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成人女性を対象とした自作小説の物置です。
遊川貢

 


 その感覚には覚えがあった。砂嵐のように雑音が入る。かと思えば耳に粘土でもねじ込んだかのようにぶつんと音声が途絶える。
 大稀に再会してからだった。画廊の扉を開けて見た背中。あの時すでにおかしかったのだ。
 最初は気のせいで済んだ。済まなくなったのは、上原くんの急襲から大稀がやって来た晩を超えて、迎えた朝だ。
 愕然とした。あまりにも俺は弱すぎた。大稀が「好きだ」と言うたびに後からふるえがやって来て、鼓膜を直接攻撃してきた。砂嵐は頻繁になり、たくさん飛び交うスズメバチにびっしりと貼り付かれて跳ね起きた、最悪な夢の朝もあった。
 かつての少年はあのまま真っ直ぐに育った。変わってると主張して頬を膨らませる幼さも含め、とても潔く嘘のない人間であることが俺にはどんなに嬉しかったか。もっとずる賢くなっていて欲しかった。そんな人間だったら、俺は大稀を想い恋に身を沈めることもなかった。
 太陽は、静かであり続けた俺の生活を一気にひっくり返した。いきなりの豪雨に戸惑っていると、翌日には強烈な晴れ間を覗かせる。凍っていた水面はとっくに溶けて、氷を砕きさざ波を立たせる。そんなのは、困る。どんな思いで俺がこの生活を手にしたか知っているくせに、なかったことにさせられる。

 描きたくて描きたくてどうしようもなくて、描いて自分が滅びる様を想像した。勝手に指は動くし、色や質感は次々と脳内で組み上がるし、雑音は止まらない。数年ぶりにいつかの医者を訪ね、気休めでもいいから「異常」の診断を下してくれないかと期待した。大外れだ。どこもかしこも正常だった。
 また離れへ来るかと訊かれたが、首を振った。この医者ならたとえ俺が働かずとも、不足しない程度に生活させてくれるだろう。でもそうまでして俺は大稀の元へ帰りたかった。そのことがもう、異常だった。
 日に日に大稀は強さを発揮して、流されるままに身を委ねていたら辺りが大稀でいっぱいになっていた。いつの間にか増えたカップや下着、デザイン関連の雑誌に携帯ゲーム機、映画の半券。俺が飲まない飲料水のボトルに焼き増しされた写真。机の上の文具の揃え方もすべて、大稀だった。
 今までの生活はこんなにも簡単に壊れてしまった。だったら、描けばいい。また聞こえなくなろうが極度に見えるようになろうが痛かろうが苦しかろうがすべて俺の身体に起こったことなら俺が受け入れる、と覚悟して出かけた日、上原くんと街で出くわした。
 覚悟したら落ち着いたかと思った砂嵐が、急に湧いた。画材の入った紙袋を落としそうになった。美しい人はずいぶんとやつれていて、より繊細になった立ち姿は恐ろしいほど狂気じみていた。とんでもない美貌だった。

「―びっくりした。遊川さん、」
「今日は店じゃないの?」
「先日、先輩の代わりに店に出たので、振り返って休みなんです。いつもは火曜・水曜と休んでいるので、休日に休みだと変な感じがします」
「そう」

 それきり会話は続かなかった。上原くんとはあのとどめの日以来で、お互いにいま最も顔を合わせたくない人物であるはずだった。
 それじゃで去るはずだったのに、上原くんは俺を呼びとめた。「なんでですか」と言う。

「なんで大稀は、僕じゃ駄目だったのってずっと考えてるんです。答えは全然でない。遊川さん本人を前にするともう、全然わかんない」
「……」
「そんな20歳も年上の人なんか好きになったって、先がない。…絶対に僕の方が、大稀と相性は良かった」

 往来でする話じゃなかった。慌てて近くに広場を探して引っ張り込んだが、上原くんはずっと「なんで」とやるせない表情をしていた。
 耳鳴りが酷くて周囲の音が遠ざかる。だというのに上原くんの声だけがやけに届いてこだまする。
 うるさいよ、と怒鳴りたかった。

「誰よりも大稀と一緒にいたかったのは、僕の方なのに」
「―そうかもしれない」
「あなたが大稀とずっと一緒にいられるわけ、ない」
「うん、―でも、」

 うるさい。

「それは、大稀が決めることだ」
「――」
「いま俺といることが気まぐれでも憧れでも物珍しさでもなんでもいい。いつかの話は、いつか大稀が自分で決める。その時俺のところからいなくなったとしても、あなたと一緒だとしても、大稀の選択だ」

