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成人女性を対象とした自作小説の物置です。
「その荷物で移動は大変だったでしょう。本当に申し訳なかったね」

 ワゴンの運転席で事の次第を聞いた有田が、鶯太郎にのんびりと言った。助手席に美少女が乗り、鶯太郎はわたわたしたまま熊によって後部座席に押し込まれている。

「バスはね、停留所の名前がちょっとややこしいんだよ。鶯太郎くんが降りたのはひとつ手前。―本当にごめんね。大洋がすぐに迎えに行くはずだったんだけど」
「あいつ、どうせ忘れてたんだろ。またバイトか制作?」
「いや、星野くん。嫌になるね」
「最低」

 どうやら、鶯太郎の迎えを「タイヨウ」とやらはすっぽかしたらしい。有田と美少女が評する「タイヨウ」像は最悪だ。きつく叱っておいたからと言われると、それもなんだか申し訳ない気がしてしまう。
 さっきから知らない人と名前がどんどん出てくるので、鶯太郎の頭は混乱しっぱなしだ。運転席、眼鏡の穏やかそうなのが「有田さん」、助手席の美少女が「ヨーコ」で隣の髭で熊が「ナナ」。タイヨウもいてホシノくんもいる。ショーコさんには会ってない。まだ出てきていないメインキャストもいるかもしれない。落ち着こうと目を閉じると、疲労と有田の丁寧な運転に眠くなってきた。
 不意に熊が「眠い?」と訊ねてきた。目がどこについてるかもさっぱり不明なのに、熊はよく人のことに気付く。

「―あ、いえ、平気」
「もうすぐ着くよ。着いたら少し寝ていいよ。あ、おなかすいた? 汗かいてたらお風呂先に入る?」
「いやあの」
「おいナナ、そいつ怖がってるからやめろ」

 すかさず美少女が突っ込む。有田も「うん、やめといてね」とミラー越しに注意する。熊の手はいつの間にかまた鶯太郎の頭に伸びていて、髪はすでにぐしゃぐしゃだ。

「だからかわいいんだってば。一緒に寝たい」
「やめろ変態熊」
「淋しいんだよ! ヨーコちゃん最近一緒に寝てくんないし!」
「てめえが毎朝そのうざい髭剃って美しい寝相でいるならいくらでも寝てやるよ!」
「ああもう、やめ、やめなさい」

 有田がまた制すると、美少女はフンと鼻を鳴らしてそっぽを向き、熊は「ちえ」とあからさまにすねる。鶯太郎に、二人の発言の意味は全く分からない。最近一緒にということは、以前は寝ていたのか? 美少女と熊が??
 そうこうしているうちにワゴンはきつい坂をのぼり、緩やかに停車した。鶯太郎の荷物は熊が引き受ける。どこまでも世話を焼きたいらしく、どこまでも引っ付いてくる。でかい図体で。
 ここだよ、と案内された家は、はっきり言って外観がちゃんと見えなかった。見えないぐらいに大きい。白木で組まれた、和洋織り交ざった建物。この辺はやたらと塀の高い、セキュリティタグの貼られた家ばかりだと思いながら有田の運転に揺られていたが、その中でも特別大きかった。これじゃ屋敷か博物館だ。
 玄関らしい場所の天井が高い。吹き抜けになっていて、終わりかけの夕日がステンドグラスを透かして廊下に鮮やかな影を落としている。「古いだけだよ」と有田は笑ったが、この家で何か壊したらとんでもない弁償額になりそうだと思うと、やっぱり怖い。


  
 

