこと、三鷹のことが好きだ。そして確かめたことはないが、三鷹も同じくコウノのことが。
 なんで結婚なんかしなきゃいけなかったかな、と当日になってまだ思っている。
「――だめだ」しばらくタイと格闘していた三鷹がついに降参の意味で息を吐いた。「締め方忘れた。なあ、コウノ。見てないで頼むよ」
「せっかく三鷹が悪戦苦闘してるところ楽しんでたのに」
「意地悪い趣味だな。頼む、遅れる」
「遅れて困るか?」
「まずいだろ、さすがに」
 根が曲がっているというか、意地が悪く口も悪いのが本質のコウノに、三鷹は真面目に答える。それでいつもばかばかしくなって、コウノの方が折れる。いっそムキになって煽られてくれればいいのに、三鷹は冷静だ。それが好ましい。好きで、悲しい。
 三鷹の正面に立ち、三鷹の襟もとに手を伸ばした。タイを巻きつけているせいで立っている襟が、三鷹の顎のラインを隠していて妙にそそる。
「新婚ってこんな感じ?」軽口を叩いてみる。
「新婚だろ、おまえ」
「そういうことじゃなくて」
 だめだ。三鷹相手には冗談も通じない。
 職業柄、三鷹と同じぐらいにタイの使用頻度が低いが、ファッションでつける機会があるので三鷹よりはきっと詳しい。そういえばコウノの恋人は、これを上手にやってくれたことがある。共通の知人の結婚披露宴に揃って出席した時だ。あいつ、ネクタイなんか締めないのになと考えていると、三鷹も同じ想像をしたのか「彼女にやってもらったことある?」と訊いた。
 三鷹の太い眉と、力強いまなざしがコウノを貫く。三鷹のパーツの中で一番好きな部位だ。コウノは「まあね」と答えて背後にまわった。
 姿見の前で三鷹に覆いかぶさる格好になる。「こっちじゃなきゃ分からん」
「女ってのはなんで自分じゃ締めないのに締め方を知ってるもんかね」
「おまえみたいな恋人に仕込まれてんだよ」
「は」
 あほらしくて笑ってやった。三鷹のうなじが近い。短い髪、襟足が綺麗なのは昨日コウノが散髪してやったからだ。コウノの職業は美容師だ。人の頭ばかり触っている職業。
 無防備な三鷹のまるい後頭部を見て、その下に続く伸びやかな首筋を想像し、このまま首を締めてやったらどうなんのかな、と思った。
「どうやったらこんなに絡まるってんだ。器用なやつ」
「うるさいな」
「ある意味貴重。――こうだ、こう」
 結局絞め殺さずに綺麗にタイを巻いてやる。それから前へまわる。「それでノットを上げる」
 再び目が合う。三鷹の思いつめた眼差しや引き結ばれたくちびるが、コウノを誘い惑わす。
 眠っている三鷹にキスをしようとしたことがある。未遂で終わった。どうしても衝動をこらえきれずに三鷹の部屋に侵入し、ベッドで寝息を立てている三鷹の身体を跨いだ。覆いかぶさり、顔を覗き込む。すうすうと規則正しい呼吸を、乱してみたかった。
 寸前まで顔を近付けて、不意にぱちりと三鷹が目を開けた。呼吸がそこで止まったのだから「乱してみたい」の欲求は叶ったわけだ。あの時も同じまっすぐな目で、「コウノ」と呼んだ。たまらなくなって「冗談だよ」と言って逃げた夜。
「――もしおれがおまえを式に呼んでたら、今日はどっち優先した?」
 至近距離で三鷹に尋ねると、三鷹は困ったように目を伏せて「どっちも譲れないから、どっちもかな」と答えた。
「冠婚葬祭、いっぺんにやって来るなんて偶然はないだろうな。タイだけ替えてどっちにも出た」
「自分じゃ締められないくせにな」
「言うな」
「良かったな、式に呼ばれなくて」
「でも、行く準備は出来ていたんだよ、コウノ」
 また顔をあげて、三鷹がこちらを射抜いた。
「出来てたんだ」
 そんなことは分かっていた、三鷹のことだから。
 好き同士でひとつ屋根の下に暮らせていた幸福も、それを押し隠して暮らす絶望も、叶わない恋のせつなさも、たったひとつの恋で全部コウノは知ってしまった。
 好きだ、と言えばきっと三鷹もそう返した。身も心もおれにくれよと迫ってみれば二人の恋はすぐに成就したんだろう。でもそれをしないで暮らし続けた五年半。それはコウノに恋人がいたからだし、男同士だったからだし、或いは二人の恋が「そういうもの」だったからだし、いまとなってはもうどうにもできないし確かめようもない。
「どうしておれがおまえを式に呼ばなかったか知ってるか?」コウノは三鷹に訊いた。
「親類縁者だけで挙げるお式だからだろ?」
 やっぱり真面目に答える。そんなわけがあるか、ばか。