 言って後悔したが、発言を腹の中に引き戻すことは出来ない。あーあ、と自分に呆れていた。やってしまった。こんな啖呵など切ったことがない。これでぼこぼこに殴られたとしても、先にふっかけてきた方はそっちですと言われれば、はいそうですと殴られるままだ。
 上原くんの顔からざっと血の気が引いた。もうこれ以上は俺がなんとかしたくてもなんとも出来ないだろう。今度こそ「じゃあ」と言って、俺はその場を離れた。


  
 

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 部屋に入ってすぐ、貢は「こっちの方がいい部屋だな」と言った。貢の部屋よりも安い分狭い。なんでと問うたら「梅が綺麗だ」と言う。
 引越しの日にメイコが言った通りになった。窓を開けても開けなくてもはっきりと梅が鑑賞できる。開ければ本当に良い香りがする。それをそのまま伝えながら窓を少し開けてみせると、「確かにすごい」と言った。
 途中の総菜屋で互いに好きなものを見繕って買い、コンビニでもつまみと酒を買って、僕の部屋に来ている。実はこれが最初だ。僕は貢の部屋へ頻繁に行くけど、貢は来たことがなかった。絶対に職場と自室だけで完結させる人だった。
 松野とメイコから譲られたグラスと箸を出すと、貢はまた笑った。派手な花柄やアニマル柄が可笑しかったらしい。かつてのルームメイトが使わないと言って寄越したのだと説明しても、まだ笑っていた。
 昼間の3時という時間からアルコールを開け、ただ外を眺めながら箸を進める。坂を上るまではあんなに色々と話していたのに、いざ二人きりになれたらなんだか気づまりだった。
 僕も貢も、買ったくせにお酒はあまり飲まなかった。やはり買ってきたペットボトルのお茶を汲み直すと、そっちの方がよほど飲めた。
 見事な梅の枝に、なんとなく貢の絵を思い出した。図録の表紙にあった、少年の絵の赤。自分の思いつきに図らずもぞっとした。鳥肌を立てたまま恋人の顔を見ると、生気のない真っ白な顔で、貢は僕を見ていた。
 目だけが光っている。獣のようだった。

「―みつ」
「お前」

 発音を制された。ゆっくりと貢の手が伸びる。頬に当たった中指は、そのまま手のひら全体で包み込んできた。
 やっぱり冷たくて、今度こそ身震いしてしまった。

「俺のこと好きか?」
「――」

 驚いた。貢にはことごとく好きだと伝えてあったが、確認されたことはない。そんなことを聞いてくるような人だとも思っていなかった。
 間違えようのない本心を口にした。あんまりにも冷たい手が添えられているから、うまく言えなかった。
 途端に聞いた本人の顔が歪んだ。「そうだよな」とうつむいて、また顔をあげる。今度こそはっきりと伝わった。―情熱のたぎる、恋の顔だった。
 胸が痞えて呼吸が出来なくなった。貢も同じで、せわしく肩を上下させながら体重がこちらに移される。
 抱きしめると、呼応する。激しくくちづけながらいっぺんに倒れこんだ。床木に当たって痛いとかカーテンを引き忘れているとか、まるっきり構う余裕もなかった。
 何回も互いの身体を行き来して、何回も僕は貢の中に入り込んだ。いつベッドまでたどり着いたか定かではないが、やわらかな布団の上で繋がった時には、辺りは真っ暗で互いの輪郭さえも怪しかった。
 こんなに心臓は速くなっているのに、貢だけが人形のように冷たいのが怖くてたまらない。
 引き寄せたら、不安を見透かすようなキスが降ってきた。絡みついてくる舌に僕も絡んで、少しの隙間もないほど猛った身体を押し付けて、また動いた。
 



 気が付いたら、部屋は真っ白くなっていた。
 窓が開いていることを、においで知る。手を伸ばした先には誰もいなくて、慌てて飛び起きる。
 貢はそこにいた。窓を開け、シャツだけを羽織って、背を向けて佇んでいた。
 名前を呼ぶ。でも振り向かない。外はのどかで暖かい光を注いでいて、それに夢中になっているのだと勘違いした。
 全然違った。3回呼んでも振り向かない。ついにベッドを出て側まで行くと、貢はようやくこちらを見た。
 険しい顔でかぶりを振った。意味が分からなかった。