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 駅までは「有田さん」という人が迎えに来てくれる話だった。が、途中で連絡が入り、「急用で行けなくなってしまったけど、タイヨウが迎えに行くから」と言われた。その、「タイヨウ」を待てどもちっとも来ない。約束の時間を30分過ぎ、1時間過ぎ、その間に何度も「有田さん」に問い合わせの電話をしてみたのだが、急用だけあって忙しいようで、つながらない。
 せめて「タイヨウ」の連絡先でも分かればよかったが、こうなっては手段が思いつかない。家の住所は教わっている。こうなったら自分で行ってみようと決めたのは、初めての街を少し歩いてみたくなったのもある。駅からはバスが使えるはずだ。運転手にも確認して、鶯太郎はバスに乗り込んだ。
 でも、着かない。降りるべきバス停を間違えたはずじゃないよな、と鶯太郎は何度も手元の地図と地名を照らし合わせてみる。昼前には着くはずだったのに時間だけが無駄に過ぎて、日も傾いてきて、心細くなる。
 荷物が重い。もう一歩も歩きたくない。歩けば歩くほど遠くなっていく気がする。まわりまわって駅の裏手へ辿りついてしまった時、バスに乗った道のり分を歩き回ってしまったのだと知って、途方に暮れた。
 面倒臭い。眠い。おなかすいた。
 荷物を下ろし、ベンチに腰掛ける。目を閉じればすぐにでも眠れそうだった。実際、眠りかけていた。
 「どうしたの?」とかかってきた声も、煩わしいと思っていた。

「なんか家出っぽい恰好。家出かな?」
「ナナ、連れて帰りたいとか思ってるだろ」
「だってかわいい」
「あのな、なんでもかんでも拾って歩くの、やめろ」

 聞こえてくる男女二人の会話は、どう考えてもおかしい。そのうち「おーいいえでしょうねーん」などと肩を揺さぶられるので、鶯太郎は目を開けざるを得なくなった。
 目の前にいたのは、スーパーの袋に食材をありったけ詰め込んだ男と女。女の方は目が覚めるような美少女で、鶯太郎とそう歳が変わらぬように見えるが、口が悪く、目つきも鋭い。一方で男の方は真っ黒だった。うざったい髪で目が隠れ、かろうじて見える部分は髭に覆われていて、おまけに鶯太郎よりもはるかに大きくて、熊のようだ。
 家出じゃない、と訂正したかったのに、あんまりにもちぐはぐな二人に圧倒されて声が出なかった。熊は大きな手を鶯太郎の頭に置いて、「泊まるとこないならおれたちのとこ来る?」と訊いた。

「だーかーらぁ、なんでもかんでも拾うのやめろってば」
「寝るとこないならおれの布団に寝かすから!!」
「そういうことじゃねぇこのヒゲクマ野郎!!」

 美少女が口汚く罵るのを、鶯太郎はぽかんと見ていた。やっぱりヒゲでクマなんだ、と感心してもいた。こんな口のきき方をするからには、歳は違えども(というか、熊の方の年齢は分からないが)ごく親しい間柄なんだろう。「おれたち」とも言った。兄妹かな、と当たりをつけてみるが、それにも当てはまらない気がする。
 有田くんに聞いてみよう、と熊が美少女のポケットから携帯電話を自分のもののように取り出す。それを聞いて初めて、鶯太郎は声が出た。

「ありた??」
「ん?」
「あの、もしかして白金さんの、――」

 途端に鶯太郎の携帯電話が着信した。うわぁとびびりながら自分の携帯電話を取り出す。ディスプレイには「有田さん」と表示があって、慌てて電話に出た。

『―あ、鶯太郎くん? ごめんね、まだ着いてないって聞いたんだけど、どこにいる?』
「ええっと、色々あって、駅、です」
『あれ? ずっと待ってた? ああもう本当にごめん。僕の用事は終わったからあと少しで―』

 音声は突然途切れた。熊に携帯電話をつまみ上げられ、鶯太郎が止める間もなく応答してしまった。

「もしもーし、有田くんだーってことはこの子、うちの子?」

 あっけに取られている鶯太郎の前で、熊が楽しそうに会話している。大げさにため息をついた美少女に「なんだお前そういうことかよ」と言われる。

「今日から来る同居人だろ? あたしら、お前の歓迎用の夕飯、買い出しに行かされてたんだから」
「えっ? えっ??」
「あ、有田も来た」

 美少女の視線の先、駅のロータリーに銀色のワゴンが停まった。運転席の眼鏡の男は、窓から手を出して合図を寄越した。
 

  



