あれがどのくらいの値がするものなのかは分からない。ネットで調べた限りでは、遊川貢の作品は圧倒的な技術力とその精神性、そして名のある画家であったのに「辞めてしまった」希少性からコレクターの間では一千万に近い金額でやり取りされていた。そんな絵がなぜ売れずにあの古びた画廊に残っているのかは分からないが、複製だけだったら手持ちの金でなんとか交渉してみようと考えていた。
ようやくたどり着いた画廊は、頼りない橙色のあかりが灯っていた。冬の夜の町は突き刺さるような凍えをもたらし、指先が切れてうまく扉を押すことができない。ショーウインドウにまだある複製にほっと息をつき、体当たりみたいにガラス戸を押し開けた。
「―や、これはこの間の、」
「絵、売ってくれませんか」
いきなりの言葉に老いた店主は絶句したが、眼鏡の奥の小さな瞳をゆっくりと瞬かせると「とりあえずこちらへおいで」とストーブの側へ椅子を引っ張り出してくれた。それでも棒立ちになっていたのは、身体中が冷え切っていたせいだ。ゆっくりと足を動かし、勧められた椅子へ腰かけると、ようやくほどけかけた気がした。
温かい緑茶と、いただきものだという饅頭を軽く火であぶって出してくれた。「こうやって食べるのが僕は好きでね」と穏やかに微笑み、自分も腰かける。しばらく黙ったままだったが、お茶を一口飲むと「絵と言うのはウインドウの?」と本題に入った。
「…そうです。遊川さんの」
「非売品なんだと話したね」
「だから、複製でもいいんです。今ここで20万なら、出せます。あとは、後日ちゃんと、お支払いしますから」
「待った待った、」
店主は苦笑した。話が早すぎるよ、とまた緑茶をすする。僕はそうまでして、絵が欲しかった。だって描かれているのは間違いなく僕だという自信があった。
男の絵など大嫌いなはずだった。圧倒的な画力は、その裏にある人の歪んだ精神を描きだそうとしていて、中には血を模した赤が足元に散る、目を覆いたくなる絵だってあるのだ。気分が悪いのに、でも目が離せない。そして僕は約束を覚えている。「大稀の欲しい絵を描いておくよ、その時は買ってくれ」。
少年の絵は、単なるデッサンの類だろう。独特の繊細な線で描き出される描写力は相変わらずだが、そこには嫌悪していた気持ち悪さはなく、ただ純粋な、遊川貢の原点である気がした。だったらこれが僕の欲しいと思う絵なんだろう。そうだ、僕はこれが欲しい。
買うことは出来ませんかと、再度店主に詰め寄った。
彼はあごひげを撫でながら唸り、「本人の承諾を取ってみてからね」と言った。
「―本人? …遊川さんと連絡がつくんですか?」
「まあ、一応は作品を置いている訳だし。絵を辞めたとは言え、売買に関する契約はあるからね、いくらでも」
慌てないで少し待っていてよ、と店主はカウンターの奥へと引っ込んだ。そこに電話があるらしく、声が切れ切れに聞こえてきた。
電話の向こうに、男。いまどんな姿なのか。相変わらずくたびれているのか。繊細な指先をしているのか。険しい目をしているのか。会いたい?
絵を辞めた、あの人に?
「ああ、ちょっとごめん、きみの名前、なんて言う?」
奥の方から店主の大きな声が響いた。僕は立ち上がり、電話の向こうを見るように、店主を見る。
店主は一瞬だけ、小さな目を大きくさせた。
「国見です。国見、大稀」
「クニミダイキさんだね。失礼、お茶の続きを」
それからまた、店主の姿が見えなくなる。また声が聞こえてきたが、僕は目を閉じた。
なあ、あんたは俺を覚えているんだろう?
約束は?
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「パーフェクト・サイレンス」17時更新中。
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20120124:新連載スタートです。久々に自分だけで長いお話を書いている気がする…(動揺)
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