 親類縁者だけの式だったとしても、三鷹のことは呼べたのだ。ルームメイトだった、世話になったからと言えば皆歓迎しただろうに。
「おれの晴れ舞台なんか、おまえに見せたくなかったんだよ、阿呆」
「おれは見たかったよ」
「見たい、って言うなら尚更だ。おれがこれからどんな人生を歩むのか、結婚式なら想像つくだろ。つまんねえって思うに決まってる」
「そんなこと思わない。おまえと、彼女とがたくさんの人に祝福されているのを見て、その祝福におれも混ざりたかった」
「……ろくでもねえ馬鹿だな」
 三鷹に祝福されるのは辛かった。三鷹のことだから、熱心に真面目に、真剣にコウノの人生の幸福を願って花びらでも投げてくれるんだろう。その行為がどれほど潔く深く、三鷹の心もコウノの心も傷をつけるか。ナイフでひらかれるなんてやわなもんじゃない。握りつぶされ叩き潰され、それでもまだなお生きている、一生まるい石を投げつけられる打撲の苦しみだと想像する。
 それに三鷹が来れば、昔流行った映画のように、コウノの名を呼んで連れ去ってほしくなる。きっと一度目を見合えば――三鷹はなにもかもを投げ捨てて、コウノを選んでくれる。
「コウノ」想像の中で名を呼ばれることを期待していたので、現実で呼ばれてその重さに身体がびくついた。続いて三鷹の手が頬に伸びる。両の掌ですっかり頬を包み込み、額と額を合わせる。
「……なんのまねだよ」
「こうすると気持ちがいいだろ」
 三鷹の言葉に、心臓がじくんと鳴った。確かに気持ちがいい、三鷹の手が熱くて。
だがこれは一生手に入らないと分かるから、いまある気持ちはすべて無駄な感情だ。絶望的なむなしさを容赦なく知らしめる、残酷な体温。力加減、吐息の触れ方。
「おれの気持ち、いつから知ってた?」
「さあ、いつからだろう」
「おまえの気持ちに気付いたのは、ここに来て二年目ぐらいだった」
「そりゃずいぶんと鈍いことで」
「……はじめから好きだった?」
「ああ」
「でも終わるな」
「ああ」
 コウノがこの部屋から引っ越すのは、次の週末だ。離れてしまえばいよいよ、連絡すら取らなくなる気がする。友情ではなく、シェアメイトでもなく、恋だったから。
 コウノもまた三鷹の手に手を重ね、目を閉じる。喉の奥がつきんと痛む。
 額と額までを触れ合わせる。これがコウノと三鷹の、最大に近付ける距離だった。ゆっくりと三鷹は手を下ろす。
 そしてタイのノットに触れてきちんと身支度を整え、コウノに向き合った。
「本日は誠におめでとうございます」
「は。……そちらはご愁傷様でした」
 本心で言ったのに皮肉みたいな口調になった。三鷹は「うん」と頷き、今度はコウノに触れも振り返りもせず、荷物を抱えて出かけて行った。
 もうコウノも支度をして会場へ向かわねばならない。時計を見る。待ち合わせまであと四十分弱。
 だがコウノは、部屋に立ち尽くしたまま動けないでいる。
 三鷹と暮らした部屋から。


End.



→ 三鷹




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プロフィール
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粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
成人女性に向けたBL小説を書いています。苦手な方と年齢に満たない方は回れ右。
問い合わせ先→kurikoawaduhara★hotmail.co.jp(★を@に変えてください)か、コメント欄にお願いいたします。コメント欄は非公開設定になっています。

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2022*08*11-21
暑いですね。番外編短編、ちょこっと更新しています。

2021*12*04-2022*03*17
お久しぶりです。短編長編更新。
短編「さきごろのはる」
短編「月の椅子」
短編「みんな嬉しいお菓子の日」
長編「ファンタスティック・ブロウ」
短編「冬の日、林檎真っ赤に熟れて」

2021*08*16-08*19
甘いお菓子のある短編「最善最愛チョコレート」更新。
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