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 結論から言ってしまえば、鶯太郎は道に迷っていた。ついでに言うなら、体力も限界だった。
 こうなってしまったのは、鶯太郎のせいではない。でも、元来が生真面目な性質の鶯太郎は自分を責めては落ち込んでばかりだ。どうして駅で大人しく待たなかったのか、これだけ重い荷物を抱えているなら移動に体力を要することは目に見えて分かっていたのに、とぐるぐると仕方のないことを考えてはだるくなった足や荷物の食い込む肩の痛みにため息をついている。

 鶯太郎の引越しが決まったのは、先月のことだ。
 父親の転勤が決まった。元々、ここは彼の地元ではない。学生時代をこちらで過ごし、偶然にも同じ地元出身の母と出会い結婚に至ったが、ゆくゆくは二人の郷里へ帰るつもりでいた。帰るつもりで、そちらにも支社のある企業に就職したのだ。
勤め出してみれば、父親の仕事は転勤ばかりだった。実際、そういうことが彼には向いていた。どこどこの支社へ出向、1年半、とか、急きょ2泊3日で中国へ出張、とか。そのたびに引っ越したり父を見送ったりしてきたが、とうとう母が焦れた。その矢先にようやく、地元への異動命令が下った。
 前々から頼んでいたことだったので、今後父親の転勤はないだろう、という話だ。もちろん親子3人で帰るのだと父親は思っていたようだったが、鶯太郎は困った。
 鶯太郎が通っている学校は、こちらでは割とレベルが高い。中高一貫校だが高校受験もあって、多くの人数は採らないそこに鶯太郎はひょいっと入れてしまった。その年は実力が拮抗していたから最終的にはくじ引きだったなんて噂もあったが、とりあえず自分は運だろうがなんだろうがそこに入れたのだからいい。それよりも、引越してはさよならばかりの中学時代じゃなくて、今度こそ真剣に付き合える友達を作る。そう決意して新しい制服に袖を通したのだ。
 2年間で、鶯太郎はちゃんと馴染むことが出来た。優秀な学生ばかりで成績が下方から一向に修正されていかないのは頭が痛かったが、その他においてはすべて順調で、初めて学校に行くのが楽しくなった。
 それが親の都合で転校、では鶯太郎の気が済まない。もう自分も幼い子どもではないのだし、鶯太郎はこちらへ残ることを主張した。父親はどうしても連れて行きたかったようだったが、母親の「来年は大学受験も」という言葉があってはうまく言い返せない。

「そうだ、ショーコちゃんに頼もう」

 悩んだ末に案を思いついたのは、母親だった。
 父親も顔をあげ、「そうか、ショーコちゃんなら安心だな」と言う。二人してあれこれと事を進めようとするので、頼むから俺にも分かるように説明してくれと、いつまでも仲の良い夫婦にうんざりしながら頼んだ。

「大学時代の後輩でね、若葉台にある家に色んな人を下宿させてる人がいるの」
「若葉台って、海の方?」
「そうそう。行ったことないけどものすごく広いおうちらしくて、ひとりじゃ住みきれないし管理に困るからって住まわせてるの」
「それが、ショーコさん?」
「うん、ショーコちゃん」

 若葉台と言えば、鶯太郎の学校よりも海の方へ伸びた沿線沿いの、坂ばかりある住宅地だ。それでも今住んでいる社宅よりは学校に近い。何よりも、鶯太郎はこちらを離れたくない。意思を伝えると両親は頷き、早速「ショーコちゃん」に連絡を取った。聞けばつい先日ひとり出たので、部屋には空きがあると言う。
 話はとんとんと進んで、4月から両親は地元に、鶯太郎は下宿暮らしをすべく準備を始めた。荷物をまとめ、大きなものだけ先に送り、会社や家のことでばたばたしている両親にひとりで挨拶ぐらい出来ると言い張って、今日から鶯太郎の新生活が始まる、はずだった。
 