「―聞こえないんだよ、お前のこと、なんにも」

 7回目に呼んだ名前に、貢はそう答えた。
 聴覚をなくしているという事実を、いつまで経っても受け入れられなかった。


  


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 引越しが終わって、大学はとうに春休みで、帰るべき家というものは特になくて、仲間のように旅行へ出かけるとか就職先に挨拶へ行くとかそんなのも、ない。
 とりあえず僕はバイトに没頭していた。そうでもしないと、貢の仕事先にも押しかけてしまいそうだった。15分おきに電話をかけて存在を確認したかった。
 それに、金はこれからも必要だ。卒制で奨励賞も取れたし、家庭事情を考えれば多分春からの奨学金も通るとは思うけど、ひとり暮らしに切り替わった分だけ余計に必要にはなっている。特に光熱費や食費は3人できっちり等分していたから、ひとりになるとどれくらい切りつめられるのか或いは使ってしまうのか、手探りな状態でもあった。
 居酒屋のバイトのシフトは変わらなかったが、店長の紹介で姉妹店のランチタイムのウエイターなんかしていた。僕のバイト先は居酒屋と言ってもちょっと敷居の高いもので、個室制だし、料理も酒も高い。(でもめちゃくちゃ美味い。)その姉妹店はやっぱりお高いイタリアン創作料理の店だったが、ランチメニューは比較的安いので、昼時は案外気軽な店となり、よく混んだ。
 誰の血かは分からないが、僕は物覚えがいい。人の顔と名前は一発で覚えるし、中学の国語で覚えさせられた古文は今でもそらんじることが出来る。そして人見知りをしない。おかげで新しいバイト先も早くになじむことが出来て、戦力として重宝された。
 まかないのあるバイトは助かる。これで居酒屋と合わせ一日二食は浮いた。制服をきちんと洗ってアイロンをかけておかなければならないのが面倒。当面はふたつの制服を毎日洗濯しなければならない。そんなことを考えながら着替えていたら、携帯電話が震えた。びっくりした。貢からだった。
 メールも電話も自分からはまずしない人だ。何かいいことがあった、というよりは嫌なことがあった方を連想してしまったぐらいだ。ばたばたとパーカーを引っかぶりながら、狭い従業員出口を出る。厨房の方から「うるさいぞー」と笑われたが、それどころじゃなかった。
 電話の向こうから「おまえ今どこ?」と声がした。屋外に備わっている階段の手すりからよくよく下を覗き込んでみれば、見覚えのある立ち姿が耳に電話を当てていた。
 とっさに「貢!」と叫ぶと、そこらを見渡していた顔はちゃんと僕を見上げてくれた。

「―びっくりした。どうしたの?」
「その恰好、ひょっとしてバイト終わり?」
「終わり。って、なに、バイト先まで来てくれたってこと?」

 カンカンと音をさせて慌てて階下へ降りた。貢は照れもせず、「ビルの中に入ってる店って行き辛いよな」と穏やかに笑った。 

「貢、今日は用事があるから出かけるって言ってなかった?」
「用事が終わったから帰って来たんだよ。まかないが美味すぎるっていうお前のバイト先はどんなもんかなと、思ったんだけど」
「もう30分早かったらランチタイムに間に合ったな。惜しかった。今日は特に混んで、終わっちゃったんだ」
「春が近いせいかな。出歩く人がみんな華やかだ」

 言いながら貢は空を仰ぐ。視線の先に、満開になった梅の花があった。
 しばらくそうしていたが、ふとこちらに目線を戻して「ちゃんと着替えてこいよ」と笑った。
 なんだかおかしかった。こんなにあまい笑い方を、貢はしない。

「夜もバイトか?」
「いや、今日は休み。待っててくれる?」
「いいよ」
「じゃあ、すぐ着替えて荷物取ってくる。一緒に帰ろう」

 嬉しさと奇妙な不安とで貢の手を取ると、冷え切っていた。
 指先に小さな傷でもあるかのように、貢は一瞬だけ顔を歪ませる。でもそれをすぐに笑顔で覆い隠して、頷いた。


  