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新年度っぽく、新しいお話です。相変わらず不定期更新かと思われますが。
「鶯太郎」と書いて「おうたろう」くん。
のんびりゆるい感じです。よろしくお願いします。

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 常盤は、この5年間ずっと秋津ばかりを追いかけていたわけではない。恋人がいた。そしてその時期だけ、ぱたりと姿を見せなかった。2年ほど前だったと記憶している。
 そして再び秋津の前に立った常盤は、すっかり秋津の知らない男になっていた。押してばかりいた奴だったのに、今は違う。秋津はと言えば、とっかえひっかえだった。誰かと真剣に付き合ったりもしたが出来なくて、最長で1か月という有様だ。そして薫る身体で色んな男を相手にした。身体の飢えは、ひとりでは慰められない。普段は酒に全く酔わない秋津だが、忘れたいときはとことん溺れ、結果として今朝のような始末である。
 部屋に戻ってひと眠りし、起きてから何も食べずにぼーっとしていた。途中、鞄の雑誌をめくってみた。写真のように描かれたかつての恋人は、こんな顔をあの男には見せているのかというほど、光の塊のごとく存在していた。
 悔しくはない。悲しくもない。ただ、愛おしかった記憶はある。記憶だけに縛られている。

 洗濯物だけはなんとか干し終えて、また寝転がる。ぼんやりしたまま時間は過ぎて、一日は終わる。休日はずっとそんな調子なので、時が止まったようだとも思う。
 急に時間が動き出した。常盤からの電話だ。実は部屋のすぐ側にいると言い、ベランダから下を覗くとビール缶のパックを片手に、もう片方に惣菜のビニール袋を提げて、朝と同じ格好で笑っていた。外で飲むのだと思っていたので、少し驚いた。
 時間的には、まだ明るい。帰宅する小学生の騒ぐ声が聞こえた。
 手招くと、脇の階段を上がってくる。秋津はアパートの扉を開けた。

「―早いな」
「朝早く出勤した分、帰っていいんだよ」
「そんな会社だったっけ」
「いいんだって」

 おもむろに常盤が視線を外へ向けた。秋津も玄関を出てみる。桜が咲いていた。

「五分咲き、くらい。今週末は絶対に花見になるね。今年も場所取りの係かなあ、俺」
「かもね」
「という訳で、先にやっちゃうことにしようかと」
「花見?」
「うん」

 これ持って公園辺りで、と常盤が笑う。
 苦しくなった。誤魔化すために「着替えてくるから待ってて」と言って、秋津は部屋に引っ込んだ。


 特に何をするでもなく歩いていた。ビール缶をそれぞれに持ち、ふらふらと近所を歩くだけ。たまに花が咲いていれば常盤が立ち止まる。そして一言二言感想を漏らすのを、秋津はビールを飲みながら頷いていた。
 雨が止んでから一気に気温の上がった日中だったので、歩いているとじっとりと汗ばんでくる。常盤は上着を脱いだし、秋津は元からカットソー一枚だけだ。薄着になると急に常盤が遠くなった気がした。知った顔知った声をもう7年もやっているはずであるのに、そういえば常盤の身体を、秋津は全く知らない。
 気付けば「触りたい」と秋津は誘っていた。
 口にせずさっさと触れればよかったのにそう言ってしまったのは、本気で触りたいと思っているからだ。
 こんな曖昧な関係はもうごめんだ。

「―だめ」
「なんで」
「俺、あなたが本当に好きだからさ、自分の器でっかくしてる最中なの」
「なにそれ」
「ここに、まだ大稀がいるだろ?」

 とん、と指で胸を突かれた。かつての恋人の名前よりも常盤の長い指にこそ、秋津の芯が疼いた。
 でも半分は事実だ。不承不承頷くと常盤は「な、かなわねんだ、俺」と情けない顔で笑う。

「あいつ、風の子元気な子みたいなやつだったから、影響力が半端なかった。未だにさぁ、考えるわけ。大稀を忘れさすとか俺のものになれとかは多分、違うんだろうなと」
「……」
「でもって俺は、いちいち落ち込んでため息ついてしょぼくれんの。そんなのヤじゃんね。だから、器の生成中」
「…なんの、」
「今朝みたいにアキさん、すぐどっか行くだろ? 行くなって言えないから、せめて帰ってくるとこにいたいの。そういう、心構えの器」

 ふざけたいつもの呼び名でなく、「アキさん」。腹の奥が急に熱くなった。引っ掻き回すのではなく、ゆるやかに包み込まれる。
 腹が立った。そんな高い志などいらない。恋がしたい。愛されるのではなく愛して、心の底から分け合いたい。

「俺のものになれ、…ぐらい、言えよ。……そしたら、お前だったら、おれ、――」

 自分でも驚くほど、声がふるえていた。
 常盤が息を飲んだのが、空気で伝わってきた。

「…ああもう、最悪」
「アキさん?」
「もうやだ。俺、帰る」
「ちょっと待った、やだ、帰んないで」
「帰る」
「ね、嘘じゃない? 本当? 本当にほんとう?」

 踵を返そうとしたら、力強く腕を掴まれる。想像していたよりもずっと、常盤は俊敏だった。
 半分以上残ったビールの缶が音を立てて道に落ちる。声を上げる間もなく、秋津はちゃんと常盤の腕の中にいた。
 俺が好き? と聞き返した声は、秋津が聞いたことのない声だった。切羽詰まった、恋に苦しい掠れた声。力を込めることで秋津は答える。
 脈打つ鼓動の速さが身体に沁みこんできた。気持ちがいい、と思う。知らない誰かとのセックスなんかよりもはるかに、気持ちがいい。
 では知っている常盤の知らないキスやセックスは、どんなに気持ちがいいのだろう?

「―やっぱ帰る」
「ええ!? これで、いま? 俺もうちょっとここで感動してたい、」
「人いるし」
「そうかもだけど」
「お前も来れば」
「――」
「ほら、行こう」

 常盤の腕から逃れ、缶を拾って来た道を戻る。そんな誘い方ないよと常盤は頭をかきむしる。でも、走って追いついてきた。

「俺死んじゃうかも」
「死んだら置いてく」
「嘘、うそ。やだ、絶対死なない。あーだめだ。アキさん、かわいい。どうしよう、好きだ」

 常盤は笑った。秋津も笑う。戻ったらたっぷりキスをしよう、と先ほどの体温を思い出す。久々に熱に浮かされている。あたらしい気持ちで、秋津は常盤の腕を引いた。



End.


前編
 

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 目を開けたら知らない男の顔があり、秋津は興ざめした。またやってしまった。こういう展開には慣れたけれどやっぱり面倒で、うざったい。
 男に気付かれないようにベッドを抜け出て、シャワーを浴びる。どうしてこうなってしまったのか、昨夜の記憶がさっぱりない。思い出したくもなかった。
 鏡で身体のチェックをする。首筋に赤い鬱血痕があり、ますます嫌気が差した。こういうのはマナー違反だ。たった一晩の相手にこんなものを残す男は、ろくでもない。
 不意に前の恋人を思い出した。だいき、と口に出してみる。どこまでも自由奔放で優しくおおらかに笑った恋人とは、2年も続いたのにあっけなく終わった。秋津から去った理由が理由なだけに、気持ちはなくても未だに想うことがある。

 もっと若く相応の男の元に行ってくれるなら、諦めもついた。
 20歳も年の離れた男。

 でも、仕方がないのか、とも思う。秋津の鞄の中には先日買った雑誌が入っている。40歳にして再び描き始めた画家の大きな個展が私設美術館で開催されている、その特集だ。画家の対象はすべてかつての恋人だった。風景画でも静物画でもなんでも大稀に見えた。
 才能のある人。それだけで妬ましい気持ちも、今はだいぶ薄れた。
 ただ、割り切れない。煮え切らない。また恋がしたい、もうしたくない。
 心の中でもう一度名前を呼ぶ。応えはない。