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 貢は時々、耳を塞いでじっとしていることがある。この癖は昔から見ていたから、今更どうこう思わない。手のひらを両耳に押し付け、ただじっとしている。開いた目は何も見ていないんじゃないかと思うくらい、焦点が合っていない。
 それが最近は少し、違う。確かめるように耳をとんとんと叩いてから、塞いで、目を閉じる。そうやってじっとしている。以前は確かに視覚を引き出そうとしていたのに、今は何もかもを拒絶しているように見える。

 今日もそれをやっていた。陽だまりの中でそうやっていると、この人は溶けてなくなってしまいそうだと思う。こんなに儚い人ではなかった。前はもっと、エネルギーのある人だった。
 春の淡雪、とでも言うんだろうか。昨日の夜ほんの少しだけ雪が舞った。朝日が昇ると瞬く間に消えて、今はこんなに気温が上がっている。幻みたいな雪だった。
 貢は、そんなもろさを持っているように見える。描いていた頃、描き終えて床に転がっているだけの貢を何度も目にしているけど、最近はいつもあんな感じだ。何もかも吸い尽くされてかけらも残っていないよと、薄い存在感で言っている。
 輪郭のなさにぞっとした。引き戻したくてシャツの裾を引っ張ったら、貢はようやく目を開け、僕を見た。

「―どうしたの? 怖いよ、なんか」
「ああ、」

 それきり黙りこむ。広く開いた窓ガラスに背を預け、また目を閉じる。
 入ったばかりのコーヒーを持って隣に腰を下ろすと、眉間を指でもみほぐしながら「うつつを抜かしてるんだ」と言った。

「うつつ?」
「いかれてんなぁ、と思って」
「何が」
「俺が」

 カップを渡すと、受け取ってくれた。一口だけ飲む。のど仏が動くのを僕は見ていた。

「お前、いるだろ、側に」
「いるよ。どうしたの?」
「それがなんか、昔に戻ったみたいで変な感じがする。うわっついてんだ、あの頃みたいに」
「……思い出すってこと? 絵を描いてた頃」

 うわっついた顔には見えなかった。それは僕の方で、僕みたいなやつのことを言うのだ。
 貢はそうは見えない。僕の倍も生きた人の余裕なのか元からなのかは、分からない。感情が表に出にくい分、余計にそうだった。
 ふ、と笑って、貢の指が僕の顔に伸びた。先ほど自分にしていたように、眉間をぐいぐいと押してくる。

「お前が心配することは何もないよ」
「……」
「あのな大稀、俺が絵を辞める辞めないで痛かろうが苦しかろうが、お前は分からない。分かんないでいる方がいいんだよ。俺はこうやってのんきに暮らして歳を取ってく方を選んだんだから、お前がいまここにいるっていう事実に、ちょっとびびってるだけ」
「嘘だ」
「ん?」
「分かんない方がいいなんて、嘘だ。少なくとも俺は、貢のことならなんでも知ってたいのに」
「――」
「なんでそうやって距離を取んだよ」

 はっきり言えばショックだった。貢が痛いのも苦しいのも僕には分からない、と言い切ってしまうことが。ささくれ立った気持ちを凪ごうとしてコーヒーをぐいぐいと飲んだ。僕には少し苦いコーヒーだった。
 しばらくして「ごめん」という声が隣からした。子どもみたいに、貢はそのまま身体を僕に預けてきた。

「ずっとひとりだった癖だな。悪かった」
「ひとりだったとか言うなよ。俺、いたろ、ちゃんと」
「……」
「途中8年くらい抜けちゃったけど、隣にいたろ」

 ちゃんと顔を見たら、あっけにとられたような貢の顔があった。一度歪んだ顔は、そのまま笑顔になった。眉尻の下がった、仕方ないなという風の、情けない笑顔だ。
 少しだけ輪郭がはっきりした気がして、僕はようやくほっとした。

「お前の素直で生意気なとこは、本当に変わんないな」
「じいちゃんが大雑把に育てたせいだ」
「そうだ。うん……初めて絵を見せた時も、こんな絵だいっきらいだって、俺に言ったんだ、お前」
「そうだっけ? いつの話?」
「そうだよ。もう、……15年ぐらい前になるのか」
「25歳の貢」
「そう、大学院を出たばっかのな。…お前はちびですばしっこいだけの、」