 あれからもう5年経った。
 まだ思い出す俺はただの莫迦だ。秋津はまたため息をつく。

 

 男に引き止められないうちに部屋を出て、知らない街の朝を歩く。昨夜降った雨のせいで霞が発生していて、秋津の身体の輪郭をぼやかせる。以前は発光するように眩いものだった秋津の存在感は、今は一転して危ういものに変わっている。景色には簡単に溶ける、でも薫る。だから余計に本人が思わないものを惹きつける。それを秋津自身は気付いていない。
 路線図を確認して電車に乗り込む。10分も揺られればちゃんと自分の知っている街並みに変わった。今日は仕事が休みだ。だからあんなおかしなことをしたんだと最悪な朝を思いながら電車を降りると、知っている街並みに知っている顔が溶け込んでいた。
 真っ先に飛び込んできた笑顔は、相変わらず明るくてひょうきんで全く歪みがない。ひらひらと手を振られ、つい秋津も手を挙げて応えてしまった。

「アキっちゃん、はよー」
「早いね。仕事?」
「そーなんだよー。好きだけどやっぱやんなるからさぁ、なんか甘いもんでも買ってこうかなーって」
「それでドーナツ」
「と、マフィンと迷ってる」
「なるほどね」

 常盤賢吾は、駅入口にあるコーヒースタンドのショーケースを真剣に眺めていた。中には色とりどりのドーナツやマフィン、ベーグルなんかが綺麗に並べられていた。散々迷った挙句にシナモンドーナツとバナナとチョコレートチップのマフィンを選び、持参したタンブラーにコーヒーを注文する。秋津は笑い、奢るよ、と言ってするりと代金を支払った。
 素直な「ありがとう」が返ってきた。秋津にはその姿が少し可笑しい。学生時代は適当な服ばかり選んで着ていた奴が、今では(スーツの着用義務はない会社だとは言え)ちゃんと社会人の身なりをしている。紺地のトレンチコートにタイトシルエットのチノパン、革靴。案外、常盤は細長い筋肉のつくバランスの取れた身体付きをしていて、よく似合っていた。
 以前だったら、と秋津は考える。背伸びをしてブランド物ばかり扱う秋津の店に顔を出していた頃の常盤は、学生という身分もあって小物のひとつも買えなかった。ただ秋津への恋心を隠さず、会いに来るだけだった。それが今はどうだろう。収入を得て、自分の好みの洋品店で自分に合う衣類が買える。もう無駄に秋津の勤め先に顔は出さない。でも、常盤は秋津が思う以上にしなやかに大人になった。
 やべ、と腕時計を確認する姿は変わらないのに。眺めていたら、常盤は半歩秋津に近付いて穏やかに目元を緩ませた。

「今夜、予定あります?」
「…ないよ」
「飲みません?」
「いいね」
「よっしゃ」

 気温がいいからビールがいいな、と常盤は屈託なく言う。
 店に来ない代わりに、常盤は秋津を誘い出すようになった。恋人なんかではない。以前のようにずけずけと付きまとうこともない。絶妙な距離感で常盤は秋津へ侵入してくる。秋津は、それが心地よくて同時に少し、もどかしいと思っている。


後編
 


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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
オリジナル小説(BL)書いてます。苦手な方は回れ右。
鶯太郎くんののんびり新生活「おやすみなさい、また明日。」17時にのんびり更新中。

****
20120404:樹海カップリング投票始めました。12時間置くと再び投票できます。10月5日までの半年間。コメント及び投票結果は今のところ私(管理人)しか見れません。遊んでやってくださいw
他、こここうしてほしいとかこれこうがいいとかご意見あればメールフォームよりお寄せください。よろしくお願いしますー

20120329:のんびりまったりやる気ない(そんなこともない)感じで新しいお話始めました。良ければー
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