 手で、身長を示して見せる。それからぽつんと「本当に変わんないな」と言った。

「こんなにでかくなったのに? 何も変化ナシ? 俺」
「褒めてんだよ」

 しまいにはくつくつと笑いだした。貢だけが納得して、僕には何も共有されない。そういえば以前もこんな風だった。ちびだ生意気だと馬鹿にされて、あの時は余裕の目で見下ろされていた。
 今は違う。そう知らせたくて、わざと乱暴に身体を押し倒す。
 床の上に倒れた貢は、まだ笑っていた。

「変わったよ」
「変わんないよ、全然」

 くちづけてもまだ、そう言われた。


  


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拍手[37回]

 僕に取り分けられたピザは、一口目はエビとチーズが美味しかったのに、二口目には口いっぱいのカスタードにむせた。メイコが食べたところには梅干しが練りこまれていたらしい。常盤が口にしたサンドイッチの具材はあんこといちごで、でも割といけるかもしれないと神妙な顔つきで食べていた。味覚音痴の松野だけがパイナップルもバナナもチーズもケチャップもいっしょくたに平然と腹におさめていった。
 そのうち、卒業式は何を着ていくかという話や、春からはどうなるのか、という話になった。メイコは実家に戻るし、松野は自転車で旅に出たいとか抜かしているし、常盤は個人経営のデザイン事務所に就職だ。本当にばらばらになる。
 腹がくちくなる頃には松野は人のベッドで勝手に寝ていた。メイコはバイト先の送迎会があるからと一足先に帰り、山のような洗い物を常盤と二人で片付けた。案外、常盤は手馴れていた。次々と白くなっていく皿を、僕の方が拭ききれなかった。
 ふと、「アキっちゃん」と、常盤が呟いた。
 隣を見る。常盤はずっと手元に集中していて、こちらを全く見なかった。

「本当にどうしてもだめだったんか」
「お前の言った通りにしただけだよ、俺は」
「別れろって頼んだんじゃないって」
「…一緒だよ。秋津には、あれが俺の精一杯」

 きゅ、と音をさせて常盤は蛇口を止めた。
 怒っているようで、泣きそうな顔をしていた。

「俺さぁ、だめだ」
「何が」
「こういう時、憂さ晴らしでもなんでもいいから、アキっちゃんの慰めになれたらよかったのに、違うんだって。……俺は、違うんだって」
「……」
「なんで本当に好きな人と、好き合えないんだろう。……数かぞえたら、片思いの人間の方がよっぽど多いよ、絶対。―俺、本当にお前のこと殴り飛ばしに行こうと思ってた。もう俺がすっきりするだけでもなんでもいいから、とにかく一発って、」
「…うん」
「でも、あれ、」

 常盤が顎で方向を示す。大切な絵だから一番大事に出来る場所をと考えて、絶対に陽の射さない玄関に吊るした素描を常盤は言っていた。

「あれ見ちゃったら、だめだった」
「……」
「クニのことを本当に好きな奴が描いた絵だって思った。お前だってあの絵あんな大事にして、あんな顔つきして見るんだって……なんで俺、当事者じゃないのにこんなに泣きそうなんだろう」

 肩を震わせて、常盤がそう言った。僕は何も返せない。ただ絵のある方を、見ていた。
 やがてまた水音がし始めて、常盤は洗い物を再開した。僕も皿を拭く。ただ、隣り合っていた僕と常盤は、同じ絵を背にして違うことを考えていた。常盤はきっと秋津のことを、僕は貢のことを、思っていた。
 いい奴すぎる。そんなのは、僕だって憤れない。やり場のない気持ちっていうのは秋津も、常盤も、ひょっとすると貢にも、あるんだろうか。
 僕も無性に泣きたかった。


  


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この会話、多分松野くんはこっそり聞いてる。

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プロフィール
HN:
粟津原栗子
性別:
非公開
自己紹介:
オリジナル小説(BL)書いてます。苦手な方は回れ右。
鶯太郎くんののんびり新生活「おやすみなさい、また明日。」17時にのんびり更新中。

****
20120404:樹海カップリング投票始めました。12時間置くと再び投票できます。10月5日までの半年間。コメント及び投票結果は今のところ私(管理人)しか見れません。遊んでやってくださいw
他、こここうしてほしいとかこれこうがいいとかご意見あればメールフォームよりお寄せください。よろしくお願いしますー

20120329:のんびりまったりやる気ない(そんなこともない)感じで新しいお話始めました。良ければー
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